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レンズ性能向上の方法や技術・その7

レンズコーティングのおもな役目として、
  ①反射の低減/透過率の向上
  ②フレア/ゴーストの発生防止
  ③カラーバランス/諧調描写の最適化
  ④キズや汚れの防止(フッ素コーティング)
  ⑤レンズ表面の酸化(ヤケ)防止

 前回では、上記の一般的なレンズコーティングの役目を5つにまとめ、それぞれについて解説をした。

 そこで今回は、レンズ工場でのコーティング処理工程の簡単な説明と、通常のレンズコーティングとは「別扱い」されている特殊コーティングについても取り上げていきたい。

 唐突だけど、ここで余談というかエピソードをひとつ。
  ━━ だいぶ昔の話になるけれど、ヤシカ(のちに京セラ)とカール・ツアイスが提携を結んで、ヤシカがコンタックスブランドのカメラやレンズを国内製造し始めた。コンタックスのレンズに採用されていたレンズコーティング技術(T*コート)は素晴らしいもので、世界でも高い評価を受けていた。コンタックスレンズの描写の味はレンズコーティングにこそある、と言う人もいたぐらいだ。
 ヤシカの時代だったか京セラ時代だったか私の記憶が曖昧だけど、レンズ技術者と話をしていたときに「ツアイスの人はね、コーティングの材料を手に持ってやってくるんです。他人に決して預けないし、私たちには触れさせない。もちろんそのコーティング材の内容は秘密にして教えてくれません」と、そんな話を聞いて感心したおぼえがある。ドイツ人技術者がコーティング材料の入った瓶を大切にカバンに入れて、ドイツからみずからやってくる姿をまじまじと想像したものだ ━━ 。

 ツアイスレンズのコーティングの魅力は冒頭にリストアップした「③カラーバランス/諧調描写の最適化」にあたるのではないかと思う。ツアイスレンズの独特の深みと味わい、豊かな諧調描写は(決して解像描写力に優れているというわけではないのだが)、すなわちツアイスレンズの写りの良さはレンズコーティングに大きな理由があるのではないかと考える。
 これもだいぶ前の話になるが、異なるメーカーのレンズで同じ焦点距離のレンズで同じシーンを撮ったという四つ切りサイズ黒白プリントを5~6枚を並べて「さあタナカさん、どの写真プリントがイイと思いますか」と見せられたことがあった。選ぶのにそれほど時間はかからずにそのうちの1枚を「これだ」と、それがツアイスレンズで撮ったものだった。ウソのようなホントの話だ。いうまでもないが、ツアイスレンズの良さはレンズコーティングだけのおかげだとは言い切るつもりはない。でも私はレンズコーティングの大切さ・・・いやこれ以上はくどくなるのでやめておく。

 ツアイスに限らず、レンズコーティングのもろもろの技術は国内のメーカーの多くでも、その技術については秘密にしている。ツアイスのコーティング材を秘密にした話と大差ない。
 それほどレンズコーティングはレンズにとって大事な技術のひとつで、つまり「レンズの味や描写の味」にとっても大切な役目があるということだ。

レンズコーティングの工程

 話をもとに戻して、さて、一般的なレンズコーティングを処理、製造する方法は、まず研磨したレンズをラックに並べて真空状態にした「釜(チャンバー)」の中に入れる。真空蒸着だ。
 釜の中ではコーティング材料(フッ化マグネシウム、酸化ケイ素、アルミナなど)を蒸発させ、数ナノメートルのごく薄い膜状にしてレンズ表面を覆うという真空蒸着方法によりレンズ表面にコーティングが施される。


 上の動画は、レンズ工場でレンズのコーティング処理をする過程をイメージ化したもの。とてもわかりやすいイラスト動画になっている。富士フイルムのレンズ技術解説ページから拝借。

 下の(図・1)手前のレンズフックに研磨済みのレンズを並べ、奥にある釜(チャンバー、高さは約3メートルほど)に入れてコーティング(蒸着処理)するところ。タムロン青森工場で撮影。

(図・1)

 多層膜コーティングでは真空の釜(チャンバー)のなかに複数のコーティング材料を充填し、各層毎に材料を切り替えてコーティングする。撥水・撥油や防汚のフッ素コーティングも同じように真空のチャンバーを使っておこなうメーカーも多い。

 レンズコーティングの初期には単層膜のコーティング(モノコーティング)だったが、蒸着技術の向上により、現在では使用するレンズの屈折率やコントロールする光の波長などにより種類を変えて複数重ね合わせて多層膜にするマルチコーティングが一般的になった。各メーカーで独自に改良を積み重ねたマルチコーティングを採用している。

特殊コーティング(特殊コート)とは

 そうしたチャンバーを使った真空蒸着法による薄膜多層コーティングから、さらに一歩も二歩も進化した未来のコーティングが数ナノレベルの微細構造を備えた特殊コーティングである。
 ナノとは長さの単位。1ナノ(nm)は可視光の波長(380~780nm)よりもずっと小さく10億分の1メートル。たとえて言えば、直径が約2センチの1円玉を1ナノとすると、1メートルはほぼ地球の直径に相当するという。つまり、それほどに小さく細かく溶液状にしたコーティング材を使ってレンズ表面に〝塗布〟するなどして薄い膜でコートする。〝塗布〟とは書いたけれど、塗布してコーティングしているのかどうか定かでない。

 いくつかのメーカーに、製法などについて質問したことがあるのだが、それについては完全秘でまったく教えてくれなかった。と同時に、構成レンズ群の、どのレンズのどの面にコーティングを施しているのかについても、どのメーカーも同じように完全秘だった。いろいろと内緒の多い技術のようだ。
 
 ナノ構造の特殊コーティングをいち早くから写真用レンズに採用し始めたのはニコンの「ナノクリスタルコート(Nano Crystal Coat)」からである。

 ナノ構造コーティングは、垂直方向、斜め方向にかかわらず、レンズ表面に入射する光の反射を大幅に低減することができる特性を持つ。その構造はごく簡単に言えば、膜の中に微細な空気の穴や隙間を備えていて(多孔質膜)、そのために光が面で反射せずにその穴に潜り込んでいくからだ。
 従来のマルチコーティングは面にたいして垂直方向からの入射光には有効なのだが、斜め方向からの入射光には反射を充分に防ぐことができなかった。このことから、ナノ構造特殊コーティングはとくに曲率の高い(球面が急激な半円状になっている)レンズ面に使用することで効果がある。

 ニコンではナノクリスタルコートをさらに進化させた「メソアモルファスコート(Meso Amorphous Coat)」や「アルネオコート(ARNEO)」などを開発し新型レンズに搭載している。ZシリーズのSラインレンズのすべてにナノクリスタルコートが施されているそうだ。
 ナノクリスタルコートは斜め方向からの入射光に対して有効に反射を抑え、いっぽうアルネオコートは垂直方向からの入射光の面反射を抑える働きがある。それら両方のコートを組み合わせることで、さらにいっそう面反射の低減効果が出てゴーストやフレアの発生を抑えることができるという。

(図・3)ナノクリとメソアモル

 (図・3)ナノクリスタルコートもメソアモルファスコートもナノ粒子構造になっていて、入射光がその隙間で屈折するため面反射を大きく抑えることができる。メソアモルファスコートのナノ粒子はナノクリスタルコートのそれよりもさらに粒子が細かく隙間(メソ孔)も多い。それによりナノクリスタルコートよりも高い屈折率があって、より面反射を抑える効果がある。ニコンのレンズ技術解説ページから。

 このほかに、ナノ構造コーティングを採用しているおもなメーカーは現在、ニコン以外にも多くのメーカーがある。例えば、

 キヤノン ━━ 「SWC(SubWavelength Structure Coating=サブ波長構造コーティング)」や「ASC(Air Sphere Coating)」
 ペンタックス ━━ 「ABC(Aero Bright Coating=エアロ・ブライト・コーティング)」
 タムロン ━━ 「BBAR (Broad-Band Anti-Reflection)G2コーティング」
 パナソニック ━━ 「ナノサーフェイス(Nano Surface)コーティング」
 ソニー ━━ 「ナノAR(Nano Anti Reflective)コーティング」
 シグマ ━━ 「ナノポーラスコーティング(Nano Porous Coating)」
 富士フイルム ━━ 「HT-EBC(High Transmittance Electron Beam Coating)」や「ナノGI(GI=Gradiet Index)コーティング」

 などである。
 いずれの特殊コーティングも日々、改良され進化しつづけている。

 下の(図・4)はキヤノンの特殊コーティング「SWC」と「ASC」の構造と効果を図解で説明したもの。SWCはナノ粒子の素材や形状がニコンとは異なるが、入射光を屈折させて面反射を大幅に防ぐという基本は同じ(面反射を約0.05%にまで低減させる効果があるらしい)。
 SWCのくさび形(高さは可視光の波長よりも小さく約220nm)構造の素材には酸化アルミニウムが使用されている。ただし、このくさび形構造のため外部からの物理的接触には大変に弱く、軽く触れただけで壊れてしまう。キヤノンのレンズ技術解説ページから。

(図・4)
(図・5)

 上の(図・5)はキヤノン・RF28~70mmF2L USMに採用されている特殊コーティングのSWCとASC、そして防汚のためのフッ素コーティングのコート面の場所を示したものだ。通常、多くのメーカーはどのレンズのどの面に、どんなコーティングを施しているか非公開にしているのだが、キヤノンはコーティングのレンズや面などを詳しく公開している珍しいメーカーだ。それだけ技術に自信を持っているのだろう。

(図・6)

 (図・6)はペンタックスが開発した特殊コーティング「ABC(エアロ・ブライト・コーティング)」の説明図解。その構造と効果は、ニコン・ナノクリスタルコートやキヤノン・SWCとほぼ同じで、ナノ粒子(約20nmのシリカ粒子)を使ってその隙間で入射光を屈折させ反射を抑えるものだ。ABCはレンズ面に下地層としてマルチコーティングを施し、その上にアエロ・ブライト・コーティングをしている。

特殊レンズコーティングの将来

 撮影レンズの表面反射を大幅に抑え透過率を飛躍的に向上させる有効なナノ構造コーティングだが、残念ながら現在のところいくつかの「欠点」がある。
 コーティングの構造が大変に柔らかくて、軽く触れただけで剥がれてしまうことがひとつ。これはレンズ組み立て工程での取り扱いに大きな制約があり生産効率も悪い。もうひとつは、本来使用したいレンズ面に採用することができないことが難点。フレア/ゴーストの発生を抑えるには第一面レンズにコーティングするのがいいのだけど、その面はもっとも触れやすいので使えない。さらに困ったことは、コーティングをするのにレンズ1枚1枚ごとに手作業のようにして薄く均一に〝塗布〟しなければならず、手間と時間と技術力を要することである。特別な作業工程を経なければならないのでとうぜんコストもかかる。

 今後の改良課題はコーティングのハード化である。こすっても剥がれないようにすることなのだが、しかしその構造上きわめて困難のようだ。せめてレンズ組み立て時に、自由に取り扱いできる程度に硬質化できれば作業効率はアップする。
 実際、各メーカーともナノ構造コーティングのハード化に取り組んでいるようだが、その詳しい製法や材料、設計内容についてはどのメーカーも「秘中の秘」としている。夢のような話ではあるが、将来、ハード化したナノ構造コーティングが低コストで、どのレンズ面でも自在に使えるようになれば、有害光カットのためのレンズフードが不要になるかもしれない。

(図・7)

 (図・7)特殊コーティングを施したレンズ(左)とそうでない通常コーティングだけのレンズ(右)を使って同じシーンを撮影比較したものだ。フレアが大幅に抑えられ、大変にクリアな画像になっている。

 レンズのコーティングは単層膜のモノコーティングから始まり、いまでは多層膜のマルチコーティングがごく一般的になった。それにともなってレンズ設計の自由度が広がった。さらにナノ構造の特殊コーティング技術がこれからさらに進化することで、ますます、悪条件でもフレアやゴーストの発生がきわめて少なくなり、透過率を飛躍的に良くすることでコントラストとシャープネス、階調描写性能に優れたレンズを生み出すことも可能になってくるだろう。

 次回と次々回は、私にとっての難題の「ぼけ」描写についての話を2回に分けて取り上げたい。


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