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コピペ、リツイート、「引用」

引用

引用とは、読むことなのだろうか、書くことなのだろうか?

と言う、その本体自体が大変刺激的で有益な書物の帯に伏せられた言葉に、以前、痺れたことがある。
(『紙片と眼差とのあいだに』宮川淳 水声社、ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4891764623)

え、どっちだっけ? と。

簡単にいえば、まずは読まないことには始まらないし、かつ、それを誰かに伝えるべく、オリジナルの本から引っ張ってきて書き写すのであるから、当然、どちらのアクションをも含んだ、重層的な体験であることは間違いない。

もともとこの著作が発表された1974年と言う時代背景や、さまざまな刺激的論考を発表している著者について語るのはまたの機会に取っておくとして。改めて、言葉を使って生きている一人の人間として、たまに、この言葉を振り返りたくなることがある。

SNSで飛び交うtext

現在、人は、読むことすらせず、書くことすらせず、いろんなIT機器上で、指先を滑らせるだけで、テキスト・言葉を、流通させている。
コピペ、リツイート。それは、もはや、「引用」とは似て非なる次元に突入している。「読む」というよりも「見る」体験に支えられ、自分の胸元に「引きつける」ことなく、多くのプライベート空間に深く忍び込んだ公共空間へ、瞬時に「解き放つ」。
それは、指数関数的に、増殖し、重量をともわないのに、いや、だからこそ、ある日突然、個人の懐に強烈なボディブローを放つ

いや、よくよく考えてみたら、コピペ・リツイートされるテキストだけでなく、我々が「自分で書いた」と思うテキストだって、所詮半分以上は「予測変換してくれたテキスト」で埋め尽くされていることも多い。
果たして、それを、自分のテキストと言えるのか。

様々な言語体験

このような状況を否定的に捉えて、いたずらに悲観しているわけではない。
むしろ、言葉に生きる動物として、言葉自体がその性格を今の時代に、大きく変容させようとしているのであれば(言葉はこれまでも常に変容してきた筈だ)、これは、チャンスだ。最近のSNS上で交わされる言葉達が、様々な問題を引き起こしている中、きちんと、その言葉自体を問い直して見ることで、新たな社会に生まれ変われる可能性だってある。

考えてみれば、我々の言語体験もいろいろだ。
あげ始めれば、キリはないが、例えば、

<話す・聞く言葉>
・目上の人と話をする時に使う言葉
・友達どうしに語りかける時の言葉
・意中の人に初めて声をかける時の言葉
・独り言
・訓練されたアナウンサーなどの言葉
・コンピューターに機械的に読み上げられる、ちょっとくせのある言葉
・「歌」として、リズムと抑揚を伴った言葉
・それ自体、直接は意味を持たない、音、としての言葉
・理解不能な「外国語」ゆえ、何らかの音声としてしか聞こえない言葉
・言葉としてなりえない、嗚咽・うめき・叫び
・言葉としての意思をかすかに感じさせる、赤ちゃんの囁き

<書く・読む・見る言葉>
・書道で実践するヴィジュアルとして美しいテキスト
・手紙にしたためるために、体裁に配慮した手書きテキスト
・手帳に記す、箇条書きの言葉
・授業、講演会などで、語られた言葉を忘れぬよう書き留める、後で自分さえ理解できれば良い殴り書きの言葉
・多数の人に見えるように黒板やホワイトボードに大きく記す、チョークやマーカーで記す言葉
・タイプライター、テプラなどで、人間の手と機械の力を使って印字する文字としての言葉
・タブレットなど電子機器上で擬似的なペンで記録する、手書き風だが、実は画像としての文字
・上記、電子機器上で記された画像を、コンピューターの処理でテキストデータ化した言葉
・キーボードでカタカタ音を立てながら入力された電子機器上でのテキストデータ
・音声入力から、コンピューター上でテキスト形式に変換された言葉
・各種メディアで飛び交う膨大なテキスト達…

もとより、上記のような羅列が、言葉のありようを包含し得るとも思ってはおらず、世の中には、もっともっと多様な、言語体験があるはずだ。

読むこと、書くことの不自由さと自由さ

さて、そんな、読むこと、書くこと、という、我々人間にとって原初的な体験と、その変容の姿について、思いを馳せてみたのは、「引用」という行為が本来担っていた文化の醸成・発展にとって果たす重要な役割と、「コピペ・リツイート」と言った現代的な指先の操作がもたらしている様々な事象との違いは何なんだろう、と疑問に思ったからである。

どちらも、そのテキストを自分で一から紡ぎ出すわけではないし、どちらも、視覚と指先の操作(筆記具で物理的な紙を擦りながら痕跡を残すのか、キーボードを叩いて電子機器に情報を送るのか、タッチパネル上で指を滑らしたりタップするのか、という違いはあるにせよ)を伴うのだが、にしても、どうもその言語体験の、胸への迫り方が違う。

テキストを噛み締めることでガツンとくるテキストか、条件反射的に反応させながらそのスピードとリピートというボリュームでガツンとくるテキストか。

その二者を、「古き良きもの」対「新しいが表層的で深みも価値も薄いもの」という、つまらない構図にはおきたくないし、実は、どうガツンとくるか、という視点で分類しても、それが、テキストのスタイルの新旧という二者に分かれるわけではない。逆のケースもあるだろう。

ただ、以前、パソコンもワープロもガリ版刷りもなかった時代、人の書いた文章を書き写して「引用」するのは多少面倒であった。苦労して書き写すからには、それなりの覚悟と、労力をかけるに足ると思われるくらいの価値を認めない限り「引用」はしたくもなかったはずだ。

しかるに、現在は、「引用」をするための労力は著しく低減されている。
だから、いとも容易く、本来であれば、「引用」するほどでもないテキストも、「引用」してしまう。

その結果、それほど思い入れのないテキストが、膨大な回数「引用」され、我々の生活するあちこちに回覧されることになる。
世代が上になるほど、その「引用」の軽さに、寂しさを覚えるわけだ。

「引用」という行為そのものは誰にとっても自由だが、不自由な「引用」の方が、その後の展開・訴求力という点では、より自由であるのかも知れない。

思考の出発点としての「引用」

そもそも、「引用」とは、ラディカルな意味での「読む」ことと、ラディカルな意味での「書く」こととを重層化した体験であり、そんな行為を起こそうとする背景には、何かにいたく心を揺さぶられた、そこから新しい発見をした、それを誰かに伝えずにはいられない、など、強烈な動機が潜んでいる筈である。

それは、自分なりの新たな思考の出発点だ。その出発点から、どこに自分と、自分の思考が向かっていくか、は、自由。

それは、前回記したような、幸福な誤読を各所で引き起こしながら、社会を変容させていく思考、言説を生み出すこともあるだろう。

「引用」から「幸福な誤読」へ。

Misinterpret >>> Quote >>> Develop >>> Represent

幸福な誤読 >>> 勝手な引用 >>> 独自の深化 >>> 新たな作品!

現在、SNSやインターネット上で、飛び交う、コピペテキスト、リツイートなどが、そういう「新たな思考の出発点」としての「引用」たり得るのかどうか。
いや、「新たな『新たな思考の出発点』の形態」にならしめるべく、我々自身が、思考の方法をすら変える必要があるのかも知れない。

新たな言語体験を目指して

最近のAI技術で、一度自分が検索したテキスト、閲覧したWebサイト、ネット購入した商品などなどに関連する情報が、黙っていても届く。
そこまで、過去の履歴と傾向分析ができるのであれば、ネット上に発信される情報について、類似テキスト・Webサイト・商品を瞬時に分析し、ただのスカスカのコピペ情報なのか、そこに何かしらDevelopされた新たな思考があるのか、判定することも可能であろう。

それを、マーケティングに利用するのではなく、情報の「引用」の体系として分析し、その源流にあるオリジナリティ、新たな大きな潮流を起こしそうな鋭い支流をハイライトしていくテクノロジーとして利用しな手はない。

なんの創意工夫も見られないコピペ・リツイートについては、引用されるたびに、フォントが薄く小さく表示されるようにしておき、しまいにゃ、目をこらしても見えないくらいにすることだってできよう。
逆にそれが視覚化されるなら、盗用など、わざわざ線を引いて議論をする必要もなくなるか。

言葉は時代とともに常に移ろっていく。
同じ言語といえども、1000年前に書かれた文字は簡単には読み取れない。
消えていく言語もたくさんある。
だから、言葉の体験というものも、常に捉え所のないものだ。

逆に言えば、言語体験というのも、もっと自由でいい筈だ。

という、こんな雑文ごときで、新たな言語体験などと大きくでるつもりはないが、移ろいゆく言葉を使いながら、言葉の限界を知りつつ、でもそのシステムに乗っかって、いろんな人の言葉を遠慮なく「引用」しながら、日々を生き延びていく。

発想の転換も、そんな言語体験に支えられ。

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