見出し画像

茂木先生の意識についてへのコメント


意識の問題はすぐには解けそうもない - YouTube

「情報」はdataであって、その流れが発生し、情報処理し、detaの表示システム変換や配置変換=画像組合せ変換やコンテキスト・文脈変換がなされても、元のdataとしてのプールの中にある。茂木先生がcognitiveと分類されている作用は、この観方でもいいでしょうか?  
 「意識」は、やはり茂木先生がリカレントな作用と仰られているように、情報プールに発生した流れに対して、俯瞰的に、これも茂木先生の表現なら直交して、再帰的運動をしている、というイメージでいいでしょうか?
 そのイメージは、布(情報プール)に直交して針(意識)を通すミシンのようで、針の作動・作用によって、布に糸が模様(生成情報)を残すといった、ものになるでしょうか?
 この場合、意識は作用している時だけ働く、常に現実態を受けている状態にしか現れないので、いくら作用の痕跡である刺繍された布を調べても、そこに意識が見つからない、そんな例えになる気がします。
 デカルトのcogito ergo sumのsum=在る、というのは、cogito=私が思う働き・作用がある以上、存在も在るというわけですから、確かに、意識作用は現在進行形でないと見つけられない、ということになるでしょうか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?