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共同体における一致         ―ICTと集合知の役割―

共同体における一致 ―ICTと集合知の役割―

1.問題提起;共同体の霊的一致

 新型コロナウィルス感染防止対策の一つとして教会共同体も「社会的距離」を保ち、ICT利用による活動を可能な限り展開した。2018年の就任のあいさつで東京大司教区のモットー「多様性における一致」を掲げた菊地功大司教は、ヨハネ・パウロ二世の回勅『教会にいのちを与える聖体』を基に、2020年2月「霊的聖体拝領」について説き、教会共同体の霊的一致の司牧を行った[1]。そして復活祭説教の中では、次のように説いた[2]。

 「(略)今般の感染症の拡大という理不尽な出来事は、(略)新しい世界へと変わっていく道を探るよう、わたしたちを促しているようにも思います。(略)わたしたちは、自らの存在の意味を、あらためて問い直すように、招かれています。(略)今回の事態はわたしたちに、目に見えない教会共同体のきずなを深めることの大切さ、そして目に見えない教会共同体のきずなは、毎日の家庭や社会での生活にあってもつながっていることを、あらためて自覚させてくれました。(略)インターネットを通じて、教会が皆さんの毎日の生活の中にやってきたのです。(略)」

 ウィルスは胎盤形成など生命進化を促したとされるが[3]、その類比をここに見ることもでき、同時にICTの進歩が人間社会の進展を促す方向を眺めた時、教会共同体の霊的一致に寄与する点にも焦点が合う。ただ上の回勅は、トマス・アクィナスの秘跡による共同体一致の理解を下にするが[4]、トマスもまたアウグスティヌスの次の言葉を引用して、恩寵として与えられる聖体の存在様態を確認している。

「あなたの肉体の食物のように私をあなたに変えるのではなく、かえって、あなたは私に変えられるであろう[5]。」

 「自然法則に基づく全ての変化は形相的変化である」のに対して、聖体変化は固有に「全実体的変化transubstantiatio」であり、「ただ神の力のみによって生ぜしめられた、全く超自然的な変化である」とトマスは論じる[6]。聖体変化の秘跡も拝領の果もその現実態は恩寵であり、従ってこの恩寵に能う人間的行為は「望みと意向」即ち「祈り」のみである[7]。霊的聖体拝領のICT利用でも、司祭による典礼での秘跡を契機とし、分け与えられるキリストの体を通じた神との一致そして共同体一致への祈願を、現実態である恩寵の受容capax gratiaeの可能態として準備する[8]。聖餐はそれが現実となる人格的交わりの場であり、その霊的側面が御言葉的(言わば情報Information)様態を表象し、秘跡的側面は一致(交わりCommunication)への意志的様態の契機となる[9]。トリエント公会議以降の聖餐について考究を深めたE.スキレベークスは、アリストテレスに基づく「実体概念は次第に人格的存在のためにとっておかれるようになった」とし[10]、次の解釈をする。

 「主体すなわちパンと、客体すなわち人間によって与えられた意味との間には本質的協力関係がある。(略)意味変化は直接的には人間化された世界で完成され、この文脈においてそれは実体的変化なのである[11]。」

 この解釈は、霊的聖体拝領も同じ文脈に置く[12]。秘跡を契機とするパンの人格化という意味変化は、御言葉への実体変化を霊的次元にもたらす。それを分け与えられる共同体のコミュニケーションすなわち人格的交わりが、ウィルス対策がもたらすICTによる社会変革によって、毎日の生活に現実化する。
 この社会変革について感染症研究の山本太郎は「行き着く先は情報技術を中心とした社会への変革」と表現し、日本学術会議第24期会長で霊長類研究の山極寿一も「これを機会に(略)新しいコミュニケーションの在り方を考えたい」と新聞などで発言した[13]。ICTは集合知やビックデータの形成にも活用され、内閣府が示すSociety5.0を構築する[14]。情報・伝達技術は社会の発展を導くが、教会共同体においても御言葉による霊的一致に向けたICT利用の考察が、救済を探る神学を「生きた知的営為」にする一方途にもなる[15]。そこで基礎情報学の西垣通が2018年に出版した『AI原論-神の支配と人間の自由』の問題指摘を含め、共同体の霊的一致をICTや集合知に関連して考察する[16]。

2.共同体に形成される集合知
 集合知については本誌27号でも触れたが[17]、初期の研究では統計学から優生学を展開したF.ゴールトンが、1907年にVOX POPULIをNatureに発表した。これは牛の体重当てコンペの分析から、民主的判断の信頼性を説いている[18]。また昆虫学者の W.M.ウィラーは1911年にTHE ANT-COLONY AS AN ORGANISMという論文で、集団的知性や超個体の概念を示した[19]。現在の基礎情報学では、集合知を広義に生命体の群れの中に宿る知とし、インターネットに民主社会形成が期待できるとする[20]。MIT Center for Collective Intelligenceは、「Collective intelligence is groups of individuals doing things collectively that seem intelligent.」とし、学際的にその研究を進めている[21]。
 集合知は、原始の人間集団において自然に形成されていた[22]。クロマニヨンの時代にも、情報交換・相互協力の痕跡証拠が残されているという[23]。古代ギリシャのポリス連合やユダヤ遊牧部族の統一民族化の時代には、神聖祭儀同盟が結ばれ、最高神や唯一神の象徴によって権威付け中央集権化がなされた。治水・灌漑、侵略・防衛、象徴建造物等の事業遂行のためには、分散した小共同体から意思を一つにする社会形成が必要だったと考えられる[24]。そうした一つの意思の中に、無数の個人に宿された知が集約されていった。
 歴史が進んで封建時代の中世ヨーロッパでは、「社会的に権威づけられた」「所与の知」が、トップダウンで「天下りにあたえられる」状況にあったと、西垣通は説明する[25]。それは聖典に準拠し、その釈義から与えられた世界観とこれに機能する価値観であり、これらを絶対的であるとした権威の力で社会に浸透していた。しかし宗教改革、ルネッサンス、科学革命といった近代ヨーロッパの改革運動は、知識の民主化に伴う社会の民主化を展開し、ボトムアップによる諸知識の総合として世界観を刷新した。以後、天文学や進化論など、聖典釈義の絶対性を揺るがす諸知識(scientia=science科学)が、所与の世界観の崩壊を促した[26]。中央集権的権力が示す所与の世界観、それに伴って発展した技術知(専門知)などを総合し、一旦安定した閉鎖系システムが社会の共同主観・共同幻想として位置付けられていた[27]。しかし開放系システムによる刷新へと社会が動作し、入子状の階層を成す諸次元のシステムから諸知識(科学)を抽象し、連続した共同体作業の歴史上に集合知が発展した[28]。その作業効率が近代ヨーロッパでは印刷技術によって、現代ではマスメディアからコンピュータとインターネットの普及によって格段に高くなった[29]。
 ところで、古来「三人寄れば文殊の知恵」という諺であるとか、旧約聖書にも「複数の熟慮」という思考法がある一方、他方で人の集合によって生じる知は、衆愚に陥る知ともされた[30]。中世のトマス・アクィナスも引用している古代のアリストテレス『形而上学』第十二巻には、「多数者の統治は善ならず、一つの統治者こそあらまほし」というホメロス『イリアス』の一節があるが、これは君主制正当化論の典拠に援用されてきた[31]。そこで衆愚に陥らないように偏向を補正するなどの有効な集合知形成が求められる[32]。集合知の有効性は、有効な知を有する共同体が前提となる[33]。共同体構成員の学習が、集合知の発展を導く。

 「たくさんの人が問題を、たくさんの角度から考える時、大衆は賢くなるようだ。大衆がはじめるきっかけとなる事実すらないときには(例えば中世の「扁平な」地球や今日のひも理論)、大衆は賢明になることができない[34]。」

 教育や情報交換無しには、伝統・習慣化された事象などは文化的変化が生じない。猿の芋洗い行動の伝播は、習慣化が固定した成体の雄には困難であったという報告が知られているが、人間社会の日常でも伝統や制度の変更は世代交代が現実的手法となる場合がある[35]。諸評価基準も、社会が見慣れたものの平均になる。顔学という分野の報告では、見慣れた顔の平均(中央値)が好評価される[36]。この見慣れた(既知)ものが(新たな知へ)変わることで基準自体が変わり[37]、その変化が著しいと時代の節目となる。その変化速度は現在が最大で、未来を描くシナリオ中にシンギュラリティ仮説や、マインドアップローディングの予測さえある[38]。このような未来予測の評価や現実化などもICTが自乗加速し、その集合知の有効性が共同体コミュニケーションにより高められる[39]。

3.集合知(集積知)の共同体に対する意味作用
 集合知の起源は、生命というシステムが試行錯誤を展開した淘汰結果にある。淘汰の犠牲損失を減じれば活動の費用対効果を高め、発展を促す(動物実験でも、成功行動を教え合うことが確認されている)。ここから種など生命共同体において、情報の共有が生じる。集合知の意味作用の発生である。
 西垣通が示す基礎情報学では、情報を「基本的に生命体による認知や観察と結びついた『生命情報life information』[40]」とし、「生命体にとって意味作用をもつもの[41]」と位置付け、その本質には「生命体にとっての価値」が関わっており、この生命的な「意味=価値」の解釈と伝達を、システム論的に探るとする[42]。その論拠に、遺伝情報を生命の歴史に位置付ける「生命誌」も参照し[43]、生命情報のパターンと意味内容との結合を進化史上に見る生物学は、「科学というより、一種の歴史的記述の学という側面をもつことになる」とする[44]。集合知はこの側面で、集積知として歴史連続性を示す。「時間的累積性こそが情報の本質的特徴」であり、「累積効果こそ、情報の基本的性格」である[45]。科学技術も、ニュートンの言葉とされる「巨人の肩に乗って見たに過ぎない」という集積知上に進展する[46]。
 ところでCollective Intelligenceは集合知や集団的知性と翻訳されるが、集団的知性の考察では一つの問題が提起される[47]。本来、人間社会における集団的知性の前提には個人があるが、集団的知性内では個人が埋没する。個の知を反映し個の存在を生かす民主的共同体形成を目指す集合知がその意義を失い、ある種の全体・普遍・理想主義の視点に焦点が合い、個という現実が退く。知(情報)の集合を過去からの集積とも捉え、特に個人が生きる今という現実から未来に向けて進歩・進化史世界観に視点を置くと、前提を見失う。原始・古代に部族社会契約や生活技術伝播とその記録や保管が始まり、中世から近代では大学の整備や研究機関などで写本・印刷により知の発信と共に集合・集積が拠点化し拡大し、現代に至ると電子情報の流れがマスメディア化し、情報を処理するコンピュータ・AIの進化、インターネットの拡張、Web2.0への進展、さらにはグローバルブレイン様の情報自体の進化史世界観が提示される[48]。ここに連綿と続く知性・精神観が浮び上り、それを種々の立場が描いてきた[49]。それらの知性・精神観に共通して描かれてきたのは、ある種、超越的な普遍的知性・精神が世界の歴史を通して進化(神化)発展する様態である。
 これについて西垣通は西洋思想史を眺め、ユダヤ・キリスト教の唯一神を奉じる思想の知性・精神観を背景にして、現在のAI研究が理想追求していると見定めている。1999年の『こころの情報学』で既にそれに触れ[50]、2018年の『AI原論-神の支配と人間の自由』では、特にシンギュラリティ仮説を主張するレイ・カーツワイルに代表される知性の未来予測にそれを見ている。ムーアの法則に示されるような収穫加速の法則Law of Accelerating Returnsによって向かう人類の知の方向が神=絶対知に収斂するとし、個々の主観を持つ生命の現実が顧みられないとする[51]。さらに次のように解説する。

 「そもそも、人間の知とAIの機械的な知との境界線を問いかけるのは、ユダヤ゠キリスト一神教における造物主の視座から見た議論である。(略)しかし、AIの深奥にあるのは一神教的な文化だということを忘れると、われわれはとめどなく迷走していくだろう[52]。」

 しかしこれに関しては、知の集積過程の流れは西洋・東洋という地域的区分や、古代・中世・近代・現代という時代区分を超えるといえる。上の西垣通の解説がある著作で、ジャン=ガブリエル ガナシアも扱うグノーシス的思想の流れは、その一つである[53]。知の集積過程には、普遍(理想)と個(現実)との弁証法過程を進んできた流れを見出せる[54]。そこで思想史上どの立場が普遍的理想を追い、現実的個を見るのはどの立場かと簡単には分類できず、思想文化的潮流それぞれが普遍と個との弁証法過程を展開してきている。例えば普遍的理想を示すプラトンのイデア論も、ユダヤ・キリスト教の流れにおいて「キリスト教的に変容され」、トマス・アクィナスでは個の根源を示す[55]。先のグローバルブレイン様に至る情報自体の進化史とみられる古代から連綿と続く知性・精神観は、こうした思想史の様々な分岐流の底流にあり[56]、集合集積される知性の普遍傾向性が潜んでいる[57]。西垣通は『AI原論』で「素朴実在論にもとづくトランス・ヒューマニズムにおける観察者の視点は、『人間』を標榜しながらも、実はひそかに一神教の絶対神の視点に重ねられているのではないだろうか」と記すが、章を代えた箇所で「『人間の知性』対『普遍的な知性』という対立軸」とも記している[58]。この「普遍的な知性」を、「一神教の絶対神」(少なくともユダヤ・キリスト教の唯一神)とする必然性はない。米山優は『情報学の基礎』で、次のように言う[59]。

  「人間にも神と同様に永遠真理の創造をア・プリオリに(つまり吟味もせずに)認めてしまえば(略)、それと同時に<自己乗り越え>によって人間そのものを神に置き換えるとでもいうような動きが生じる。それと同時に実は神が消去されてしまうのだ[60]。」

  ここでは人間を神に置き換えるとする際、それをユダヤ・キリスト教の唯一神であるとはしていない[61]。ただ西垣通と同様、「自ら神にならん」とする「人間の傲慢」を問題にしている。久木田水生も「ICTがもたらすコミュニケーションの変容」と題した提言で、ICTの進展によって「何が失われて何を得るのかを認識しておくことは重要である」とし、「結び」で夏目漱石の『草枕』の一節を掲げる。そこに表現された「鉄車」と「個人の個性」とは、科学技術の普遍傾向性と人間の個性の尊厳を示す[62]。ICTの進展、特に近年のビッグデータと機械学習の活用が、個人を「データの束」、「多くの特徴によって分類されるクラスター」として扱うことを促進する、と懸念を投じている[63]。こうした科学技術が示す普遍性への傾向は特定の思想背景によるのではなく、人間知性の一般的傾向性による。その傾向性が思想史の上に普遍的知性のイメージを創り上げ、自身の知性様態を反省せず、すなわち個人の現実的存在を忘却して現れる問題であり、トマスはこの点を、救済を目的にする神学の立場から批判したのである。

4.「神の知」と集合的知性
 トマス・アクィナスは多様な知の集合・集積を為し、『神学大全』を編集している。知の集合をその時代に留めずコミュニケーションを広げれば、さらに集積される。古典研究などはそうしたコミュニケーションのために古典言語を学び、当代の社会に知を集積する。この点では、決して中世の知がトップダウンによる「所与の知」としてのみ機能していたとはいえない。ユバル・ノア・ハラリも、ヴァチカンが12世紀では現在のシリコンバレーのような存在で、先進の社会を牽引する役割を果たしていたとする[64]。中世において、そうした集合・集積知創発の中心にいたトマスも、上に眺めた情報研究の中での問題、すなわち個という生命の現実の忘却に対する論を展開している。それはアヴェロエス主義の「知性単一説」にまつわる議論であり[65]、時空を越えてこの問題を扱う思考法の模範になる[66]。
 それに関してピエール・レヴィは、「人間学へと回帰する神学、という展望をうち立て(略)神学的であったのが、今や技術的なものになる」として「集合的知性」を位置付け、次のように言う。

  「イスラム世界では、十世紀から十二世紀の間に、アリストテレスの新プラトン主義的解釈を拠りどころとするペルシャの神智学者の系譜によって、おそらく集合的知性体が最初にはっきりと主題化され、厳密に思考されていた。(略)これは共通で集合的な知性の、そうした言葉ができる以前からあった先駆けとおぼしきものである[67]。」

  レヴィは、イスラム世界の「知性単一説」について、そこで論じられる「能動知性」は、「人類全体に共通」であり、「一種の《集合的意識》のようなもの」とする[68]。レヴィの翻訳者の一人、清水高志は、この著書が『集合的知性』を論じながら「情報(知)」の在り方を基礎にし、「不可逆から可逆へ(ネゲントロピー)」、「マスから個へ(差異化)」という二重の逆説によって、≪個人≫の特異性を主題にしているとする[69]。そしてレヴィ自身は、トマスの批判に言及する。

 「トマス・アクィナスが能動知性に関するイブン・シーナー的な理解の仕方に批判を加えるよう促したのは、とりわけ、この個人主義の危険によってなのである[70]。」 

 トマスがアヴェロエス主義を批判したのは、神の救済対象とする個体霊魂(死後の分離霊魂)を認めることができないアリストテレス『霊魂論』の解釈にある[71]。トマスの解釈では、人間の本質に含まれる形相と質料は魂と身体であり、形相である魂がその個的存在(現実態)を受ける[72]。そして次の論を進める。 

 「知性は身体の現実態としての魂の能力である。従って多数の身体において多数の魂があり、またそれにおいて知性と呼ばれる多数の知的能力がある[73]。」

 従って死後、質料である身体から離れても、分離実体となる個体霊魂の能力として個的知性も存続する。アヴェロエス主義の解釈では、集合的知性としての能動知性に個的知性が解消するという理解を与える。しかしトマスの解釈では、人間の知性は個人の誕生から死を経て復活に至るという魂の能力として経歴を刻み、存在受容の個体性は天使的様態に類する。
 この存在様態を決定しているのは、「神の知」において観られている「個のイデア」であり[74]、神の自己認識内容としての他者認識において、その完成態を表している。「個のイデア」を根源的なイデアとして、その範疇的集合内で種々の普遍的イデアも「神の知」において認められるのであり[75]、個的知性の個体性の様態は解消されない[76]。

 

5.結論;人格としての現実的個人と共同体における多様性の一致
 トマスが言う「神の知」に予め観られている(Providentia摂理)「個のイデア」は、その個がもつ普遍的本質に加え付帯有や質料のイデアさえその内に含む、個としての完成態を示す「情報」であり[77]、普遍的理想とされるイデアではない[78]。これに存在が与えられ、すなわち「神の意志」の選びにより他者化され、現実的個人となる。
 そして現実態であるこの存在に感謝し(知性の反省)選びに応える信仰によって(意志)、いのちの「聖体」を分与共有し御言葉による人格的交わり(霊的コミュニケーション)をもち、「多様性における一致」に導かれる。
 トマスの神学で共同体一致の論議は、現実的個人の人格的交わりを前提にしている[79]。2020年6月「キリストの聖体」祭日に教皇フランシスコも、教会共同体の一致が聖体を受ける者にとっての使命であると説かれた[80]。

 

 「誰かにとって、ミサに行くのは、行かなくてはならないからだ、というケースが多くあります。それは、尊重すべきことではありますが、一種の社会的態度にすぎません。しかし、神秘とは別のものです。(略)エウカリスチアのこの二重の実り、すなわち、キリストとの一致と、キリストによって養われる者たちの一致は、キリスト教共同体を生み出し、刷新し続けます。教会はエウカリスチアを記念しますが、本質的なことは、エウカリスチアが教会をつくり、教会に使命を与えていることです。これが一致の神秘、エウカリスチアの神秘です。わたしたちはイエスを受けることで内面から変えられます。イエスをいただくことは、わたしたちが分裂ではなく、一致するためなのです。」

 この一致は現実的個人が人格的に内面から変えられ(キリストとの一致)、キリスト教共同体を生み出す(共同体の一致)。本稿、問題提起に掲げた「あなたはわたしに変えられるであろう」とは、まさにこの変化である。
 その現実的個人が人間である限りその本性に属する知の集合が課題であり、シンギュラリティ仮説の「ポスト・ヒューマン」などは知性の普遍的理想像を未来に追うシミュレーションとして、まさに人間後の話である[81]。カーツワイルは人類の歴史が「マズローのヒエラルキー」を上位へ進んだとするが[82]、その最上位の自己実現は現実的個人ではなく理想的存在を意味する。その理想のみを眺め現実的個人を見なければ、視野狭窄に陥った優生思想の危惧が共同体に生じる[83]。逆に人間本性を成立過程に尋ね、ユクスキュルの環世界の概念を下に、コミュニケーションや社会共同体構築の在り方を考慮するべきだとする山極寿一の見解などは人間本性に立脚し[84]、情報技術の発展も「人間にとって幸せなSociety5.0を構築する[85]」ためという前提の必要性を提言している。
 ICTによる社会変革がウィルスのエピジェネシス作用に超越的類比を示すとしても、偏向のない集合知を形成し普遍的理想を追うことに集中せず、霊的聖体拝領を範例として共同体全ての現実的個人の人格的交わりの契機となるよう留意しなければならない。

 



[1] ヨハネ・パウロ二世回勅『教会にいのちを与える聖体』(カトリック中央協議会、2003年)。カトリック東京大司教区HP「霊的聖体拝領に関して」https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/37978/

[2] 2020年4月12日「復活の主日菊地功大司教説教」 https://tokyo.catholic.jp/wp-content/uploads/2020/05/復活の主日.pdf

[3] フランク・ライアン『破壊する創造者―ウィルスがヒトを進化させた』夏目大訳(早川書房、2011年)。山本太郎「感染症と生きるには」2021年1月15日付『朝日新聞』。

[4] 15,38,61,62.「聖体は、『霊的生活のいわば頂点であり、すべての秘跡の目標』(Thomas Aquinas,Summa Theologiae,Ⅲq,73,a,3,cor..以下S.T.と略記)」、「この秘跡の効果は、神秘体(教会)を一つにすることである。」(S.T.Ⅲq,73,a,1,arg,2)。

[5] S.T.Ⅲq.73,a.3,cor.,ad.2. Augustinus.Confessiones.Ⅶ,c.10

[6] S.T.Ⅲq.75,a.4,8,cor.. 稲垣良典「解説トマスの聖体神学」『神学大全』第43分冊(創文社、2005年)254頁。

[7] S.T.Ⅲq.73,a.3,cor.. 具正謨「教会と秘跡」『カトリック神学への招き』第11章(上智大学出版、2009年)201頁。

[8] 拙論「恩寵として自然を受取り得る根拠」『日本カトリック神学会誌』第21号(日本カトリック神学会、2010年)

[9] S.T.Ⅲq.80,a.11,cor..E.スヒレベークス『ザ・ユーカリスト―トリエント公会議以降の新たな出発』時任美万子訳(ヨベル、2018年)18頁。具正謨「教会と秘跡」『カトリック神学への招き』第11章(上智大学出版、2009年)201、202頁。

[10] E.スヒレベークス、上掲書94、151頁。具正謨「教会と秘跡」上掲書202頁。

[11] E.スヒレベークス、上掲書130~131頁。

[12] トマスは霊的拝領を、秘跡的(実体変化)拝領の結果として理解する。S.T.Ⅲq.80,a.1.

[13] 山本太郎、上掲『朝日新聞』。山極寿一「科学季評」2020年8月6日付『朝日新聞』。

[14] 平成28年1月22日閣議決定『科学技術基本計画』。https://www8.cao.go.jp/cstp/society5_0/

[15] 増田祐志編『カトリック神学への招き』上掲書、「はじめに」。

[16] 西垣通『AI原論-神の支配と人間の自由』(2018年、講談社)

[17] 拙論「神の知に観られる個―救いの対象―」『日本カトリック神学会誌』第27号(日本カトリック神学会、2016年)

[18] F. Galton, Vox Populi,NATURE , March 7,1907,No.1949,vol.75,P.450-451.

 http://galton.org/essays/1900-1911/galton-1907-vox-populi.pdf

[19] William Morton Wheeler, The ant‐colony as an organism, First published: June 1911.

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1002/jmor.1050220206

[20] 西垣通『集合知とは何か―ネット時代の知のゆくえ』中公新書2203(中央公論社、2013年)19~20頁。

[21] Handbook of Collective Intelligence 2015.https://mitpress.mit.edu/books/handbook-collective-intelligence

[22] コリン・タッジ『農業は人類の現在である』竹内久美子訳(新潮社、2002年)23頁。

[23] コリン・タッジ、上掲書47頁。マット・リドレー『徳の起源』岸由二監修、古川奈々子訳(翔泳社、2000年)

[24] 技術知による社会形成の一例を日本に見ると、縄文土器(食糧範囲・栄養摂取率・食品衛生の拡大技術)を有する分散型交換社会システムが、農耕という食糧生産技術(治水・灌漑・土木・農業歳時記)を有する集中型管理社会システムにブレークスルーした。

[25] 西垣通『集合知とは何か』44~55頁。マット・リドレーはそれも創発的なボトムアップの進化現象と分析する。マット・リドレー『進化は万能である』太田直子・鍛原多恵子・柴田裕之・吉田三知世訳(早川書房、2016年)337頁。

[26] アレクサンドル・コイレ『コスモスの崩壊』野沢協訳(白水社、1974年)。トーマス・クーン『科学革命の構造』中山茂訳(みすず書房、1971年)解説。

[27] ユバル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』柴田裕之訳(2018年、河出書房新社)。この書で示す社会の共同主観に働くフィクションは、まさに安定した閉じた世界体系である。西垣通「ネットワーク社会の人間関係」『ヒト、人、人間-われらはどこから来てどこへ行こうとしているのか』東京大学公開講座(2002年、東京大学出版会)210頁。別様には神話の力である。

[28] 拙論「神の知に観られる個―救いの対象―」上掲論文。黒石晋「存在と認識の階層性―そのための理論枠―新しい「社会システム学」の構想のために―」『彦根論叢』第377号(滋賀大学経済経営研究所、2009年)。黒石晋『システム社会学』(ハーベスト社、1991年)。

[29] 服部桂『マクルーハンはメッセージ』(イースト・プレス、2018年)。

[30] 大向一輝「Web2.0と集合知」『情報処理』47巻11号(情報処理学会、2006年)1214~1221頁。

[31] S.T.I,q.103.

[32] 集団知の確実度は多様性、独立性、分散性、集約性で高まる。ジェームズ・スロウィッキー『みんなの意見は案外正しい』小高尚子訳(角川書店、2006年)31、46、205頁。

[33] ウィリアム・パウンドストーン『クラウド時代の思考術』森夏樹訳(2017年、青土社)16、309頁。ダニング=クルーガー効果。William Poundstone,Head in the Cloud:Why Knowing Things Still Matters Facts Are So Easy to Look Up,Little,Brown ahd Company,2016.

[34] ウィリアム・パウンドストーン、上掲書84頁。

[35] この事態の現代版が「インターネットのこちら側とあちら側」である。梅田望夫『ウェブ進化論』ちくま新書582(ちくま書房、2006年)220頁。

[36] 原島博「人の“顔”は何を語るか-コンピュータ顔学からのアプローチ」『ヒト、人、人間-われらはどこから来てどこへ行こうとしているのか』東京大学公開講座(2002年、東京大学出版会)71~92頁。

[37] プラトンの洞窟の比喩や現代宇宙物理学で論議される観測者選択効果など、認識の問題であるが、トマスもアリストテレスから引き継ぐ「働きの様態は存在様態に従う」という原理に、その根本はある。

[38]『WIRED』VOL.14、TEXT BY AKIHICO MORI。「考・ヒト×テクノロジー↔ミライ」2019年8月21日付『朝日新聞』。

[39] インターネット共同体「ドット・コミュニズム」も一例。マット・リドレー『進化は万能である』396頁。

[40] 西垣通『基礎情報学』(NTT出版、2004年)11頁。

[41] 西垣通『基礎情報学』26頁。

[42] 西垣通『基礎情報学』30頁。

[43] 西垣通『基礎情報学』13、20、21頁。中村桂子『自己創出する生命』(哲学書房、1993年)。

[44] 西垣通『集合知とは何か』61~63頁。

[45] 西垣通『こころの情報学』(1999年、筑摩書房)30頁。

[46] ジェームズ・スロウィッキー、上掲書210頁。

[47] 集団的知性(Collective Intelligence)は集合知(The Wisdom of Crowds)と区別される。上野ふき、鈴木泰博「ライプニッツのモナドを用いた集団的知性のエージェントモデルの提案」『情報処理学会研究報告』(2012年)

[48] ピーター・ラッセルが1982年に出版した"The Global Brain"(『グローバルブレイン~情報ネットワーク社会と人間の課題』吉福伸逸・鶴田栄作・菅靖彦訳(工作舎、1985年))で提案した概念で、アーヴィン・ラズロが継承した。立花隆も『インターネットはグローバルブレイン』(講談社、1997年)で解説している。1995年にはハワード・ブルームが、35億年前の細菌の時代から現代まで生命進化の過程で発生した集団的知性の経過として描いている。

[49] 拙論「神の知に観られる個」上掲論文253頁。吉成真由美編『人類の未来』(NHK出版、2017年)304頁。ユバル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』柴田裕之訳(2018年、河出書房新社)下巻224頁~。

[50] 西垣通『こころの情報学』84~85頁。

[51] 西垣通『AI原論-神の支配と人間の自由』(2018年、講談社)54~64、134~167頁。

[52] ジャン=ガブリエル ガナシア『そろそろ人工知能の真実を話そう』伊藤直子訳(早川書房、2017)西垣通の解説176頁。

[53] ハンス・ヨナスや荒井献も参加して開催された国際グノーシス会議では、グノーシス主義は古代末期の思想的現象だが、その思想運動は時代と場所の如何を問わず生じるとする。荒井献「グノーシス主義の起源について」一橋論叢, 60巻2号(1968年)177頁。ハンス・ヨナス『グノーシスの宗教』秋山さと子・入江良平訳(人文書院、1986年)427~451頁。

[54] 拙論「神の知に観られる個」上掲論文263頁。

[55] 拙論「『個物のイデア』はイデアとして矛盾か-トマス・アクィナスのイデア論」『中部哲学会年報』第47号(中部哲学会、2015年)

[56] マット・リドレーが指摘したように、一般進化論(ダーウィン進化論を、生命の領域に限定した特殊進化論とする)の基底にある流れを見ると、ジェイムズ・グリックやユバル・ノア・ハラリのように情報自体の発展的進化を見得る。マット・リドレー『進化は万能である』、ジェイムズ・グリック『インフォメーション―情報技術の人類史―』楡井浩一訳(新潮社、2013年)、ユバル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』下巻。

[57] 西垣通が参照したカレン・アームストロングも、『神の歴史』高尾利数訳(柏書房、1995年)183頁で「ブラフマン‐アートマン・パラダイム」を挙げている。辻直四郎『ウパニシャッド』学術文庫(講談社、1990年)41、108頁。ユダヤのヤーウェは民族統一のため部族連合が奉ったもので、形而上学的思考とは別である。トマスの『出エジプト記』神名解釈に対しても、次の様な見解がある。「このことは釈義学という見地からは極めて疑問である。何故なら未だ形而上学の存しなかった時代にモーセに於いて伝えられたこの、神自身についての神の言葉は、神の形而上学的規定やその形而上学的自己規定を目論み得るわけがなく、むしろ(常に“部分的”な)神々の命名可能性とは反対に、イスラエルの神という測り難きものの命名不可能性、没名称性を確するものだからである。」マックス・ミュラー『実存哲学と新形而上学』大橋良介訳(創文社、1974年)343~344頁。

[58] 西垣通『AI原論-神の支配と人間の自由』60、74頁。

[59] 米山優『情報学の基礎―諸科学を再統合する学としての哲学―』(大村書店、2002年)35頁。

[60] 米山優、上掲書36頁。

[61] 米山優、上掲書57頁。

[62] 久木田水生「ICTがもたらすコミュニケーションの変容」『中部哲学会年報』第49号(中部哲学会、2017 年)27~40頁。

[63] 久木田水生「人を評価する人工知能が人間同士の関係に与える影響とその倫理的含意」『三田評論ONLINE』(2019年) https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/features/2019/02-4.html

[64] ユバル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』下巻97-99頁。

[65] Thomas Aquinas, De Unitate Intellectus Contra Averroistas , Sancti Thomae de Aquino Opera Omnia iussu Leonis ,Ⅷ,P.M.edita,t.43,cura et studio Fratum Praedicatorum,Roma 1976,p.p.254-314.トマス・アクィナス「知性の単一性について アヴェロエス主義者たちに対する論駁」『中世思想原典集成14』山本耕平監訳(平凡社、1993年)503~583頁。山田晶編訳『トマス・アクィナス』(中央公論社、昭和55年)27~36頁。周藤多紀「人間の個・概念の普遍」『中世哲学研究』15号(京大中世哲学研究会、1996年)109~115頁。

[66] 拙論「多様化の極限」『日本カトリック神学会誌』17号(日本カトリック神学会、2006年)註34。橘真一「ジルベール・シモンドンにおけるinformationの概念について」『年報人間科学33』(大阪大学2012)91~113頁。西垣通『集合知とは何か』132~133頁。平田文子「デュルケームの『集合意識』概念とユダヤの歴史解釈」『早稲田大学大学院教育学研究科紀要』別冊26号(2019年)。大澤義信「ホモ・デュプレックスの再現」『関東学院大学文学部紀要』第112号(2007年)。前野隆二『脳はなぜ「心」を作ったのか-「私」の謎を解く受動意識仮説』(筑摩書房、2004年)166、172頁。

[67] ピエール・レヴィ『ポストメディア人類学に向けて―集合的知性―』米山優・清水高志・曽我千亜紀・井上寛雄訳(水声社、2015年)128~129頁。

[68] ピエール・レヴィ、上掲書134、146頁。

[69] ピエール・レヴィ、上掲書付録「文明の第三世代へ」http://rhetorica.jp/interview-takashi-shimizu/ 

[70] ピエール・レヴィ、上掲書138頁。

[71] 山本芳久『危機の神学』文春新書1343(文芸春秋社、2021年)175頁。

[72] S.T.I,q.118.

[73] Thomas Aquinas, De Unitate Intellectus,cap.5,80.

[74] Thomas Aquinas, De Veritate,q.3,a.3,c.. 拙論「トマス・アクィナスの神学におけるイデア論の位置づけ」『南山神学・別冊』7号(南山大学大学院神学研究室、1989年)32~43頁、「トマスにおける神の働きの対象としての個物」『中世思想研究』32号(中世哲学会、1990年)112頁。

[75] この思考法はライプニッツにも認められる。米山優、上掲書43頁。

[76] 拙論「トマス神学における『個の普遍性』」『中部哲学会年報』第51号(中部哲学会、2020年)119~129頁

[77] こうした観点をライプニッツも展開した。内井惣七『ライプニッツの情報物理学-実体と現象をコードでつなぐ』(中央公論社、2016年)。松王政浩『ライプニッツにおける「集合的」可能世界論の展開』(京都大学、1966年)7頁。上野ふき、鈴木泰博「ライプニッツのモナドを用いた集団的知性のエージェントモデルの提案」上掲論文。中川純男・田子山和歌子・金子善彦編『西洋思想における「個」の概念』(慶応義塾大学言語文化研究所、2011年)。ユバル・ノア・ハラリはこうした観点を「伝統的な宗教」と呼び、「データ教=データ至上主義」ともいうべき「偉大なアルゴリズム」のプロセス展開を観ている。ユバル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』下巻232頁。ただこのアルゴリズムを人間が理解できないのは、「神の摂理」を理解できないのと同じとする。同240頁。この場合、人間は自己言及的パラドックスに陥るが、トマスでは「神の自己認識」として論じられている。拙論「神の知に観られる個」上掲論文265頁。

[78] 本稿、註55。

[79] 人間共同体は、ペルソナとしての主体的個別存在が、それぞれに他者性を有して共同する。佐々木亘『トマス・アクィナスにおける法と正義-共同体の可能性をめぐって』(教友社、2019年)41~42頁。

[80] バチカンニュースhttps://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2020-06/domenica-corpus-domini-angelus-20200614.html

[81] カーツワイルに限らず、ニック・ボストロムの仮説なども、この視点に立つ。

[82] 吉成真由美編『人類の未来』(NHK出版、2017年)136頁。

[83] 拙論「優生思想とその批判―問題の普遍性―」『中部哲学会年報』第50号(中部哲学会、2018年)161~178頁。

[84] 山極寿一『家族進化論』(東京大学出版会、2012年)335~347頁。「家族というのはこれまで人間がつくりあげた最高の社会組織だということを忘れてはいけない。(略)それが音を立てて崩れ落ちたとき、私たちはもはや人間ではなくなっているだろうと思う。」山極寿一「AIによる情報通信革命、安心な人の輪 広がるか」2017年11月11日付『朝日新聞』。技術の進歩も人間を前提するべきという説は多い。佐藤陽彦「技術の人間化を目指すデザイン」『デザイン学研究』特集号Vol.13 No.3(2006年)

[85] 本稿、註13。

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