「マルティンの行列」 der Martinsumzug(デア マルティンス・ウムツーク)

 まずは、der Umzug(デア ウムツーク)という男性名詞から始めよう。der Zug自体が一つの名詞で、その訳語の一つである「列車」という意味からも分かる通り、これは、「何か一列に並んだもの」を意味する。ゆえに、列に並んで空を飛んでいる渡り鳥の一行(いっこう)も、この言葉を以って表現し、一列に並んで行進する兵隊の隊列から来るのであろう、軍隊の編成組織の「小隊」を、ドイツ軍では、der Zugと呼ぶのである。

 このZugの前にあるum-とは何かと言うと、これは、元々は前置詞なのであるが、動詞と共に用いられる時には、これが動詞に副詞的に掛かって、補助的な意味を付加するのである。umは、ここでは、空間的に何かの「周り」を意味し、例えば、「um Berlin」と言えば、「ベルリンの周り」ということになる。という訳で、Zugにumを付け足すことにより、ただ一方向に通り過ぎてしまう行列ではなく、ある所から出発し、その出発地点の周りをあちこち巡り巡ってから、出発地点に戻ってくる感じをニュアンスとして付け足すことができる訳(わけ)である。因みに、der Umzugには、「引っ越し」の意味もあることを付け加えておこう。

 それでは、表題の「マルティンの行列」の前半、Martinとは、どんな人間であろうか。ここでは、キリスト教の「聖マルティン」のことを意味する。つまり、日本では、「聖マルティヌス司教」と呼ばれている「セント・マーティン」である。なぜ、マルティンが聖人であるのかは、ご存知の方も多いであろうが、ここでは、簡単に、この人物の「聖人伝」を述べておこう。

 ラテン語の人名のマルティヌスは、紀元後310年代に、現在のハンガリー地方にあったローマ帝国の属州で生まれた。父親の家系は、北イタリアの出で、父親は、ローマ帝国皇帝の近衛部隊の軍人高官であったことから、マルティヌス自身も軍人の道を歩む。

 西ローマ帝国の滅亡が476年であるとすれば、マルティヌスの生まれた時代は、西ローマ帝国の滅亡の約150年前のことであり、北からはゲルマン民族が押し寄せている時期、帝国内部的には、キリスト教がかなり浸透していた時期ということになる。という訳で、マルティヌスは、色々な経緯があった訳ではあるが、四世紀の半ば、つまり彼が30代の半ばにキリスト教に洗礼・改宗している。こうして、マルティヌスの、軍人とキリスト者としての内面的な葛藤が強まると、彼が40歳の年に、自分は「皇帝の兵隊(miles)」ではなく、「キリストの兵隊」として、対ゲルマン人との「戦争」を戦うとして、ローマ帝国軍から除隊し、除籍されることになる。

 その後は、隠者としての生活を好んだマルティヌスは、ヨーロッパにおける最初の修道院を現在の中西部フランスに建て、やがて、その人望のなすところなのか、同じくフランス中西部にあるToursトゥールという都市の大司教となり、四世紀末に亡くなることになる。ローマ帝国時代のキリスト者としては、殉教することなく、「聖人」となった特異な存在である。

 しかし、マルティヌスを有名にしたエピソードは、実は、彼が洗礼を受ける前の話しで、彼が、ローマ帝国近衛騎兵の軍人として、北フランスにあるAmiensアミアンという町に駐屯していた時の出来事である。

 それは、330年代の、ある冬の寒い日のことであった。騎兵マルティヌスが、アミアンの町の、ある城門を馬に乗って通りかかると、その場所に、着の身着のままの物乞いがいた。その物乞いの姿を見て、憐れんだマルティヌスは、自ら纏っている将校用のマントの下から半分(歴史的に正しくは、乗馬用のマントは白く短いマントなのであるが、今は赤く長いローブのような、将校用のマント)を、自らが持っている剣で切り取り、それを物乞いに分け与えたのである。その日の夜にマルティヌスが見た夢には、そこに例のマントの半分を持ったキリストが現れ、あの物乞いは実は自分であったと明かしたというのである。これが、有名な「マントの切り分け」の、キリスト教的徳を象徴的に表すエピソードである。自らの身を切ってでも、持っているものを分かち合おうという、キリスト教的連帯精神の表象である。

 このエピソードに由来して、11月11日に、馬に乗ったローマ帝国の軍人の姿をした聖人マルティンを先頭にして、上述のUmzugが街々を練り歩くのが、「マルティンの行列」である。ゆえに、より正しくは「聖マルティンの行列」、さらに、詳しく書けば、「聖マルティンの提灯行列」と言える。

 なぜ、11月11日であるかと言うと、この日が、聖人マルティンが埋葬された日、「マルティンの日」であるからである。つまり、11月11日は、この聖人の業績を偲んで、とりわけ、その倫理的徳業を思い、しかも、聖マルティンの遺体がロウソクや松明の灯りを以って送られたという故事にならって、町内を練り歩く提灯行列が執り行なわれるのである。しかも、提灯を持って練り歩くのは、実は、幼稚園児、小学校低学年などの子供達である。

 すでに何日か前から子供達は、保育士や教員などの指導を受けながら、幼稚園や小学校で、「聖マルティンの提灯行列」のための、工夫を凝らした「提灯」を作っている。11月11日の当日(曜日の関係で、実際には11日の前後の日)には、もちろん、保護者が子供達に付き添って、まずは、教会に午後五時に集まる。この時期にはすでに夏時間が終わっており、もう午後四時頃から周りは暗くなりかけている。

 丁度午後五時より、教会での、子供達のためのミサが始まる。待ちきれない子供の心を思ってか、ミサの時間は精々半時間程度である。教会から出る時には、もう持参した提灯には灯りが燈されており、こうして、「聖マルティンの提灯行列」が始まるのである。通りのあちこちを回りながら、親達に付き添われた子供達は、「聖マルティンの行列」に因んだ歌を歌いながら、練り歩く。地元のブラスバンドが随行する。目的地は、どこかの広場に設けられた「Martinsfeuerマルティンス・フォイアー」(マルティンの焚火)である。

 目的地の広場では、自衛消防団がしっかりと管理した下で、「マルティンの焚火」が燃えており、乗馬した聖マルティンに率いられた子供達とその親達が広場に着くと、おもむろに、「Martinsbrezelマルティンス・ブレーツェル(「ブレッツェル」とは発音しない)」(この日ために甘い生地を使って焼かれたブレーツェル・パン)を頬張る。冬の寒い時期に恒例の、温かいワイン、「Glühweinグリュー・ヴァイン」も用意されている。もちろん、大人は、本物の葡萄酒にシナモンなどの香料を入れた「ホット・ワイン」が飲める訳であるが、子供達は、葡萄ジュースを温めた、ノン・アルコールのGlühwein「燃えるように熱いワイン」が楽しめるという具合である。Glühweinを味わいながら、Martinsfeuerが燃え尽きるまで、提灯行列の参加者は、その火を囲む。教会、保育園/小学校、自衛消防団に見守られながら、「聖マルティンの日」を経験した子供達の、幼い頃の思い出は、提灯行列でもあり、如何ばかり深いものであろうか。地域での子供達の「社会教育」が成立している一場面と言えよう。

 そして、この「マルティンの日」の11月11日は、この提灯行列だけではないのである。実は、聖マルティンには、もう一つのエピソードがある。

 隠者としての生活を好んだ聖マルティンではあったが、その人徳が人を言わしめるのであろう、聖マルティンに、Toursの大司教になってもらおうではないかという要望が人々の間に声高になっていた。しかし、マルティン自身は自分はその「器」ではないと思っており、ある時、人々の要望に耐えきれなくなったマルティンは、人々から逃れて、あるガチョウの小屋に身を隠したのである。ところが、ガチョウたちが鳴いて騒ぐところから、人々に見つかったマルティンは、結局、大司教職に就くことを承知せざるを得なかったというのである。この故事から、とりわけ、オーストリア東部からハンガリーやチェコなどの地域を含めた地方では、この11月11日前後に、ガチョウの肉を使った料理「Martinsgansマルティンス・ガンス」を食する。

 ガチョウを皮ごと、こんがりと焼き上げ、これにドイツ料理には欠かせないジャガイモのダンプリングを二個と、リンゴを混ぜて時間を掛けて煮上げた紫キャベツ(料理人の腕の見せ所はここ!)を付け合わせ、さらに、秋の季節に相応しく、クリの実を混ぜて作ったソースを掛けると、ドイツの秋のグルメ料理の出来上がりである。ドイツをこの時期に丁度旅行中の方には、ドイツの秋の季節料理として、是非、試されたい一品である。

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