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デジタル・ファシズムと知性の『懐疑』(1)🌟

 『ショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)』という言葉をご存知でしょうか。この言葉は、カナダのジャーナリストであり、作家であるナオミ・クライン氏が著書「ショック・ドクトリン―惨事便乗型資本主義の正体を暴く上下』にて起用し、物議を醸し出した造語になります。
 新型コロナウィルスにて、実に多くの人々が、国あるいは社会が何か変だと思い始めた昨今、この言葉を日本でも目にすることが増えました。
 これは、一般市民が予想外の出来事や惨状を前にして茫然自失としている時に一部の極々少数の人々が信奉するイデオロギー(政治的立場や思想、思惑のこと)を元に迅速にかつ密かに推し進める社会改造を指しています。しかし、筆者はここには、エンターテイメントなニュースも含まれるということを追記しておきたいと思います。例えば、マスコミが賑わす不倫問題や財政界で起こる不正疑惑や汚職の問題等、多くの人が思わず驚くようなニュースです。
 例えば、既存の物事への変化には必ずメリットとデメリットが存在する筈です。皆さんが日々の生活習慣において、これまでの起床時間よりも一時間早く起きて、運動のためにジョギングを日課にしていこうという目標を立てたとしましょう。これまでの習慣的な起床時間が悪だった訳ではありませんが、健康のために運動をするというメリット、そして睡眠時間をこれからは削るというデメリットを受け入れなくてはいけません。
 まず何かを決める時、知性的な大前提として、メリットとデメリットを照らし合わせる事で、どちらがより善い(自分や他者のためになるか)を人は、吟味し、納得を促し、判断していく事で個人から国家、世界に至るまで緩やかに発展してきました。
 しかし、この『ショック・ドクトリン』という一つの手法、実は改革主義的な側面が強く、デメリットに対する十分な同意や説明もなく、知らず知らずのうちに物事が進み、蓋を開けてみて初めて、国民や市民が持っていた印象とは、大きく違っていたという事が多々あるのです。 
 この『ショック・ドクトリン』という現象を体験してもらうために次のYouTube動画をご覧ください。

 人がある一極に集中している時、多くのことを見落としてしまいがちです。事件や事故、エンターテインメントやテレビのニュースだけにとらわれていると大きな見落としがあるのは明らかだと思われます。

 さて、筆者は今まで新型コロナウィルスに関するこの一連の騒動について疑問を呈してきました。その致死率は、疾患を持つ人と高齢者、健常者を比べた時に大きく異なりますが、世代別で絞りこんで統計してみても2%以下と、メディアがこぞって煽り立てるほどの脅威は存在すらしないのでは無いでしょうか。

 しかし、国民や志を持つジャーナリスト達がどれだけ国にエビデンスを求めても、はっきりとした政府機関からの返答は無いに等しいまま我々一般市民にとっては、悪戯に時間だけが過ぎています。

 そのような中でも、着々と国が進めている思惑に目を向けることこそが、今の時代には必要であると筆者は考えています。今こそ上記の『ショック・ドクトリン』を思い出すべき時なのです。私たちは、新型コロナウィルスを広告代わりとして使われていないか、注視する必要があります。
 昨今、コロナ化で進んでいる種苗法改正、移民受入問題、また岸田内閣が急ぐデジタル社会の実現。これらは全てコロナ禍の中で起こっている事です。

今、政府が押し進めているもの。

 安倍晋三氏から始まり、菅義偉氏、岸田文雄氏へと続く新型コロナウィルス騒動禍の自民党政権ですが、マスコミが疫病蔓延を謳い、口々に社会はどうあるべきかと煽り立てていた時、国会では新型コロナ対策とは全く別の事が議論されていても我々国民は意識する事さえなく、物事は自然な形を装って、しかしその実不自然に進んでいます。
 昨今、岸田総理がコロナ禍で推し進めている『誰一人取り残さないデジタル化』を謳う政策。これだけ聞くと、恰も全ての人の状態や生き方を受容した懐の大きな社会の形であるかのように感じます。

 しかし、本当にそうなのでしょうか。
 この世界には、様々な人が存在します。
 生まれながらに知的や心の病を負った人、体が先天的あるいは後天的に不自由な人、五体満足で生まれた人もいれば、視覚や嗅覚、味覚などに困難を持って生まれた人もいるわけです。生まれながらに貧困家庭に生まれた人もいれば、片親家庭の人もいて、様々な家庭環境や事情を抱える人々が集まるのが社会なのは皆さんがご存知の通りです。
 これらの人が受容される抱擁される社会とは、本当に岸田新総理がいうデジタル化社会なのでしょうか。それは、本当に『どのような人も、逸れものにしない社会』なのでしょうか。如何なる人もそこに在ることを受け入れ、認める社会なのでしょうか。

 この迅速なデジタル化社会とは、何を目的にした社会なのかという事を私たちはもう一度考え直す必要があります。何故ならば、余りにも急速であり、しかし着実に物事が進んでいるからです。
 昨今はその概要を説明される事なく、いきなりデジタル化というニュースが飛び出てきていて、困惑されている方も多いのではないでしょうか。国民の多くが反対した覚えも無いけれど、賛成した覚えも無いことが着々と進んでいるのです。
 上記のムーンショット計画の目的には身体、脳、空間、時間の制約からの解放を目指すと、はっきりと書かれています。例えば、マイナンバーカードは非常にこの計画と相性がいいのです。数字はデータ化するのに最も適した言語です。それを用いて、あらゆる国民をナンバリング化し、生活上で必要なあらゆる個人情報と紐づけできます。今回で言えば、健康保険証と連携する事でその人の健康状態をデータ化する事は不可能ではありません。どのような健康状態か、どんな薬を飲んでいるのか、あるいはどんな病にかかっているか、データが蓄積してくれば、その人の生活習慣によって、どんな健康被害が考えられるのか予測さえ可能になります。それらの個人情報を政府機関が知る事ができれば、その個人情報からあらゆるビジネスに繋げられる危険性がある事を私たち日本国民は知っておく必要があります。

 ですが何故、個人情報がビジネスに繋がるのでしょうか。例えば、皆さんはAmazonやYouTubeなどで普段買っている物や視聴している動画などからAIが自動で次のお勧め動画や商品を紹介してくれる事に身に覚えはありませんか。
 筆者を例にすると、哲学書や思想書をよく買って読むのですが、似たような内容を取り扱った書籍がよく次のお勧めの欄に登場します。同じ作者、もしくは同業者や思想が同じもの、あるいは反対のものまで表示されるのです。そうすると、次にどんな本を読むのかをさほど悩まずともタイトルに惹かれて買ってしまう事もあります。
 このように誰がどこでどのような内容の本を買ったかという情報は、広告を効果的に使用するという事に関して、非常に役立ちます。消費者の購買意欲をより一層高めるのに非常に有効な訳です。これを健康状態に当てはめれば、どうでしょうか。皆さんが何かしらのご病気に罹られた場合、お医者様や専門家がAIアルゴリズムの役割を果たす事ができます(むしろAIこそがお医者様に成り代わる事さえ、これからの時代はあるかもしれません。)。
 皆さんは、お医者様(もしくは、AI)から政府推奨のお薬を紹介され、医師やAIが薦める政府公認の健康法を行うようになるのではないでしょうか。そこには『懐疑』はありません。
 誰かや何かにお薦めされなければ、他のお薬や治療法は存在していないも同じという状態で、その事に疑問さえ浮かぶ事は無いのです。

『懐疑』とは何か。


 戦時中の哲学者 三木清は日本が戦争へと邁進していく真っ只中に『人生論ノート(元々はエッセイをまとめて、一冊の本にしたもの)』を執筆しました。言論統制により検閲が厳しかった当時、個人の幸福の一切が不道徳とされていた時代を生きる自国民を見て、危機感を覚えていた三木が苦渋の勇気をもって執筆した本著では、懐疑について、こんなことが書かれています。

懷疑は知性の一つの徳であり得るであらうに。
三木 清『人生論ノート』-懐疑について-より
人間的な知性の自由はさしあたり懷疑のうちにある。自由人といはれる者で懷疑的でなかつたやうな人を私は知らない。
三木 清『人生論ノート』-懐疑について-より

 突然ですが、子が親から真の自立を果たすためには、『懐疑』無くして親離れをする事は出来ないと筆者は考えています。反抗期が大切なのは、親への懐疑が巣立ちの上で何よりも大切だからではないでしょうか。例えば、親は本当に私を愛しているのだろうか、もしも愛している(もしくは愛していない)なら、一体『愛』とは何なのだろうか、親のいう『愛している』は本当に『愛』と言えるのだろうか。私は親に何かの要求をもっているが、親に要求を応えてもらう、あるいは親の要求を叶える事は『愛』と呼べるだろうか。
 これらの問いは例えばに過ぎませんが、このような問いに真剣に向き合う必要があればこそ、子供には反抗期が必要と言えるのかもしれません。
 今まで固く信じていた、あるいは思い込んでいた何かに一抹の『懐疑』を抱く事は、壮大な思索や哲学への入口です。自らに『懐疑』を許さない、あるいは『懐疑』の一切を持たせない親がいれば、それは親の支配と独裁の始まりではないでしょうか。
 三木が『人生論ノート』を執筆していた頃、日本では言論統制が始まっていました。新聞社は一社にまとめられ、教科書から書籍に至るまで厳しく検閲されるため、三木は自らの思想をエッセイとして記す時、随分と難しい書き方をしています。三木ほどの哲学者なら、分かりやすく噛み砕いて執筆する事も不可能では無かったと筆者は考えています。三木がギリシア哲学の始祖とも言えるソクラテスを知らない筈がありませんから、難しい書き方は、もしかしたら三木にとって不本意だったかもしれません。最も、そうしなければ世の中へ『人生論ノート』は出る事さえできなかったでしょう。
 しかし、そんな中でも三木は非常に力強く幸福について社会に疑問を呈します。個人の幸福の要求が踏みにじられ、全体の幸福が戦争の勝利と紐づけられた時代に三木の言葉は色褪せていません。
 健康な胃を持つ人が胃の事を普段は考えもしないように、幸福な人間が普段から幸福について考える訳ではないとした上で、富国強兵へと突き進む、大衆の思想に迎合する日本国民について次のように続けるのです。

しかしながら今日の人間は果して幸福であるために幸福について考へないのであるか。むしろ我々の時代は人々に幸福について考へる氣力をさへ失はせてしまつたほど不幸なのではあるまいか。(中略)
社會、階級、人類、等々、あらゆるものの名において人間的な幸福の要求が抹殺されようとしてゐる場合、幸福の要求ほど良心的なものがあるであらうか。
三木 清『人生論ノート』-幸福について-より

 ここからわかる事は、三木自身も社会に対して知性的な『懐疑』があればこそ、『人生論ノート』を執筆したと言えます。
 ところで、三木は何故、『懐疑』は知性の一つの徳であり得ると説いたのでしょうか。それは、先述した反抗期の若者を例にとって考えてみると、分かりやすいかもしれません。
 若者が親は本当に自分を『愛』しているのか(いないかもしれない)という『懐疑』を抱いた時、若者は今まで『愛』について何も知らない事さえも知らなかった状況に居たといえます。少なくとも、『愛』について考える事も無かったかもしれません。小さな子供が持つ小さな疑問に、親が答えた言葉を時として信じ込む事があるように、皆さんも子供の頃、親に質問して、答えて貰った適当な返答を信じていたという、ご経験はありませんか。大人になった今だからこそ、その可笑しさに気がつくような貴重な経験です。
 つまり、その時の若者は親のあらゆる事に疑問を抱くという概念さえ存在しません。信じ込んでいるというよりも、生存戦略に近い形で信じる事しか出来ないのです。
 しかし、反抗期でもって『愛されているか(いないか)』『だとしたら、愛とは何か』というような何かしらの『懐疑』を抱いた時、彼(彼女)は初めて『知らない』何かと遭遇します。未だ知らない事(未知)との運命的な出会いを果たし、同時に『知らない自分』に初めて気がつくのです。
 『懐疑』とは、つまりソクラテスが説いた『無知の知(無知の自覚や認知)』という一つの知性に繋がっていると言えるのではないでしょうか。このように思えば、親が子供に反抗期を迎えさせる事に成功するという事は、親として失態があるからおこる事象では無く、重要な役割を果たした結果だと言えます(ただし、ここでは親は自分に向けられる『懐疑』に寛容である必要があります)。この時、親は己の徳でもって子供に『懐疑』という知性の入口へと誘ったという事になるのです。故に三木は、『懐疑』とは一つの知性であり、徳としてあり得ると説きました。
 親に『懐疑』を抱けなかった子供は、親の言うことに誓約を受けます。現代哲学者である名著『嫌われる勇気』シリーズを執筆した岸見一郎氏は、親の言いつけを守った子供の例として、以下の話を引用しています。
 曰く、両親に野良犬と遭遇した時は、走って逃げると追いかけられて噛まれるため、じっとしておくのがいいと教えられた子供が実際に野良犬に合い、その通りにすると、足首をかぶりと噛まれてしまいましたが、逃げた友達は無事だったというのです。
 その他にも映画や漫画などで、親に『懐疑』を抱く機会にも恵まれず、抱く事を許されなかった子供達に私達は出会う事ができます。慈愛が豊富な親からは豊かな慈愛を身につけ、不寛容な親から不寛容を植え付けられた子供達は、前者は他者とのコミュニケーションに精神的な豊かさを得ることが出来ますが、後者は不寛容さから、あるゆるコミュニケーションが暴力的なものになります。
 けれども、両者とも本質は同じです。それが美しく輝くものであれ、未熟に歪んでいる物であれ、親に一度も『懐疑』を抱けなかった子供は、時に幸運な事例があったのだとしても、親の言う事だけを信じているという点では原点を同じくする者です。そこに自分の言葉はありません。自分の心に言葉を持たないのです。
 彼らは親の言う事を(それが道徳的であれ、不道徳であれ)一心に信じています。それは最早、教徒が『神からの手紙』を信じているかの如く、盲信的です。そういう意味では、非常に宗教観と密接な関わりがあるのかもしれません。
 たしかにこの世には、子供よりも豊富な経験を持つ親の言う通りに行動して助かったという経験はたくさんあるのでしょうが、それは親の言いなりにならなければならない理由にはなり得ないし、それが理由になる事も無いのです。

 三木は『懐疑』とは、一つの徳であると同時に人間的な知性の自由は『懐疑』のうちにあると語っています。何故、『懐疑』の無い人生には知性的な自由は存在しないのでしょうか。
 スピリチュアルの名著『神との対話』で知られるニール・ドナルド・ウォルシュは自身の著書を完結へと結ぶ終わりに、こんな事を言っています。

 しかし、ここでお別れを言う前に、どうぞ聞いていただきたい。このすべて(神との対話シリーズ)で、わたしは間違っているかもしれません。  
 わたしがそのことを考えなかったとは、どうか一秒たりとも思わないでほしいのです。わたしはいつでもそのことを考えています。  
 インタビューで、何人かに基本的に同じ質問をされました。あなたは自分の経験について、あるいは受け取った情報について、何の疑念も抱いていないのか、と。  
 そのたびに、わたしは同じ返事をしました。 
 「疑念を捨てる日はわたしが危険になる日です。
わたしは危険になるつもりは毛頭ありません」
ですから、みなさんにも同じように疑念を持ってくださいと言いたいのです(きっと、わざわざ、言う必要もないでしょうが)。
『神との対話 完結編』 おわりに より

 一見すると、まるで彼は自分自身が間違えているかもしれないと、不安に思っているようにも読み取れます。しかし、彼が恐れているのは『間違う』事なのでしょうか。しかし、間違いを恐れる人間が素直に間違えたかもしれないという可能性を認められるとは、とても思えません。筆者が思うに、彼は彼自身が『間違う』事を恐れているのでは無く、彼自身の固定概念を恐れているのです。
 親が子供に『疑念』を抱かれた時、自らが築き上げてきた『常識』なる固定概念と対峙する事になります。人は一定の世界観を強く持ちすぎると、それ以外を認められなくなってしまうのです。そうすると、先程述べたように不寛容の入口へと、それが道徳的か不道徳的な世界観かに関係なく、魅入られてしまいます。親は子供から過去の自分に懐疑的になれるかを問われるのです。
 三木やニールの言葉には、まるで関係性がないように思われますが、しかし、この二人は探究する道は全く別なのに、その本質は非常によく似ています。懐疑とは知性の自由である、という三木と、自分自身の経験や思想に懐疑的なニール。この二つを照らし合わせた時に、『懐疑』とは、他者や自分自身の世界観(思想やライフスタイル、固定概念)から自由な証のように思えるのです。
 仮にもしも、自分が自分自身への『懐疑』を向ける事が一つの徳であるならば、『懐疑』を他者や自分に向けられる事もまた、徳の一つであると言えるのでは無いでしょうか。

今回は、少し長くなりそうなので、一旦こちらで切らせて頂きます。

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