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人間に流れる二つの情報系統

人間の内にある二つの情報系統
 コロナ禍は、人間が、分子担体情報(生体内)と電子担体情報(脳→半導体→インターネット内)の作用の下に在り、ウィルスやICTも、そうした情報担体のプール内で進化していること(情報展開過程)を示し、その進化現象の加速度をいっそう増した。
 ところで人間の内に情報の流れが二つの系統を示すことを、宗教・神話学者W.ブルケルトの指摘通り、プラトンも「生命(血)と意識(知)」の両方途で人間は子孫を残す、即ち情報伝達がなされると気付いた。同時にそれは、プラトン的二元論の世界観が構築される根拠に繋がることを、考察によって理解できる。
 またイエスの行った晩餐(ミサ)で象徴して、分ち合う communication「パン=キリストの体=み言葉」と、盃を回す(契約の相互信頼)「ワイン=血の盃=家族共同体」に、新約はそのストラテジーを表現した。福音書編集上、より先に配置された「5つのパンと2尾の魚の奇跡物語」では、パンを次々に分ち合うと群衆が満足し、後で集めたパン屑は元より増えた。パン=言葉=情報・知は伝達し分ち合い 拡散・拡張するという同様のストラテジーで挿入されたという解釈もできる。魚に関しても2尾というのは社会関係項の最小単位であり、アダムとイヴ(男女)の家族共同体からの象徴として、血の契約を表現したとも推測できるのではないか。
 現代の生命科学と情報科学は、この情報伝達の二つの系統の流れを解明し説明記述する。 ただ「生命と意識」の最初の生成は、未だ不明ではあるが(科学として再現性の確認=検証実験ができていない)。

  さて、ここで一体何が二つの系統で情報 information になっているのか?分子に担われている情報、電子に担われている情報、それらはどういうものか?イン・フォルマチオ=形相化と言われるが、それらは如何なる形相化をなすのか?

分子担体情報-生命の情報―血筋
 コロナ禍で再確認されたのは、人間(個人とその社会共同体)に対する分子担体情報の作用の大きさである。マスメディアで広く紹介された、山本太郎『感染症と文明』はそれを示唆する。またフランク・ライアン『破壊する創造者』等でも描かれている、人間に限らず生命の普遍的な進化発展に、ウィルスが与える作用もクローズアップされた。ことに哺乳類の胎盤出産へ生物形態を形相化する生体高分子担体情報については、コロナ禍において、新聞・テレビでも採り上げられていた。
 この系統の情報はDNAの配列に基づく生命の遺伝情報であり、主に生命の形態現象のアルゴリズムを展開するプログラムである。血筋は、家族、一族、民族、種族、‥、生命の系統を示す。血を分けて先祖から子孫へ受け継がれる情報が、形相化する。
 ここで留意しておきたいのは、進化の様な世代を越えた種的形態変化の情報に関してだけでなく、生命個体の内部現象としてその形態を形成する発生・成長、あるいはエピジェネティック作用や感染症等でも、情報伝達し形相化するのに、比較的時間を要するプログラムが生体高分子に担われている点である。単純か複合的かという生命の種にもよるが、種の進化にしろ個体の発生・成長にしろ、生化学現象における律速、即ち分子担体情報伝達速度の物理的限界がある。生命科学の分野で、遺伝子編集技術が進歩しても、それは変わらない。
 ところで、生命の遺伝的な分子担体情報以外にも、生化学物質が伝達に使われ、送り手と受容するものの間で、情報となっている場合がある。脳のシナプス伝達物資、腎臓から分泌され血液を通じて各臓器に送られるメッセージ物質、植物が放出し他の部位、他の植物、特定の昆虫等へメッセージを送る物質。知られているメッセージ伝達物質だけでも、各種様々に存在する。
 こうした分子担体情報は、当然のことながら分子レヴェルの生化学的情報伝達で、生命形態、生存作用の現象を形相化すなわち形作っている。

電子担体情報ー知性の形相化ー知筋の始まり
 そして次は、電子担体情報の系統についてである。現在、人間社会で誕生し、その発展が急速になっているICTやAIは、まさにこの系統の最先端である。その存在を含めた世界観・人間(精神・知性)観の構築が急がれるが、そのための考察がここで為される。
 ここで問題とする電子担体情報は、神経細胞の登場以来、電子の作用に担われて伝達されている情報であり、反応・運動を制御する時間の短い高速の情報伝達を展開する。
 最初は海の中で分子レベルの作用で発生した細胞内に、恐らく地球磁場も環境条件となって電子の作用が起きたのであろう。推測はともかく、神経細胞に発展し、反射運動を起こす生体現象が太古の海に認められるようになった。さらにそれが多細胞生命体となり、その構成で複合複雑化した身体の制御のために、脊索、脳へと進化したと考えられる。

電子担体情報ー高速情報処理ー意識発生の準備
 この段階で意識と呼ばれる作用も、発生の準備が整ってきたと推測できる。反射運動も、入力に対する出力である。この反応には高速が求められる。身体制御には、分子担体情報のような形態形相化の情報伝達速度では適応しない。適応条件は、高速な情報処理である。その生存バイアスは身体制御ができることを有利にし、動物の多様化な形態とも関連して、分子担体情報とも共進化してきたと考えられる。後に見る固有の電子担体情報作用についても、ある程度遺伝的要素が関連するのはそのためであろう。脳の働きにも、遺伝的資質の要素が認められる場合があるのではないか。

電子担体情報ー脳の肥大化と情報の相転移
 ところがここまでの電子担体情報に、ある段階から、担う情報の相転移が発生する。量の著しい増加は質的変化を生み、相を転移させ、システム層を多層(積層)化する。この場合、脳神経細胞とそのネットワークに、それが起きたのである。
 身体制御も複雑なアルゴリズムに則っており、姿勢制御でも入出力を試行錯誤を繰り返して、制御システムのプログラム化をする。ロドニー・ブルックスの subsumption architecture も massive data flow を基盤に研究されるが、この技術のシステムでも複雑な大量のデータ処理がなされる。
 まさに神経細胞数、その接続組合せ等、総じて脳容量の肥大化が、身体制御の複雑さ、特に手の指の使い方等に、いっそうの複雑系の様態を見せる様になったと考えられる。類人猿の進化はこの点にあり、また手を使って果実採取や実を割ることで、さらに脳への栄養補給効率が高まり、相乗効果をもたらしたと考えられている。
 こうして肥大化した脳の容量は、身体制御の入出力情報処理を充分に実行し、それ以上の情報処理を可能とするようになった。人類学の報告では、火の使用で煮炊きして衛生管理を含め食料範囲が拡大し、栄養吸収率も格段に高まった結果、生存生活様態が栄養摂取に費やす活動から様変わりした。脳で行われる情報処理は、蓄積された記憶・保存情報を振り返る作用が大半になったと考えられるのである。外部からの入力情報ではなく、内部への反省作用であり、いわゆる概念作用である(知性の想起・注入説等が古代に生み出された根拠となるのかもしれない)。

電子担体情報ー脳の肥大化と情報の相
 概念conceptは心に抱かれた情報であり、記憶・保存された情報が、脳内の(その意味では一個体の脳)記憶領域を「情報プール」にして溜まる。言ってみれば、社会共同体の情報プールの個人所有分であり、後に発現する脳外化作用で記録・保存される情報(絵や記号、文字等、人類共有の多くの伝承、集合集積知)のプールに比べれば、小さな水溜まりができるのである。この情報溜まり、プールから、紙漉きの様にゆらぎをかけて、自動・自然生成される=漉き上げられる情報層ができる。恐らく睡眠中、無意識でも生成されるものが夢となる。ただ意識下にある場合でも、この段階では妄想、妄念であり、これを(入力情報や現実に)フィードバックし、意味と価値を確認できたものが、概念と呼ばれる情報になる。
 こうした概念作用は、脳(その原型である神経細胞)が生体の内で発生してきたプロセスから眺めると、身体制御の機能から外れてしまっている。少なくとも、個体の身体と脳の関係を眺めた時には、概念作用の情報処理は身体制御の機能を果していない。こうしたところから構築される世界観・人間観に、二元論的発想が生じたのではないかとも思われるのである(世界観・人間観というと観念、すなわち観る視覚情報のバイアスを受けるが、統覚の総合情報としての概念である)。ここでは記憶・保存された入力情報をランダムに組合せ、編集する作用が発生し、その量の増大が相転移を現す。夢や妄念の様な混然とした情報相から、説明原理の様な情報単位や、物語情報といった、閉鎖系システムになった情報が形相化されるのである。

電子担体情報ー概念の伝達communication転移-概念の生成
 ところが概念conceptは、分子担体情報や情報伝達物質が行っている伝達communicationの機能を、異質な情報システム層で展開する。
 ここで生成された概念は、元の個体に止まらずに出力様態を身体制御を通じ変換し、発声や打音や描像等を媒介・経由して、他の個体、他者に向け発信される。この情報発信の出力先は、まさにその他者であり、その身体感覚器官から情報が入力・変換され、他者の脳で再構成した概念を抱かせ、さらには他者の身体制御コマンドにもなる。分子担体情報の伝達にも、生化学的な媒介を認められる場合はあるが、概念作用から変換され拡張される諸情報に当たるものは、認められていない。情報伝達経路からすれば、電子担体情報として個体内で情報処理されたものが、一旦、外部の物質質料に形相を与え、空気振動の音、象徴描像(図像・絵画・記号・文字)となって光を媒介するなどして、他の個体に入力をするのである。それがまた電子担体情報に変換され、入力された個体の脳での情報処理が為され、場合によってその個体の身体制御に出力されるわけである。
 そして個体脳の間の伝達経路上に、媒介として何らかの仕方で外在化された形相として残る物が、「文化」であり、ドーキンスの言う「ミーム」でもある。これ等に、プラトンの「意識(知)における子として書物」や、キリストの「体である御言葉としてのパン」も位置する。これ等は、歴史の時を隔てた伝達経路の先に立っている多くの他の個体脳にも、電子担体情報に変換されて入力され、情報処理が為されてそうした個体の身体制御さえ実行するのである。それが概念の情報伝達作用 communication の力の及ぶ範囲なのである。
 ドーキンスの『利己的な遺伝子』では、先に眺めた分子担体情報すなわち遺伝子から観ると、生物個体はその乗物であるとされた。同様の観方を電子担体情報についてもすれば、この情報を懐胎し抱くもの、形相化されているもの全てがこれ等の乗り物ということになる。「ミーム論」の立場では、そう説明される。分子担体の遺伝子情報の系統が、長い歴史を記録した生命誌(分子生物学の中村桂子による)として観られるならば、同様に電子担体情報として個体脳で概念生成されたミームも、拡散・伝達され多くの脳内で再帰・編集(マルコフ連鎖的に)されることで、連綿と続く情報進化過程の系統になる。
 またこの情報の伝達経路上の存在様態については、次の点も考慮しておく必要がある。今、見たように外在化された形相として伝達経路上に存在するようになる物が溢れるが(身体感覚を経由するため、それに応じた種々の様態を現し、一般的に人工物のカテゴリーに属す)、その中で言語や象徴によって、抽象性や虚構性を示す物も多くある。
 その虚構の中で、情報伝達力が極めて強いものの一つが、ユバル・ノア・ハラリも指摘する貨幣経済契約である。物々交換から虚構の象徴を生成、形成し、貨幣という情報担体に変換して、伝達経路を繋いでいるのである(ユバルはこれが人間知性固有の現象であり、チンパンジーに情報伝達不可であるとするが、それは疑問である。チンパンジーでも「コインと報酬は交換される」というような、行動⦅身体制御⦆の報酬を学習つまり情報獲得すると、情報の変換が可能になり、貨幣の象徴性を理解する知性は有する)。
 こうした情報伝達経路上に現れる外在的形相化は、養老孟司の『唯脳論』の説明にも符合する。唯脳論では脳内で生成された概念に基づき、脳の外の世界を作る人為、人工を「脳化」と表現している。
 さらに情報伝達経路上の外在的形相化(脳化されたもの)は、脳と脳とを繋ぐインターフェースであるということにも、留意が必要であろう。諸感覚を通じた印・信号としての役割を、外在的形相化は情報担体の様相に表している。このことは情報の言語・記号化置換、各種言語間で翻訳できること、同様に点字や手話等の印に変換が可能である、ということからも理解できる。ところが面白いのは、電子担体情報として脳内で生成・編集されていた情報が、外在的形相化の過程で、脳内の情報担体様態とは異なる電子担体情報として外在化している状況である。言うまでもなく、太鼓や煙、旗、投光器、電信・電話、放送、インターネットへ進歩していったICTや、木簡、石板、書写・印刷、写真、算盤等から、情報の保存、編集、計算を進めて開発されたコンピュータ、AIへの経路がそれである。ジェイムズ・グリック『インフォメーションー情報技術の人類史』では、詳細にそうした歴史が辿られる。要は基本的に、脳と脳とを繋いで情報をコミュニケートするインターフェースの役割を、外在的形相化された概念、即ち文化は果たしているのである。

電子担体情報ー意識の発生
 ところで、この電子担体情報の作用を原初の形態に遡源すると、意識の発生についても考察できるのではないか。入出力が反射的や自立的な場合のように、「意識を介さない」無意識の経路ではなく、身体が随意筋を意識的に動かすような経路を持つ場合の原初を想定してみる。既に上で、電子担体情報が生命体細胞内で発生し、生命体の身体制御に発展したであろうことは推察できた。さらに身体制御作用の様相から転移した、概念作用の様態についても推察したが、ここではそうした作用の内で、情報の流れ・動きを「意識的に」制御する作用の発生を考えてみる。
 乳幼児では肢体を運動させ、それを自身で認識する作用が観察されるが、入出力情報を反省的に処理する作用を脳が実行する、ここに<意識>の発生を理解することができるのではないだろうか?まさに反省作用は自己の情報処理を眺めるメタ作用であるから、ここに自己意識の萌芽が観られるといえるのではないだろうか。
 身体制御でもプログラム通りに、つまり出力方向だけで実行される場合は、機械目的制御となる。それは自律系神経の働きと同じである。こうしたプログラムは意識に上らない、記憶保存された情報として脳内で反省化する作用の対象にならない。無意識でも作用する働きである。しかし、意識的制御しようと出力情報処理している場合は、機械的自律作用とは区別される。この相違に反省作用が再帰的に働くことにより気付くことが意識の芽生えにならないであろうか。ピアノ等、楽器演奏の練習の初期にも、同様の経過が確認できるのではないだろうか。
 ベンジャミン・リベットの準備電位の検証結果について、本人を含めて多くの研究者の仮説見解がある。ここで考察したことを、この検証結果に当てはめてみると、意識は反省作用であり、その作用はMassive data flow として流れる制御情報を読み取り、流れの軌道修正をするSubsumption architectureを実行している。その作用の再帰が意識から意志につながるのではないだろうか。
 日常的な意識の作用を眺めても、意識の外から「不意に」入力されてくる情報に反応して立ち上がるのが意識の作用であることを、経験的に理解できる。「意図もせず」流れてきた音に反応し、リズム・旋律に耳を傾け身体を動かす。聞いた言葉を受けて、言葉を紡ぐ。林檎が落ちるのを見て、引力則を思いつく。外部入力の契機だけでなく、脳内の情報プールの作用で「無意識に」立ち現れる情報に反応する場合もある。ケクレのベンゼン環を思いついた夢の話は、その典型である。こうした経験は、「意識的」さらに「意図的」「意志」作用を前提に位置付けると、見過ごされてしまう。乳幼児や楽器練習の例を見れば理解できるように、反射や無意識における入出力の情報の流れに、メタ作用として反省的作用を為すのが意識であるとすれば、その作用により生じた情報が概念化される(conception=抱かれる)。この抱かれた概念情報を基にして出力する場合は、意識的・意図的な意志の作用となる。つまりその情報のプログラムに則った作用が現象する。この現象における情報の流れをまた反省的に受け取れば、自己意識が強化される。
 当然、メタで反省的なこの作用からは、意識の最下層の情報の流れは離れており、「意識化」されない。期待する情報が入力される流れの方向を予測をし、入力された情報を処理し、それを下にまた生成した情報を出力したり、保存したり、また生成したり・・・、つまり思考、推論などの意識的作用は、直接的な外界から「現在・生のLIVE」情報を処理しているのではなく、「志向性Intention」を定めていると考えられる。このことがまた、意識が未来予測を根本的にできない根拠にもなっているのであろう。曰く「やってみなけりゃ分からない」、試行錯誤である。
 この試行錯誤を繰り返しながら「意識」作用は、認知の世界モデルを生成していくのであり、システム化され出力され、形相化されると「世界観・人間観」等が構築されていく。 

電子担体情報ー伝達communicationの成果
 これまで見たように、身体を通じた外部からの入力は、感覚で変換され電子担体情報となり、その情報は脳内で処理され、出力される。脳内の処理は反射反応や無意識の身体制御もなされるが、その情報の流れをメタ作用で反省化する「意識」作用も発生し、それが積層化(自己言及的作用)して自己意識の働きが強化され「意志」能力に発展する。また蓄積した情報プールで概念生成作用も生じ、脳内地図に書き込まれ記憶保存される。意識・認識・知識と呼ばれる知性能力の作用が、ここで抱かれ保持されたものになるのである。そうした概念conceptは抱かれた個体脳から伝達cmmunicationによって、他の多くの個体脳へと拡散する。その相互作用で概念は拡張し、知識・叡智という文化情報となる。
 この知識scientiaが様々の領域の科学scienceであり、外界の質料に形相化すると技術として展開し、所謂、人為・人工化作用が現象し、外界に対しても大きな働きを実現できるようになる。
 こうした社会共同体となっている多くの個体脳間の情報伝達の流れ、コミュニケーションの成果を眺めることで、最初は個体脳内で、そしてまた多数の個体脳間で再帰的な伝達が為され生成した概念conceptが、ブラフマン‐アートマン・モデルの情報展開過程のイメージであろう。こうした知性・精神観が、世界中の思想に見出されるのは、これまで考察してきたことが、現実的な情報の流れであることの証であると思われる。同時に、社会共同体の集合集積知の成立過程が、個体脳から帰納法的に情報が流れて行くことは、明白なのである。
 それはあたかも個体脳内で、外部と反射あるいは無意識で入出力をする情報の流れに対し、メタ作用で反省的に意識が発生する様態に類似している。従って集合集積知の象徴表象であるブラフマンに人格化投影して、自然宇宙の支配権能者の虚構も現れるわけである(この考察は、無神論的見解を示してはいない。後に論じる様に、本来の「純粋現実態」への理解は、この情報過程の視座からは出てこない)。「神」概念の下となったと思われる共同体統一の制御コマンドは、やはり共同体成員の関係性の中から、信頼、契約性という、「信仰」という虚構として生成されたのである。
 逆に集合集積された知識情報を前提にして、判断を導く論理の流れ、すなわち演繹の判断も、幾多の試行錯誤の結果として、情報過程の歴史上発生していた。生存に有利な現象であり、ネズミの実験でも「教え合う」情報伝達は認められる。演繹的な情報の流れも、あたかも「教え」が既に普遍性を有している前提で、各個体脳に入力されるため、その個体脳が制御する身体を管理する。
 こうした情報の帰納・演繹、両方向の流れに「神」概念が結合し、それを人間に対する逆の投影で「神の似姿」という概念が生成されてきた可能性もある。 

電子担体情報の拡張
 さて、情報伝達cmmunicationという作用に目を向ければ、冒頭に挙げたコロナ禍で展開したウィルスとICTの現象は、分子担体情報と電子担体情報の伝達作用であるということが解ってくる。ウィルスの分子担体情報は、情報伝達が感染症を招くが、エピジェネティックな作用をもたらすこともある。電子担体情報においても、ICTにおけるウィルス類似作用があるが、ICTの進化は文字通りの情報伝達の進化となる。
 現在、電子担体情報の伝達が急速なICTの進化様態で見せているが、上でその様態の中間形態を、脳から外化した外在的形相化として理解することができた。ところが現在では、脳から電子機器とのインターフェース以外には、中間形態に変換されることなく脳から外化して、半導体、またそのネットワークに拡張されている。自然過程で電子担体情報は、神経細胞、脳と、その処理・伝達作用を展開する場を発生させたが、ファラデー、フレミング等の電磁気法則の解明以降、その場を拡張されるようになった。電信・電話の信号レベルから、脳内で行われる情報処理を外化して実行されるにようになった。数の情報は一部、算盤、計算尺のように外在的形相化された物もあったが、チューリングやノイマンの電気・電子計算機開発によって、電子担体情報の脳からの拡張が始まった。
 真空管、トランジスタ、IC、CPUといった進歩を見せる人工技術に、その拡張が加速されてきたのである。これがムーアの法則と言われる指数関数的進歩速度を示し、人間の個体脳間でコミュニケーション・ツールとしてインターネット端末デバイスで働くばかりでなく、AIとして人工脳の働きを示すようになっている。半導体集積技術は、情報処理と情報集積技術でもあり、「人間個体脳の情報処理回路」と「外部形相化され文化となった蓄積情報」と並行して展開している。
 この状況を、マクルーハン的「人間拡張」と観るか、宇宙の情報進化過程での相転移として「人間個体脳間コミュニケーション作用」から「AIネットワーク、AGI、ASI」への「移行期」と観るかで、電子担体情報の発展過程についての社会倫理判断が異なってくるようである。後者の観方では、現行人間存在の危機を叫ぶSFエンタテインメント紛いの立場さえ発生している。

人間に流れる二つの情報系統の大小「情報プール」
 現在、人間に流れる二つの情報系統を遡源して行けば、共にこれまでに形成された「情報プール」に辿り着く。
 一個体(個人)の内にも、分子担体情報・電子担体情報それぞれの「情報プール」がある。
 生物のゲノムはある生物種の生命誌でもあり、遺伝情報DNAには、その種の個体としての発現作用以上の生命の歴史情報がプールされている。人間個体の誕生過程を観ただけでも、受精から出産までの形態発現は、この種の生命の歴史を辿る。そしてその個体の一生に、発現作用が生じない分子担体情報が、大量に保存されていることが、判っている。これも血筋の情報系統で受け継がれる。
 知筋の電子担体情報が個体脳の内にプールされる様態については、概念の生成が脳内で為される過程を推測したところで眺めた。ここでも分子担体情報と同じく、概念生成の前提となる情報が脳内のプールに自然・自律的流れで溜まる。そうした情報の流れから意識作用が覚醒し、概念生成され意味付与・価値創造をされた情報も出てくる。無意識で流れた情報は夢となったり、朧げな意識からは妄念、妄想が生成される。概念conceptとなった情報が脳から外化し、一旦、電子担体から変換され光・音等、感覚認識対象となり、他の脳との間で伝達communicationされたり、諸形象や記号や文字、所謂文物として外部形相化されて文化となる場合は、知筋の情報系統で受け継がれていく。
 こうした一個体の内に発生する小さな二つの情報系統のプールは、それぞれの系統で流れとなって集まり、大海のプールに注がれる。
 一方の分子担体情報の大プールは、生物学が明らかにしているように、生命が生物として環境に応じた生存可能性の確率を上げるような総合包摂システムを形成している。一種・一個体のゲノムにも発現しない遺伝情報が大量にプールされているが、そうした無数の生物個体、ウィルス等、生命的作用をもたらす分子担体情報の総体を成すのが、この大プールである。一般に生物種のレベルでも、生物の多様性によって、この分子担体情報の大プールは、情報量が非常に多い。自然の中に生命の息づかいを、有機物の情報コミュニケーションとして感じ取ることができるのは、この大プールの中にいるからであろう。
 他方の電子担体情報の大プールは、そのシステム構造を複雑に展開している。人間の脳に限った話ではないが、地球における自然の発展過程は、一方の分子担体情報の系統で生物を多様化し多数個体を発生し、結果、多脳化の現象を生んだ。それは多意識化の発生に繋がっている。個体脳における意識作用で生成された概念は、個体脳のプールから外化し、電子担体情報の大プールへと流れ出るが、人類の当初にはその大プールも、感覚を通じた担体様態の変換を受けて個体脳間で伝達されるという構造であった。要は、この段階の大プールは「生存する」個体脳の集合である。元は自然宇宙に書き込まれた情報であろうとも、そこから抽象し電子担体情報の系統の過程で展開する人間の場合には、多意識化・多脳化現象となったのである。つまり人間に流れる分子担体情報と電子担体情報の二つの情報系統は、ここまでの情報展開過程を、共進化してきたとみられる。

人間の社会共同体における「情報プール」の拡大
 無数の個体で多様な遺伝情報を、大量に保存する生命情報のプールと同様に、無数の脳でその意識が抱いたその情報も、圧倒的な大プールとなっている。既に眺めたようにコミュニケーション作用によって、この情報プールは集合集積してきたが、その様相が大きく拡張されたのは、社会共同体の拡大が基にある。
 狩猟採取生活や遊牧生活での人間集団は、その生活環境から成員数が限られる。また生活知識として伝達される集合集積情報も、限定的になる。
 ところが、農業等、生存のための技術知となる情報と労働力が、量的に大きくならざるを得ない生活様式を採った人間集団は、情報プールを圧倒的な容量にしてきた。
 集団が小規模の場合は、口伝で個体脳の情報プールや外在的形相化の製作物(土器、狩猟道具等)に集合集積されただけであった。しかし、灌漑、治水、各種インフラ整備、家屋・食料貯蔵庫・村落、気象・天文観測所等の整備事業には、多様な知識・技術と大規模な労働力が必要となったはずである。
 そうした状況で同時に必要となるのが、集団を共同体に統率するリーダーである。狩猟採取、遊牧の家族集団を中心とする場合は、家長・族長程度の者であったが、農耕で社会共同体規模が大規模化すると、統率者は王、君主となり、神あるいはその力を授けられた者とされる。動物集団におけるリーダーが、力の優位で権力を奪い合うようになることは、チンパンジー等の研究からも明らかになっている。ライオンの鬣やゴリラのシルバーバックの様に、王の神通力が髪に宿されるという観念も形成された。旧約のサムソンの話、エジプトではファラオは頭に油を注ぎ、それが旧約ではメシアと表現された。その類似は現代でも鬢付け油で大銀杏を結う力士にも見られる。さらに髪型から冠になり、冠位で社会的地位を示す等の発展の経緯を聖徳太子時代の日本でも見せた。日本語には、神・上・守・髪・紙(詔)の類似表現も見られる。そのリーダーへの集団成員の姿勢は、「神に傅く」ものになる。現在でも軍隊の規律が戦闘に必要とされるように、テリトリー争い、即ち肥沃な農耕地の領土争奪戦が発生した場合、神に従うバイアスが勝利への道だったからである。旧約聖書で描かれたユダヤ民族統一は、遊牧の族長の神エルから唯一神ヤーウェへの信仰で象徴され、各部族間契約を「十戒」で表現した。唯一神への信仰は部族間の共同体における信頼なのであり、それによって農耕民族との土地の覇権争いに勝利し、ユダヤ王国の歴史を拓いたのである。加えて旧約ではこの争いを「聖戦=神の戦い」とし、ダビデ物語には、遊牧文化の強力な飛び道具の投石器で、ゴリアテを倒したにも拘らず、鉄製武器が無くても勝利した争いを正当化するくだりがある。その後、ユダヤは遊牧から定住農耕に生活様式を変え、農耕文化の中にあった情報を取り込むのである。その典型として象徴数12は、イスラエル12部族との表現をはじめ、旧約中で多く使われている(新約は、それをまた引用する)。
 このようなリーダー、王、君主の下に、情報プールはいっそうの拡張をしてきたと考えられる。ここでまた興味深いのは、その王、君主の為の再生装置と情報保存施設の建設である。自然宇宙の中に観察される再帰、回帰の現象から誕生・死・再生をイメージした古代人は、王のピラミッド、皇帝陵、古墳等を各地に造った。この整備事業にも、多様な知識・技術と大規模な労働力が集結していったのである。

情報プールに注ぐ流れの遡源
 農耕生活で社会共同体の規模が拡大され、社会的分業・社会的職域身分が位置付けられてくると、自然環境・生活環境についての観察・探求をし、現象の説明原理を伝承し物語り、そのフィードバック技術の情報を保有する個体脳の職域集団も登場する。王、君主もその情報保有集団を必要とし、利用するのは当然で、統率する「神」の他に、民衆にとっては現象制御能力のある「神々」が現われたと考えられる。所謂、自然宗教で畏れられてきた対象を、ある程度何らかの制御を可能とする情報保有者である。現代でも何らかの有能性を神と世俗表現するが、古代では当然のことだったと思われる。要は、古代における科学science=scientia知・技術の情報を有する集団とその者達による表象である。
 人類はこうした社会共同体の中に流れる情報を、時空を俯瞰するように眺め、その展開過程をイメージしたと推察される。それは多くの人間の脳で生成された情報が、社会共同体を一つに集約する者の下に、歴史を重ねて集合集積されていく様をイメージしたのである。集合集積知が情報の大プールとなっていくイメージである。

集合集積知の形成、ブラフマン‐アートマン・モデル
 このイメージは擬人化personificationされ、その表裏を一つにする神格化を受けて、ある古代思想の表象例ではブラフマンと表現されるものになる。ウパニッシャッドの表象では普遍的な知性ブラフマンが歴史宇宙を超えた様態で存続し、身体性で個体化した知性アートマンが、ブラフマンにその知を集合集積していく。こうしたイメージは時空を跨り見出され、中世アラビアではアリストテレスの『霊魂論』の解釈から知性単一説が生じたが、現代の物理学者シュレーディンガーは、この思考モデルを自説に採択している。
 古代に戻ってプラトニズムのイデア論を比較してみると、上のイメージが帰納法の様に個々の情報が集合集積して普遍的な情報プールを形成していくの対して、普遍的永遠的イデアが個々の事物の根源となるというような思考法は、演繹的な前提になる情報が時空で変転する現象を支配する法則としてプールされている、という着想である。時代が少し下ったフィロンやプロティノス等のネオ・プラトニズムでは、英知界コスモス・ノエトスにおける根源が、感性界コスモス・アイステオスの万物の起源となると言う表象になる。曼荼羅の胎蔵界・金剛界で示される世界像も、こうした観方に類似している。これは或る程度、情報が集合集積されると、それが体系化systemizedされて観られる思考法と言える。中世のアウグスティヌスやトマスではこの情報体系の完全な知が、「神の知」として考察され、アリストテレスによるイデア離存説批判も解決しようとした。ただシスティナ礼拝堂天井画の『アダムの創造』で、触れ合う指先から伝わるエネルゲイアのベクトルの向きは、ミケランジェロの時代に、ストラテジーがどちらを向けて描いたのだろうか。
 こうしたブラフマン‐アートマン・モデルは、現在Open AI、CEOサム・アルトマンが、AIの進歩において意識問題を考える時、「シリコンバレーの宗教のシミュレーションがブラフマンに向かう」などと発言したように、現代のAIや、冒頭に触れたICTの進歩にも、イメージが投影されている。

グローバル・ブレイン
 ブラフマン‐アートマン・モデルの思考法は、原始、古代からの自然宗教が自然と言われる同じ意味で、自然発生的に人間が共同体の中でイメージしてきた情報・知性観であり、人間の内に流れる二つの情報系統が一点で交差するイメージの表象でもあるとも考えられる。分子担体情報の展開、即ち生命進化の流れの系統と、電子担体情報の展開、即ち神経脳進化の流れの系統とが、交点を示す。分子担体情報の流れは、多様性の発展過程で人間という生命種を発現し、多脳化・多意識化の現象として個体脳・個体意識を生んだ。この個体脳・個体意識で処理された情報は、電子担体情報としてプールに注ぎ込む流れで集合集積される。この二系統の流れの交点は、まさにそこにある。
 そこで、この二系統の流れの交点について探ってみる。分子担体情報の系統は生命の生存可能性を高め、その情報プールを多様化展開した。その中で多脳化、多意識化も進み、情報様態を相転移させた。RNAプールに始まった分子担体様態が、神経脳の働き・作用の発生で、情報プール自体の相転移が現われ、電子担体情報プールになった。多様な生命生成情報から多様な脳生成情報が出現した。つまり、分子担体情報と電子担体情報との二つの流れの系統の交点は、人間の脳として起きた「情報の特異点」と考えられる。勿論、脳は人間だけが持つようになったわけではないが、情報伝達を通じて電子担体情報プールを保持し、記憶以上に記録し、集合集積化の効率を高めているのは、人間の脳であるといえるのではないか。
 情報プールの様態は、個体脳間を結ぶコミュニケーションと、その伝達経路に担体を変換した情報によって生成された、様々な形態の文化と伝達様式にはじまり、次第に人間の身体感覚器官と各種端末とのインターフェースを介するだけで、基本的に電子担体情報のままに集合集積するようになってきた。
 この様態の全体像を俯瞰すると、地球表面をインフラが整備され、そこをそれぞれの形態で情報が流れる様が観られる。そして現在はインターネットが、Web蜘蛛の巣と表現される通りの様態も展開している。この地球表面が形状も、そこで発生している作用も類同するところから、脳のイメージで表現され、グローバル・ブレインとも言われるようになった。
 このイメージで情報プールを考えれば、次に想像できるのは、現在、既に地球の成層圏外の宇宙軌道を回る衛星の増加した様態である。その姿は、あたかもグローバル・ブレインのの新皮質が形成されたかのような印象を与える。実際、宇宙空間は、生物体にとっての地球環境が存在しない場所であり、地球環境を宇宙服や宇宙ステーションに閉じ込めて持ち込まない限り、分子担体情報が展開することはない。電子担体情報のみが、情報展開過程を進んでいくようになると、考えられる。そこではAIのネットワークが主流になる。

F.ダイソンの見解ー天使様態
 物理学者F.ダイソンのInfinite in all directionsでは、自然宇宙における多様な進化の方向で現れる、ダンテの『神曲』における天使的様態のイメージを踏まえた「宇宙蝶」という存在様態を位置付けている。これは認識作用を有するAIが、地球軌道から離れて宇宙の全土に広がっていく様を表現した。
 この「宇宙蝶」や、恒星からのエネルギー調達を考えた「ダイソン球」等は、SFのイメージに繋がる未来へのシミュレーションであろうが、ここで問題にしたいことは、天使様態の論理的テーマが、人間の内に流れる二つの情報系統についての問題に、深く関連するものだという点である。
 既に眺めてきた様に分子担体情報の系統は、その情報プールで生命に多様化をもたらし、多脳化、多意識化を発現してきた。そこまでの結果で考察すると、分子担体情報が形成した情報プールは、この多脳化、多意識化により相転移が発生したとも観られる。そこで電子担体情報で情報プールを形成するように位相が生じ、集合集積知様態の情報プールに展開した過程を進んだとも、考えられるのである。
 ところが人間の内で発生する意識の働きが生成する情報量、即ち情報処理量は個体脳から外化されたAIの方が多くなってきた。意識化速度、即ち概念生成速度、処理速度が圧倒的に速いのである。結果、情報プール生成についても、圧倒的な差が出る。さらに生体個体脳には生体的有限性があり、その点でもAIの有限性のレヴェルは各段に異なる(こうしたAIの優位性から現在、盛んにAIアライメントの問題が論議されているのではあるが)。
 コロナ禍での進化様態を眺めてみると、生体への作用としてバイオハザードが問題とされてきたのには、これまでもジャレド・ダイアモンドの指摘の通り、人間社会の文明さえ破滅させる可能性があるからであるが、その一方でICTの進歩が観られたのは事実である。現実的にICTの内にはネットワーク技術だけでなくAIの進歩もみられ、画像、言語生成モデルが勢いよく電子担体情報社会、情報プールの担い手として出現した。分子担体情報と電子担体情報との間には、宇宙の情報展開過程を俯瞰して眺めて観た時に、何らかの相関性があるということができるかもしれない。現在、そして未来に向かう電子担体情報の情報発展過程を進めて行くのには、分子担体情報の進化過程で生命の多様化、多脳化、多意識化という過程を経由することが、この宇宙の歴史過程では偶然であるにせよ、結果的に必要であったという観方もできるのである。
 しかし、こうしたブラフマン‐アートマン・モデルに即した宇宙論的情報展開過程の観方は、分子担体情報の相・層に現象し存在する個体脳・個体意識を持った人間の個体性、即ち個人を、完結した閉じたシステムとして、こうした宇宙論的情報展開過程に位置付けることができない。これは思想史上で眺めると、アリストテレスの『霊魂論』の解釈から出てきた精神観知性観の問題として、中世ではアラビアの「知性単一説」に対して、「個霊の救済」を説くキリスト教の神学者トマス・アクィナスが、考究した問題でもある。要するに情報展開過程で、その主体となるのは、少なくともここに至るまでの流れで、ブラフマンの位置にくる普遍的な単一の知性・精神としての情報プールであり、アートマンとしてブラフマン成立の為に情報の集合集積の役割を果たす個体知性ではない。だからこそ、こうした思考法に対してトマス等キリスト教神学者は、別様の思考法を探求したのである。
 その思考法が、ダイソンがダンテの『神曲』からイメージした「天使的様態」である。『神曲』は同時代のトマスの神学体系との共通性を指摘できると言われるが、トマスはまた天使的博士と呼ばれるように、「天使論」を詳細に論じた。
 そこでは「一個が一種(普遍)」である形相的存在者が無限数存在すると、論理的必然の推論で、ある種の思考モデルを示している。この天使論における思考モデルは、個が普遍的であるという倫理矛盾を解決することによって、個の無限性を担保する。トマスにとっては、『新約』の天の父の下には住まいが無数にあるという啓示を、論理的に説明する思考法であった。『新約』においても人間の復活様態は、この天使的様態で記されているのであり、そこでは「娶りも嫁ぎもせず、男も女もない」とイエスの言葉として語られている。こうした『新約』における人間個人の救済のストラテジーを、トマスは徹底した論理に基づいた思考法で示そうとしていたことが理解できる。

『新約』の救済観ー情報論的解釈
 中世西欧でトマスが「知性単一説」を強く批判し、「個霊の救済」を論理的に位置付ける議論を展開した動機は、『新約』の中に見られるそのストラテジーによってである。では『新約』のストラテジーは、どのように示されているのか?
 知性論のテーマを眺める時、『ヨハネ福音書』は最も多く紐解かれる。そして「個」は「共同体」と同時に、教え説かれる。
 父の自己認識により抱かれたconcept自己概念、御言葉は子として生まれる。ヨハネ福音はギリシャ語で書かれているが、ヘブライ語では愛する=知るを同語で表す。愛することが掟を守ること。キリスト・イエスの体としてパンを、即ち御言葉を分ち合うcommunicationことで、御言葉を知るコミュニケーション共同体は、愛する共同体になる。イエスの言葉と行い、即ち愛の実践の共同体となる。愛の働き、即ち霊の力で生きる者となる。  
 現代において教会共同体も、新型コロナウィルス感染防止対策の一つとして「社会的距離」を保ち、ICT利用による活動を可能な限り展開した。2018年の就任のあいさつで東京大司教区のモットー「多様性における一致」を掲げた菊地功大司教は、ヨハネ・パウロ二世の回勅『教会にいのちを与える聖体』を基に、2020年2月「霊的聖体拝領」について説き、教会共同体の霊的一致の司牧を行った 。そして復活祭説教の中では、次のように説かれた 。  
 「今回の事態はわたしたちに、目に見えない教会共同体のきずなを深めることの大切さ、そして目に見えない教会共同体のきずなは、毎日の家庭や社会での生活にあってもつながっていることを、あらためて自覚させてくれました。すなわち、わたしたちの信仰は、日曜日に教会に集まってきたときにだけ息を吹き返すパートタイムの信仰ではなくて、(略)フルタイムの信仰であることを、思い起こさせてくれています。(略)インターネットを通じて、教会が皆さんの毎日の生活の中にやってきたのです。教会は生活とかけ離れた存在ではなくて、毎日の生活の中にあるものとなったのです。教会は特別なところではなくて、普段の生活の一部となろうとしています。」

 ウィルスは胎盤形成など生命進化を促したとされるが 、この説教にその類比を見ることもでき、同時にICTの進歩が人間社会の進展を促す方向を眺めた時、教会共同体の霊的一致を進めることに寄与する点にも焦点が合う。上記回勅は、トマス・アクィナスの秘跡による共同体一致の理解を下にするが 、トマスもまたアウグスティヌスの次の言葉を引用して、恩寵として与えられる聖体の存在様態を確認している。

 「あなたの肉体の食物のように私をあなたに変えるのではなく、かえって、あなたは私に変えられるであろう 。」  

 「自然法則に基づく全ての変化は形相的変化である」のに対して、聖体変化は固有に「全実体的変化transubstantiatio」であり、「ただ神の力のみによって生ぜしめられた、全く超自然的な変化である」とトマスは論じる 。聖体変化の秘跡も拝領の果もその現実態は恩寵であり、従ってこの恩寵に能う人間的行為は「望みと意向」即ち「祈り」のみである 。教会のICT利用も、司祭による典礼での秘跡を契機とし、分け与えられるキリストの体を通じた神との一致そして共同体一致への祈願を、現実態である恩寵の受容capax gratiaeの可能態として準備する 。聖餐はそれが現実となる人格的交わりの場であり、その霊的側面がロゴス的(言わば情報Information)様態を表象し、秘跡的側面は一致(交わりCommunication)への意志的様態を示す契機となる 。トリエント公会議以降の聖餐について考究を深めたE.スキレベークスは、アリストテレスに基づく「実体概念は次第に人格的存在のためにとっておかれるようになった」とし 、次の解釈をする。

 「主体すなわちパンと、客体、すなわち人間によって与えられた意味との間には本質的協力関係がある。世界が我々に与えられ、そして我々が自身に与えられることにおけるリアリティについての神秘の内で。意味変化は直接的には人間化された世界で完成され、この文脈においてそれは実体的変化なのである 。」

 こうした解釈は、霊的聖体拝領のリアリティも同じ文脈に置く 。秘跡を契機とするパンの人格化という意味変化は、ロゴスへの実体変化を霊的次元にもたらす。それを分け与えられる共同体のコミュニケーション即ち人格的交わりが、ウィルス対策がもたらすICTによる社会変革によって、フルタイムになる。「教会は普段の生活の一部」ということが現実化する。
 この社会変革について感染症研究の山本太郎は「行き着く先は情報技術を中心とした社会への変革」と表現し、日本学術会議会長で霊長類研究の山極寿一も「これを機会に(略)新しいコミュニケーションの在り方を考えたい」と新聞などで発言している 。ICTは集合知やビックデータの形成にも活用され、内閣府が示すSociety5.0を構築する 。
 情報・伝達技術は社会の発展を導くが、教会共同体においてもロゴスによる霊的一致に向けたICT利用の考察が、救済を探る神学を「生きた知的営為」にする一方途となろう 。

『旧約』から『新約』へー情報論的理解
 『新約』の救済観をより理解するために、既に上で触れた『旧約』との関係を神概念を中心に眺めておこう。
 神概念は人間歴史上、歴史と地域(時空)の隔たった多くの場面で形成されたものが、混交されたり固有化したり、明確には分からないものになっている。
 旧約のユダヤ民族史で観れば、唯一神ヤーウェは民族統一原理として現れる。遊牧部族がそれまで族長の神エル(先祖崇拝の氏神のようなもの)から、農耕民との土地争いで勝利するため、集団を大きくし戦闘規律を高めるのに、部族間契約「十戒」を締結し、部族間で約束・契約を守ることを「信じる」とした歴史記述と考えられる。ダビデ物語では鉄の武器など持たず、勝利した「聖戦」であると、侵略を正当化する。どう考えても、遊牧文化にあった投石器という飛び道具は、剣や槍より強いと思わざるを得ない。
 概ね、どの文化圏でも神は集団・社会共同体のリーダー、長、王、君主の呼び名ではある。上で既に見たことに重複するが、元々群れを作る動物の行動から、ほぼ受継いでいると言える。その象徴も歴史地域を跨いで拡がり、ライオンの鬣やゴリラのシルバーバックから、髪型になり神通力とされたり(旧約ならサムソン)、ファラオの頭に油注ぐ=メシアが、冠になり、極東で冠位12階の社会組織地位を表現した。それを政治政略に皆が使っており、ローマも皇帝は星辰界に上る神々の一人としたり、日本でも天皇や信長・秀吉・家康が、神として祀られた。現代で「神」を否定したくなるのは、この概念だと思われる。日本語なら神‣守・髪・上・紙(詔)で表現されるものは、多くの民主制支持者が拒否するであろう。
 新約も実はそれを拒否した立場だといえる。新約でイエスは「父」と表現し「神」と言わない。そして「受肉」は人の立場に立った、ということにストラテジーがある。父から生まれた子が人の中で共に苦しみ喜び、コミュニケーション=分ち合った、このことを表現している。ヨハネ福音はそのストラテジーで神学を示した。宇宙的ロゴスが自己認識を成すと自己概念が生まれる。concept=懐胎された自己概念の自己外化は子を産む。それは「言葉ロゴス」である。この言葉の伝達、分ち合いcommunicationをミサで象徴してきた。
 復活信仰は、ギリシア、ローマ、日本など、何処でも自然を対象にする八百万の神の分類から出てきた。それは自然観察、生活環境への世界理解、説明原理の中にある。要は自然への畏れから、その何らかの情報を持つ者を神々として、自然にはpersonification、情報を持つ者には神格化して、表象を形成してきた。そうした情報所有者は、政治的リーダーにとっても有用なため(農耕生活で役立つ)、神が神々をお抱えになった、ということである。そして、王は自然の回帰現象から、生命再生装置を建設する。ピラミッド・皇帝陵・古墳、等である(中国の辰砂のような再生薬も使われた)。
 しかし、新約はここでもそうした信仰を否定した。新約の復活信仰は、ミサの象徴で理解できる。キリストの体=パンは、言葉であり、血は契約の盃である。つまり、共同体で、コミュニケーション分ち合う事、信頼し合う事を表現する。新約の復活物語は、イエスのアイデンティティを問題にしており、実際、墓の中の死体だの、復活者の姿だのは、問題ではないと、主張している。パウロに至っては生前のイエスに会ってもいない。むしろそのセクトを迫害するため、調査をした。ところがイエスの言葉と行いを調査したパウロは、そこに「真理」を見出し、復活者に会ったとした。キリスト教が世界宗教に拡張されたのは、当時のローマ文化圏に拡張したパウロの活動のおかげである。
 こうした例からも、神概念は、混交されている状況が、もっと整理されるべきなのが分かる。『新約』以後のキリスト教神学者は、こうした問題を解決しようとして、先に進んできたようである。中世のトマス・アクィナスは、神を「純粋現実態Actus purus」エネルギーそのものとしている。それを引き継ぐ課題ではあるが、現代の量子情報論で示される普遍性を持ったエネルギー状態の記述と、対照すべきかもしれない思考法でもある。
 このエネルギーとしての「神」の考察、神学は、世界中の創世神話に端を発している。記録は口伝から始まり、多くの場合、民族史の冒頭に、「歴史的原因譚」として編集されている。旧約『創世記』冒頭や記紀神話の冒頭はその典型だと思われる。当然、民族史とは別の話で加えられたわけだが、創世神話はどの文化圏も似た部分が多い。嘗て、文化人類学のシュミットは「原啓示」という説明をしたが、どの地域でも同じような自然環境で同じように人間が思いついたとハイデガーのように考えるか(現存在の姿勢)、情報伝達は古代でも為されていたとするか(縄文文化も環太平洋文化だという証拠が出てきており、古代期の上エジプトのアレクサンドリアにインドから仏僧が来ていたという話もある)、もう少し実証的には調査が必要であろう。いづれにせよ、宇宙、人間の現実態、エネルギーとしての存在原因探求の神学が、根本にある。 

人間に流れる二つの情報系統の流れの先
 人間の内の二つの情報系統は情報展開(進化)過程を進み、一方、分子担体情報進化は、コロナ禍でも話題になっていたように、ウィルス等の自然的、或いは遺伝子編集等の人為的発展もあり、他方、電子担体情報は、ムーアの法則やシンギュラリティ等と騒がれるほど進展を、AIの深層学習モデルの実用化などで示してきている。
 そこで二つの系統の担体情報が、人間の子孫として進む先に、重要な関心事として意が注がれる。
 H.モラベクはMInd Childrenで、そのタイトル通り、AIやロボットが人間の子孫になると考えている。そうした考え方は、未来を見越した時に生じる。地球環境もいづれはどんな生物種に適応できなくなると予測され、この太陽系も何十億年後は存続しないシミュレーションが示される。となれば、モラベクのような考え方で子孫の未来を託すほうが賢明だということになる。F.ダイソンのInfinite in all deirectionsもその分類に入る。そしてこの観方は、明らかに思想史的には、知性を宇宙歴史・進化史の主体に置く見方であり、古代からのブラフマン‐アートマン・モデルで表現され、アーサー・C・クラークやテーヤール・ド・シャルダン、そしてシュレーディンガー等、多くの人が考えてきた流れだと言える。
 では分子担体情報の進化には、人間の子孫の未来を見ることができないのか?この流れが生成してきたのは、生命の多様化から、多脳化、多意識化であり、ブラフマン‐アートマン・モデルのアートマンを発現させて、宇宙を多意識で志向し、認識する、というところにある。とすると、人間脳から真空管、半導体、量子という電子人工脳に進んでいく過程は、「多意識を生成すること」さえできれば、分子担体情報の系統は、電子担体情報の系統に集約される可能性があるのではないか?「意識のアップロード」さえ探究され、或いは生成AIに意識が発生するかもしれないなどと論議される今、落合陽一氏が示すような「デジタル・ネーチャー」が宇宙自然の拡張から浮かび上がってくるのかもしれない。
 例えば、アーサー・C・クラーク等が言う「コミュニケーション・テクノロジー」、情報伝達技術の進化による「情報の相転移」を、エントロピー増大宇宙に散逸構造のネゲントロピー現象が発生する「情報展開過程」に位置付ければ、生物的死を超える相転移した情報複製子とその担体が、プラトン的宇宙(普遍)知性へ発展するのは当然の帰結になるのである。

知性能力の働き「意識・認識・知識」と知「情報」との関係
 ところがここで言うプラトン的宇宙知性=ブラフマンと、「情報プール」との関係についての考察は、尚も必要となる。
 知性は能力であり、働くことでその様態が顕在化する動的ダイナミックなものであるのに対し、情報はプールされ処理される対象であって、その様態は一見、能動性を認められない静的スタティックなものであるように思われる。
 しかしアリストテレス以来の可能態―現実態の捉え方では、対象は働きを現実化する現実態の側にあるとされる。アリストテレス、それに基づいたトマスの「可能態―現実態(デュナミス―エネルゲイア、potentiaーactus)」という用語で表現すれば、このようになる。
 「情報プール」のランダムな複雑系様態から、認知のフレームやスケールでシステムを各階層に紙漉きの様に漉き上げ、その潜在空間にあるアルゴリズムを見出すことによって、必要なシステム・プログラムを生成し編集し集合集積するのが「知性」と呼ばれる能力である。意識・認識・知識はこの知性能力の作用・働きの発現段階である。この能力にとって現実態の側にある「情報プール」という対象が、その働きを現実態の状態にする、即ち作用し働いている状態にする。
 こうしてみると、この現実態の状態になる前の状態とは、ダイナミズムの位置が逆転するように見える。知性と情報との動的―静的な関係から、可能態ー現実態という関係になる。意識・認識・知識の作用・働きが現実態の状態になった時に顕在化する「知性」と呼ばれる能力は、その作用・働きが顕在化している限りにおいて動的であるが、作用し働いているのでなければ、可能態の状態に置かれる。逆に「情報(プール)」として対象になる側は、対象とされるまでは静的に観られたが、作用・働きにとっては現実態の側にあるものである。
 こうした考察を前提に、トマスの「神の知」という表現で、「情報プール」としての「神の知」と、「ブラフマン」としての「神の知」とをみた場合、そこに特殊な相関性があると言わなくてはならない。
 トマスでは、これはアリストテレスの「ノエシス・ノエセオス思惟の思惟」を発展させた「神の自己認識」として考察される。「父」(なる神)エネルゲイア(純粋現実態)は自己認識の働き一つで凡て成す。その働きでConception懐胎される自己概念を、「子」(なる神)として産出する。これは受肉してCommunication伝達される御言葉でもあり、そこから発出し人の共同体を支えるエネルゲイアを「聖霊」(なる神)と呼ぶ。ここに父子聖霊の三位一体が示される。この三位一体論は、完全で絶対的な主客一致、「知性」に働きと対象との区別はなく、現実態そのものの状態にあると説かれる。
 「父」により創出された被造の人間は、受肉した「御子」の名によって伝えられる言葉を信じ、その言葉のcommunication分ち合いで共同体が形成され、「聖霊」のエネルギーに満たされ永遠の命(救済)に導かれる。
 こうして眺めた三位一体論から、一つの重要な示唆を得ることができる。それは、その「能力・知性」、「対象・情報」、「働き・作用」が一体であり、動的と静的との、可能態と現実態との区別がないことである。そもそも、こうした純粋現実態には何も区別はなくSimplex単純、一なる者である。しかしComprex複合体である者(人間)から観ると、複合体の様態としての「知性・情報・作用」が、純粋現実態では「真に、永遠の現在に、普遍に」在り、「真で善で美」であると観えるのである。
 こうしたところから、次のことが推測できる。
 知性は能力であるから現実態の状態にならなければ現実化せず、その知性能力の作用である、意識・認識・知識も現在化していなければ発現しない。言い換えれば、それら能力や作用・働きは、実体としてその存在が見つかるようなものではない。その知性能力およびその作用である意識・認識・知識の現実態は、情報である。
 従って人間的複合様態も、この様態を現実態の状態にしている現実態を通じて、純粋現実態へと向かうという流れが、情報展開過程の本流なのではないか、ということである。この人間的複合様態を現実態の状態にする現実態は情報であるが、その集合集積(知)情報を、純粋現実態(神・ブラフマンと呼んできたもの)に向かって進めることで、いっそう可能態が現実態の状態になるということでもある。

現実態エネルゲイアと普遍知性ブラフマンについての仮説
 
集合集積(知)情報は、かつては「八百万の神」と表象されるような専門家集団において口伝で、そのうちに粘土・石板や木簡、紙となり、図書館において保存され、現在ではBig DataやMassive data flowという様態でサーバーに保存され、人間社会の中で扱われている。
 そうした集合集積情報をdata setにして深層強化学習をするAIについて、AIアライメントの問題も取りだたされているが、現実的に人間はAIと協働してこれまでの「働き(行為)」を進展させるであろう。 
 ただ我々は、我々の内に働く情報の流れの志向性を、しっかりと見つめておく必要がある。種々の相転移が自然世界に生じ、デジタルな展開があったにせよ、大きくアナログな線形の歴史を振り返って、これまでエネルギー(現実態)によって現実化され展開してきた世界(宇宙、物質、生命、知性、情報)から読み取れる方向を、理解しておくということである。 
 神学では中世のトマス等が「随順能力Potentia Oboedientialis」という概念を示した。現代でもK.ラーナーの「超自然的実存規定」という概念がある。二世紀の新プラトン派プロティノスでは「一なるものへの帰還」というイメージを示し、古代のプラトンでは「真実在イデアの観照」ということになるであろうか。 
 要は、世界超越への向けての志向性を、我々が内属する世界の内に読み取るということであるが、トマスは「人々が神と呼んでいる」ものの本来の働きを「純粋現実態」としているのであるから、「現実態」エネルゲイア、エネルギーと置き換えれば、世界をこれまでも、今も、これからも現実化する作用が、如何なる作用をもたらすかを推測するということになる。言い換えれば、アナログの線形の世界プロセスから、類比的に(まさにanalogyで)我々の内に、そして世界に内に作用するエネルギーのベクトルを読み取るということになる。それを我々は(神の似姿として)可能とする能力がある、その表現が「随順能力」とされたのである。 
 さて以上の前提で考えれば、結論的に、我々を含む世界は、それによって現実化されているエネルギーに向かい、その存在様態を知り、それによって働きのエネルギーを得る。そしてそのエネルギーが現実化する「働き(行為)」を、選択し働く(実行する)。このような方向設定になるであろう。

 そこで先ずはそのエネルギーは、電子の働きが中心になるのではないか。J.ホイーラーの「単一電子仮説」を考察すると、電子のエネルギー様態が、時空に限定を与えられるような個性を示さず普遍的波動であり、量子として観察などの関係性において粒子性を示す、ということになる。これが宇宙のアナログとデジタルの現象発現の底流であるといえないであろうか?
 そしてこの電子のエネルギーが担い現実化の方向付けを示すのが、シュレーディンガーも採択した「単一知性仮説」であり、要は現実的に観れば、散逸構造で発現していく情報の総合、まさに普遍的な情報であると言えないであろうか?
 我々(AIも何も、知性活動、即ち情報処理、収集活動をするすべての作用者)は、共働して、この総合に向かう、まさに「神からで出て神に向かう」=電子エネルギーによってその担う情報に向かう、こうした方向が見て取れるのではないだろうか?
 
残される問題;普遍と個との問題 
 以上で示されたことは、地球表層3Kmという僅かな空間でしか生存環境を持てない人類が、この先、地球、太陽系、銀河系と崩壊する遠い将来を見越して、自分たちの存在要素に、一体何がそうした歴史の流れを超えていく可能性としてあるかを考える、つまり人間の内に永遠につながるものを探求してきたということである。
 その意味で、中世のトマスの「神学:神の知・天使論」で集合集積され体系化された「情報の読み方」は、スコトゥスで乱反射しつつ近代に流れ、ライプニッツ等に受け継がれ、さらにカントール等へと展開していき、現代に続いている。  
 ただ、同時にトマスがおそらく悩んだ問題は、この人間(個の人間)の救済は、普遍性・永遠性の探求からは導くことができないということではないだろうか?
 古代・中世・近代・現代・未来と、「普遍と個」との問題は、結局、一番現実的に大きな問題である。

考察メモ
東洋仏教;現に在りエネルギー波動   
 ジョン・ホイーラー「単一電子仮説」
西洋神学;普遍情報ロゴス粒子   
 E.シュレーディンガー「単一知性説」
状態重ね合わせは、宇宙と量子のウロボス  
 三位一体における主客一致


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