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第1章 どす黒い奔流 (2)

【「ものがたり」概念との出会い】

というのも、それまで私にとって「ものがたり」という概念は、どちらかというと否定的な価値だったからです。

私が最初に「ものがたり」概念を意識し用いるようになったのは、ビジネスの世界におけるマーケティングからでした。マーケティングとは、簡単にいえば、「商品やサービスを(潜在的な)顧客に購入してもらうように仕向ける、方法とその実行」ということになります。

私がマーケティングに関わった2000年代、日本は既にゼロ成長時代に入っていました。物やサービスへの需要が飽和状態になっていたため、それらを売るには、価格や品質だけではなく、生産者やサービス提供者の「ものがたり」、ブランドを象徴する「ものがたり」が重要であるということが意識されるようになりました。これを「ストーリーマーケティング」と呼びます。まさに「ものがたり」マーケティングですね!

「ストーリーマーケティング」の最初の試みのひとつは、いまでは当たり前になりましたが、スーパーマーケットの野菜売り場に、生産農家の「顔」をステッカーやポップアップで表示するようになったことです。むき出しのジャガイモやなすが転がっているより、生産者の顔が見える野菜の方が、消費者としては安心感や親しみが持てますよね。中にはポップアップの中身をじっくり読んで、生産者の意気込みや苦労に共感する人もいるかも知れません。そうなったら、その人は、その農家の野菜を買い続けることでしょう。

テレビCMの世界では、これまでの商品の品質や価格をダイレクトにアピールするコマーシャルから、一見、無関係に見える「ものがたり」を描いたコマーシャルが登場するようになりました。その最も有名な成功例は、Amazonです

私は、当時、こうした「ストーリーマーケティング」の考え方を取り入れて、まだ3G携帯しかなかった時代ですが、地域の観光資源(自然遺産、文化遺産的なものから、街歩きの楽しみ、食べ歩きやその地方ならではの文化体験の面白さ)を、ユーザーの立場、あるいは地元の人の立場から、GPSの位置情報を付けて、画像や動画で発信する仕組みを考案しました。そして、それを当事者の地方自治体と組んで、経済産業省や国土交通省の助成金のコンペに応募し、8件ほど、のべ3億円近いプロジェクトを実施してきたのです。

その企画とコンペでのプレゼンテーション自体が、「ものがたり」でした。何度か提案書を書く経験を重ねると、発注者である官僚や審査委員達の心に刺さる「ものがたり」が書けるようになります。そして発注者の側から、「来年度も、続きを期待していますよ」と声を掛けられるようになります。彼らは、それが自分たちの実績と評価につながるので、革新的でユニークなモデルを求めているからなのです。

しかし、「ものがたり」は、どこまでも「ものがたり」なんですね。「夢ものがたり」だと言ってもいいかもしれません。AmazonのCMのように、実際に、おばあちゃんがヘルメットをかぶって、孫の運転するバイクの後ろに座って、今は亡き夫と若かりし頃、ツーリングした思い出に浸る・・・ということは、起こりそうにもありません。「ストーリーマーケティング」の手法は、どこかうさん臭さ、嘘っぽさ、偽善の匂いがするものです。

助成金の仕組みが、採択から半年くらいで成果を出して報告書を提出しなければならないという、これもまたうさん臭いものであったこともあり、私の提案したプロジェクトが地域に根付いた例は、一件もありませんでした。私も、地域の当事者も、とりあえず数千万円のお金が入れば、それで良かったのです。

「ものがたり」概念の否定的な側面のもう一つは、引きこもりの青少年達との関わりから、私が感じたものでした。

3章の日本人の生きづらさの本質で詳しく述べることですが、彼らが引きこもるのは、端的に言えば「外に出るのが怖い」からです。何が怖いのかというと、社会が彼らに押し付けていると彼らが感じている、「らしさ」「あるべき姿」を自分が演じることができず、社会から自分の価値を否定され、追放され、独りぼっちになって、「死んでしまう」ことが怖いのです。

もし本当にそうなったら、誰でも怖いですよね。

しかし社会が演じることを強いていると彼らが感じる、「らしさ」「あるべき姿」というのは、彼らや彼らの親が半ば盲目的に信じている「ものがたり」であって、現実ではない。彼らが「ものがたり」を信じてしまうのは、彼らの自我が未発達だからだと、私は思っていました。

ところが、私自身、サラリーマンを辞めて会社を起こし、それなりの資金を投資し人材も雇ってリスクを背負うと、想像だにしなかった重圧に、押しつぶされそうになる感覚を覚えることがしばしばありました。そうです。その重圧の本質は、「成功のものがたり」が成就せず、「失敗のものがたり」の主人公になるという恐怖だったのです。

こうした経験を経て、次第に私は、「ものがたり」というのは、単にマーケティングの概念でもなく、引きこもりの幻想でもなく、私たち人間社会を成り立たせている、強力かつ不可欠のメカニズムであって、それは人間の人生に肯定的にも否定的にも作用するのだということが分かって来ました。

そして「ものがたり」は、人間の人生に否定的に作用することもある、などという生易しいものではなく、その本性は「ばけものがたり」なのだということを、改めて認識させる出来事が起こりました。

2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻です。

私は1991年のイラクによるクウェート侵攻の第一報を報じ、湾岸戦争やボスニアヘルツェゴビナ内戦の経緯をつぶさに見てきましたが、ロシアの侵略はそれらとは次元を事にするものでした。

第1にこれは人口1.4億の国家による、人口4000万の国家に対する侵略戦争でした。ヨーロッパで起きた戦争であり、事実上ロシア対NATOの戦争に等しいものでした。そして、それを引き起こしたのが、「ウクライナは歴史的にロシアの一部である」「自分はピョートル大帝の大ロシア帝国を復活させる人間である」という、プーチンの「ものがたり」でした。

「ものがたり」は、自らの正統性を主張するために、しばしば他の「ものがたり」を否定し、侵略し、抑圧し、強姦し、破壊します。これこそ「ばけもの」の本性です。

しかし、私が「ばけものがたり」と題したこのエッセイを書かなければならないと決意し、その中心的な命題である、「人間中心主義から存在中心主義へのコペルニクス的転換」を強く意識させてくれたのは、私の知人を通じて手に入れた、若いウクライナ人兵士の家族に宛てた手紙でした。

長いのですが、重要なので、全文を引用させてください。なお、原文はウクライナ語ですが、知人が英語に翻訳してくれたものを、私が日本語にしたものです。

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