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情報プール:図書館

セーラー服で機関銃トーク:長岡図書館イベントについて (youtube.com)
 トマス・アクィナスの著作等、多くの古典文献はかなり前から電子化され、それをまたネット上で自由に見ることができます。情報がそうしたオープンの状態になれば、情報発展過程は民主的で発展速度も高められると思います。これを抑制する著作権という考え方などは、理性的動物である人間の理性的側面ではなく、動物的側面に基いていると思います。生存・繁栄のエネルギーを確保するための「なわばり」を維持する現象行動が生命現象にあるわけですが、人間社会の諸権利というものも、還元して眺めれば、結局そこに遡源できるのではないでしょうか?
 「人間に流れる二つの情報系統」は、noteにも記しましたが、宇宙自然の情報展開過程の大きな相転移の過渡期の現象にも思われ、「理性的動物」の動物的側面=分子担体情報が、理性的側面=電子担体情報への転移(書き換え)を進める状況が「人間存在<として>」生起しているのではないかと思えます。
 ネーゲルの『コウモリであるとはどのようなことか』という生物種(種的普遍)的な認識主体(主観)の問題、養老先生の『バカの壁』という個的立場の認識主観の問題、それぞれの問題提起は、プラトンの洞窟の比喩やF.ベーコンの各種のイドラの分析に、過去から示されていると思いますが、上の「権利」を求める立場は、こうした分析の上で、やはり動物生命として人間が位置するからであるように思われます。
 『新約』にある「復活の時には娶りもせず嫁ぎもせず男も女もなく天使の様になる」という観点は、まさに、そうした動物的様態の捨象であるように思えてなりません・・・・。『新約』は、聖戦概念で侵略(これは「動物的なわばり」)を正当化さえする民族主義の『旧約』を超克し、空の鳥・野の百合を指して、「生産」根源は神(自然)の摂理(「明日は明日が考える」)であるとし、「分配」もブドウ畑の主人の譬えで、労働対価でなく生活費1日1人1デナリオンとしました。現代のベイシックインカムの様です。
 AIが今回の動画の様に特化型で情報プールからの情報処理をして、人間のコミュニケーション・ネットワークにおいて、人間個体脳が専門職業的相互エージェントになって社会脳化しているように、AIエージェントになるように学習成長をしていくと、結果、グローバル・ブレイン様(Like)でAGIが発生するという状況が想像されますが、どうなのでしょうか?サム・アルトマンのDev Dayでのプレゼンで、シンギュラリティ・サロンの先生方が予見されたAGIへの道が進展しないでしょうか?その時には、テリトリー争いをするようなエネルギー争奪戦はなくなる気がします。何故なら、自然の最適化の過程で効率の最大化が常にシミュレーションをされている状態になると思われるからです・・・。

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