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第3章 日本人の「生きづらさ」の本質(3)

3.「父性原理」と「母性原理」

「母による子の存在の絶対的な肯定」の感覚、その「想い出」が、「自分」の存立の基盤であり、生きる上での安心、自信、希望となるのは、おそらく人類共通の原理だとは思います。しかし人間が最初に所属する共同体である親子関係において、子供が最初に自覚する「望ましさ」(望ましい「ものがたり」の、望ましい配役)は、母子関係に基準がある場合と、父子関係に基準がある場合の2通りがあると考えられています。

心理学者の河合隼雄は、これを「母性原理」と「父性原理」と名付けましたが、私は「ものがたり方程式」に即して、新しく定義したいと思います。

「自分であることの土台」「『自分』の存立基盤」が、

  1. 母による絶対的な肯定

  2. いつも母とつながっていたいという欲求

  3. その充足によって得られる「居場所」

という3つの要素で成り立っている時、これを「ものがたり方程式」の「母性原理」と呼ぶことにします。日本人はこのような母性原理が、認識と行動の基準になっている人々が多いとみられます。

これに対し、私がいうところの「父性原理」とは、端的に「自己愛」の克服なのです。それは自分自身を含めた世界の相対化であり、その後に導き出される、「選択し、決断し、責任を取る主体としての自我」といえるものです。

母性原理と父性原理を理解していただくために、次のような場面を描いてみましょう。

ある日、母親が中学生の息子の部屋を掃除していると、ベッドの下から高級カメラが出てきます。部活から帰った息子に母親が問いただしている時に、普段は帰宅が遅いはずの父が今日に限って早く帰宅します。息子は、家電量販店でカメラを万引きしたことを認めます。ここから父と母が対立します。

父は、「万引きは犯罪であり、既に犯罪は成立している。お前は警察に自首するか、でなければ少なくとも店に自首すべきだ。」と言います。

これに対して母親は、「あなたは息子の人生を台無しにする気なのか?私が、明日家電量販店に行って、カメラをこっそり置いてくる。それで何もなかったことになるではないか。」と激高します。

父も負けていません。「お前こそ彼の人生を台無しにする気なのか?自分で自分の行動の責任を取らなくても、誰かが責任を取ってくれる。逃げられる、と教えているのと同じだぞ。お前は、彼から自立する力を、生きる力を奪うつもりなのか?」

ここで皆さんに、気を付けていただきたいのは、父は、「社会のルールや法律を守れ」といっているのではないという点です。「自分で自分の行動の責任を取れ」といっているのです。父にとって重要なのは、自分の行動を規律する倫理、原理であって、共同体の掟にかならずしも従うことではありません。私は前者を「内なる法」、後者の共同体の掟を「外なる法」と呼ぼうと思います。

「法」は、「ものがたり」の機能を理解するうえで非常に重要な概念です。詳しくは次の章で考察するので、ここでは「内なる法」と「外なる法」をザクっとイメージしていただければ結構です。

共同体の掟とは、もうお分かりだと思いますが、共同体における「望ましい『ものがたり』」のことであって、それに自分を合わせたい、そこから外れたくないという情動が「自己愛」でした。共同体の掟という「外なる法」を守るのは、守らなければ自分が制裁を受けて傷つくから、それを避けるために守るのではなく、「外なる法」が「内なる法」と一致するから守るのであって、もし一致しなければ「内なる法」に従い「外なる法」をも破れ、というのが、父性原理なのです。

一方、母にとって最も重要なことは、息子が傷つかないということです。万引きしたということが公になれば、彼は共同体にとって、「望ましくない『ものがたり』の、望ましくない配役」というレッテルを貼られて生きていくことになる。共同体から追放されてしまう。自分がカメラをこっそりと基に戻せば、「何もなかったこと」になり、息子も傷つかないし、店にも損害がない。これ以上の解決策はどこにある?ということになります。

ここでも、皆さんに注意を払っていただきたいのは、母は、共同体の掟、「外なる法」を、息子が破ってもよいといっているのではない、ということです。母性原理の核心は、母による子の存在の絶対的な肯定(存在価値の肯定)ですから、共同体が息子に要求する価値(それは使用価値・交換価値と呼べるものですが)を超越しています。仮に息子の犯罪が動かしがたいもので、その結果、共同体から追放されたとしても、「私のもとに帰っておいで。私はいつもあなたの味方だよ。私が最後まであなたを守ってあげる」というのが、母なのです。人質を盾に立てこもった犯罪者の説得に駆り出されるのが、日本ではいつも母親であり、たいがいその説得に従順に従って犯人が投降するのは、彼が、共同体から追放されても帰る場所があると信じているからなのでしょう。

息子の立場からすると、父より母を選びたくなりますよね。父性原理は厳しいけれど、母性原理はどこまでもやさしく、甘いですから。とはいえ西欧では父性原理の方が強く働き、日本では母性原理の方が強く働くというのは事実のようです。なぜそのような違いが生まれるのか、その違いは人間の生き方にどのような特徴をもたらすのか。この深い森のようなテーマに入り込んで行く余裕はありませんので、現時点ではとりあえず、日本では母性原理の方が強く働くという事実を前提に、それがもたらす結果を整理してみましょう。

  • 日本人は、幼児の時から、母による子の存在の絶対的な肯定関係の中で育ちます。その関係性が日本人にとっての、安心、安全、自己肯定感、自信の源泉すなわち「自己愛」(望ましさ)の源であり、「居場所」の原点なのです。

  • この自己愛(望ましさ)の感覚、居場所の感覚が「想い出」です。日本人は「想い出」を持ち、それを共有し合うことで、「ともだち」の輪を広げ、絆を強め、共同体の結束を維持します。

  • 一方、「母による絶対的な肯定に象徴される自己愛と居場所感覚」に染まって育つと、その感覚が失われることによって受ける心のダメージが非常に大きいものになります。「傷つく」というのはそういう感覚であって、日本人が何よりも恐れることです。この恐怖心が、「生きづらさ」の本質であって、共同体の中でその支配的価値観から「浮かないように」、常日頃から互いに「空気を読み」合う必要が生じます。それが共同体という閉塞した空間で、「同調圧力」として個々人に返って来るのです。

もちろん母性原理はあくまで人間関係のプロトタイプ(理論上の姿)ですから、日本人が一生の間に所属していく、友人関係、学校や会社や地域社会という複数の共同体の中で、「母による絶対的な肯定に象徴される自己愛と居場所感覚」が常に満たされるということは、ありえません。

大多数の日本人は、「生きずらさ」を感じながら、時に傷つきながら、共同体の求める「望ましいものがたりの望ましい役割」「何ものかでなければならない自分」と、「望ましいものがたりの望ましい役割からはずれた自分」「何ものかにはなれない自分」との間で妥協し、納得し、生きています。ところが、この妥協の技術、納得の技術を持てない子供、若者、おとなが時々いて、彼らは「傷つくこと」を極端に恐れて、引きこもります。自分の部屋に、家に、空想の世界、妄想の世界に引きこもるのです。彼らを「ひきこもり」と呼びます。(続く

*第3章その1の要約


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