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第4章 日本人の生きづらさの本質(7)

7.主観化し共観する日本語

日本人は、そもそも論理と実証を行動原理とすること、合目的型の思考が苦手なのです。そこには日本語の成り立ちが大きな影響を与えていると考えられます。

日本語は(それに韓国語もそうですが)主語が無くても、目的語が無くても成り立ちますよね。

「どこにする?」

「外、暑くない?」

「でも、がっつり行きたいな」

「冷しゃぶうどん。今日の、社食。」

「ええやん!」

「決まりね」

おそらく最初の発言者は、壁にかかった時をチラッと見て、パソコンをシャットダウンし、机の上をかたずけながら、その発言をしたでしょう。他の社員は何人いるのか不明ですが、机を向き合わせて座っているものと推定されます。この会話には全く主語がありませんし、目的語もほとんどありません。それでも会話が成立していますよね。しかもちゃんと意思決定が行われています(笑)

これを英語にするとこんな感じでしょうか・・・

A: Where shall we go for lunch?

B: It’s too hot today, so I don’t want to go far for a restaurant.

C: You mean you want to have takeaway lunch? I am hungry and want to eat enough.

D: How about the staff canteen? Today’s set meal is cold shabu udon.

B,C: That sounds good!

A: Let us go to the staff canteen for cold shabu udon.

日本語では太字の部分のみことばにされていて、他の部分は省略されています。省略されても会話が成り立っているということは、会話の参加者が省略された部分を自分で補って理解しているということを意味します。

これはとんでもなく優れた日本語(を使う日本人)の能力です。主語と動詞と目的がセットでないと成り立たない英語がスポットライトだとすると、日本語は間接照明だといえるでしょう。スポットライトで発言者の主体性やロジックを浮き彫りにしなくても、天井に反射した光の陰影で日本人は相手の「気持ち」が分かるのです。

そうです、日本語はそれを語る人間の「気持ち」をやり取りする言語なのです。そして「言語にならない部分」をも表現できる言語であり、聞き手はそれを「聴き取る」ことができるのです。

私はこれらの日本語の特性を、「主観化する日本語」(「気持ち」をやり取りする言語)「共観する日本語」(言外を表現し伝達し理解できる言語)と呼ぼうと思います。

(注)共感ではなく、共観です。「共感」は相手の考えに同意し、相手の感情に自分の感情をシンクロさせることであって、それが日本語の原理の一つだということはできません。日本語とそれを使う日本人は、「相手の立場に立って、その視点でみる世界がどのようなものか想像できる」のであって、このことは「共観」(to see together with a common view)ということばを当てる方が正しいと言えます。

昔、東京の中心で夜のタクシードライバーをしていました。夕方は大手町で社用族を六本木や神楽坂に運び、赤坂や六本木の大企業では夜になるとタクシーで帰宅するチケット族を自宅まで運び、21時からは銀座、六本木、道玄坂、歌舞伎町などをはしごする客のためにこれらの地域を巡回。終電以降はそれらの地域で酔っぱらった客を1時間近い距離の近郊まで運ぶ、というのがパターンでした。

この当時、私が思ったのは、夕方の5時、6時から、11時、12時ころまで、6時間余りも良く話すことがあるな(それも毎日、あるいは週2,3日)ということでした。私もそういう風習に付き合った時代があるので良く分かっていますが、話の主題は、たいがい「ムラ」の団結を目的とした、他のムラの上司や同僚の悪口、同僚同士の傷の舐め合い、互いの家族事情などの探り合いといったものなのです。こんな目的にそれほどの時間をかける必要があるのだということが、私にとってはあらためて驚きでした。「主観化する日本語」「共観する日本語」であるからこそ、相手の「気持ち」や「言外の意味」を理解するのは可能だといえ、やはり時間のかかる難しい作業なのでしょうね。

ところで「日本人の生きづらさ」という問題を考えるときに、やはり無視できないのが日本人の自殺率の高さです。2021年の世界保健機関の統計では、G7の中でトップで、全世界でも7位です(ちなみにトップは韓国です)。私は、主観化する日本語の特性が、自殺率の高さと無関係ではないと思っています。

主観化する日本語は、「気持ち」をやり取りすることに長けた言語だと述べましたが、それだけではなく対象に感情移入することにも長けている、別のいいかたをすると対象にすぐ感情移入してしまうという側面があります。


日本の演歌の代表作といえば、石川さゆりさんの「津軽海峡・冬景色」(阿久悠作詞)でしょう。そして日本の抒情詩の代表と言えば(これには異論があると思いますが)、中原中也の「汚れつちまつた悲しみに」でしょう。

上野発の夜行列車 おりた時から
青森駅は 雪の中
北へ帰る人の群れは 誰も無口で
海鳴りだけを きいている
私もひとり 連絡船に乗り
こごえそうな鴎見つめ 泣いていました
ああ 津軽海峡冬景色
(中略)
さよならあなた 私は帰ります
風の音が胸をゆする 泣けとばかりに
ああ 津軽海峡冬景色

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

(以下略)

青の太字で示したところに注目していただきたいのですが、阿久悠の詞では「こごえそうな鴎(かもめ)」「風の音」それら「津軽海峡の冬景色」という客観的な対象が、「(私に対して)泣けとばかりに」、私の感情と同化し一体となった巨大なものとして押し寄せてきます。

中原中也の詩では、やはり私に降りかかる「小雪」や吹きすさぶ「風」という対象が、私の「汚れつちまつた悲しみ」そのものとして捉えられています。あるいは私の存在自体が悲しみそのものであって、「小雪がかかってちぢこまる」のです。

これらの詞(詩)は、「主観化する日本語」の力によって、何の変哲もない風景(つまり表象と出来事)が、「私」の感情と同化し一体化する(すなわち「ものがたり」化する)ありさまを見事に表現しています。それは本来客観的であるはずの世界が、「私」の感情によって主観化され、「自分」で埋めつくされている状態です。「自分」とは共同体に認められ居場所を得たいという「自己愛」の反映ですから、世界は、自分の幸福不幸を左右する絶対的な存在として、私の前に立ちふさがるのです。

そうすると、共同体の望ましいものがたりの望ましい配役を演じている「自分」は、「世界の中心で愛をさけぶ」ことができるのですが、共同体から排除された「自分」は、生きている意味が無く、死んでしまいたいと思うようになるのですね。

これは西洋の詩とは全く別の世界です。比較する詩を見つけ出すのは大変難しいのですが、絶望的な作者の状況(といっても作曲者がそうであって、作詞者ではありませんが・・)で読まれた詩で、有名かつ比較が分かりやすいのは、フランツ・シューベルトの歌曲集「冬の旅」(作詞 ミューラー)の5曲目、「菩提樹」でしょうか。

門の前の井戸には
菩提樹がある
私はその木陰で夢を見た
甘い夢をたくさん見た
私はその樹皮に
多くの愛しい言葉をきざんだ
喜びのときも、悲しみのときも
私はいつもその木に引き寄せられた
今日もまた、さまよわなければならなかった
深い夜の中を
私は暗闇の中で目を閉じた
目を閉じた
枝がざわざわと揺れた
まるで私を呼ぶように
旅人よ、私のもとへ来なさい
冷たい風が私の顔に吹きつけた
まっすぐ吹きつけた
私の帽子は頭から飛ばされた
私は振り向かなかった
今、私はあの場所からはるか遠いところに来ているが
いまでもあのざわめきが聞こえる
あなたはそこで安らぎを得るでしょうと
(ドイツ語からDeepleで翻訳)

歌曲集「冬の旅」は、1828年に31歳の若さで亡くなった、フランツ・シューベルトの30歳の時の作品で、クラシック音楽全体の中でも最高傑作の一つです。理解しやすいように、この「冬の旅」の全体像を簡単に述べると、これは失恋し、ふるさとを出ていく孤独な若者の旅のものがたりです。どうやら単なる失恋ではなく、自分の人生の土台となっていた愛や信頼や人間関係そのものに裏切られて、絶望の中、死の中にしか安らぎがないのではないかと、目的地もなくさまよい歩く若者の心情を描いたものと思われます。

「菩提樹」は、彼がかつて「甘い夢をたくさん見た」、「多くの愛しい言葉を」刻み、「喜びのときも、悲しみのときも」引き寄せられた、「想い出」の象徴でした。そのそばを通り過ぎる彼の様子は、青森港にたたずむ女や中原中也に通じるものがあります。いずれの詩にも風が出てきます。

風の音が胸をゆする/ 泣けとばかりに
汚れつちまつた悲しみに/今日も風さへ吹きすぎる

しかし、この2つの詩では、悲しみそのものとなった世界に、「自分」がどんどんのめり込んで行くのに対し、ミューラーの詩では、

冷たい風が私の顔に吹きつけた/まっすぐ吹きつけた/私の帽子は頭から飛ばされたが/私は振り向かなかった

若者は「菩提樹」という「想い出」すなわち自己愛から遠ざかっていき、「振り向かない」のです。ここには、世界と自分自身をあたかも上から俯瞰して客観的に見ている、「私」の存在を感じませんか?

そうなんです。これが日本文学と西洋文学の違い、日本語とヨーロッパの言語の違い、そして母性原理と父性原理の違いなのです。

世界を主観化するということは、その世界を絶対化することと同じです。  一方、世界を客観的に見るということは、その世界を相対化することと同じです。

日本人は、自己愛(望ましさ・居場所)が満たされないことによって傷つくことを何より恐れるので、共同体の支配的価値観から「浮かないように」、「空気に同調する」ことを行動原理にします。同時に主観化し共観する日本語の特性のせいで、空気が支配している「今、ここにある世界」を、絶対化してしまうのです。「今、ここにある世界」(共同体)は、唯一無二のものであって、ここに居場所が無くなれば、自分は死んでしまう!と思い込むのです。

これに対し「選択し、決断し、責任をとる主体としての自我」を持ち、「外なる法」とは独立した「内なる法」を行動原理とする人間は、「今、ここにある世界」を客観的に、つまり世界と自分自身を上から俯瞰して見ることができるので、「今、ここにある世界」とは別に、「かつて、そこにあった世界」も、「いずれ、どこかにできる世界」もあることを知っています。世界を、共同体を相対化できるのです。つまり、世界は、私の外に確固不動のものとして存在するのではなく、共同体、ことば、自己愛、肉体によっていつも揺らいでいる、「ものがたり」に過ぎないことを知るのです。
(第4章おわり 第5章に続く)

第4章の要約


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