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預言とはその時々の現代社会批判

「日本は駄目になるとばかり言っているやつは劣化している」と指摘することは、「政府の回し者」なのか問題についてのコメント (youtube.com)

 茂木先生が、YouTubeもコメントを通じて双方向型対話をするコミュニケーション・ネットワーク(拡張脳=社会脳)の実験の場にされようとしているというは、素晴らしいと思います!その中で、この動画のテーマに関連する様な思い付きをコメントさせていただきます。

 対話的原理としては、テーゼ:アンチテーゼ:ジンテーゼと弁証法過程を繰返してアウフヘーベンの高みを目指すことを考えると、とりあえず極論を提示するのもありかもしれません。
 そしてそこから、「ダメになる」→「どうだめになるのか」→「斯く斯く然々」→「それをどうすればよいのか」・・・、と言う産婆術と言われるソクラテス的問答法も有効だろうと思います。

 また、社会批判というようなことについて、象徴的な例として思い浮かぶのは、『旧・新約聖書』の記事です。
 先ず『旧約』では「預言書」がそれにあたります。原則的に幾つもの「預言書」は、成立していた当時の古代ユダヤ(イスラエル)王国の社会・政治体制への批判を纏めたものになります。よく示されることですが、日本の漢字で「預言」と記し、「予言」ではないというのは、ただ未来の事象を「予め言う」のでなく、神から「預かった言葉」を伝えることだとされます。ヘブライ語の原語では「ナブー」=「ぶつぶつと泡を吹く」と預言者の容貌の意味もあるようですが、現代語のナビゲーションに繋がる意味を持ち、「導き教える」ことを表現します。預言者達は、ユダヤ民族統一原理であるヤーウェへの信仰が蔑ろになっていないかと、民衆にそして王様にも訴えたと物語り、『旧約』が編集された紀元前5世紀のバビロン捕囚時代に、国が無い状態の原因を伝えようとのストラテジーで纏められたとされます。
 また『新約』のイエスやその共同体、さらにパウロ等は、ローマの傀儡政権になっていたユダヤ王国において、形骸化した救済宗教の教えを、この場合は『旧約』とは違って民族・国家の問題ではなく、社会に忘れられた個々の一人一人の苦しみ寄り添って説きました。これも形骸化した社会への批判であるといえます。そこに『旧約』の預言の姿が見られるともされます。(マホメットは、イエスも預言者としました。)

 こうしてみると、社会に対して批判をするという姿勢は、預言者の姿をイメージさせます。「王様、このままの政治をしていると、国が滅んでしまいます。対処してください。」という様な批判が、そこで伝えられたことになります。  このような社会批判と、上で見た対話的原理に基づいた産婆術によって、現代の預言者の活動も成立すると思います。

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