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グローバルリズムによって、国際的共同体は、むしろ破壊される。

 新岸田内閣が発足し、日本に新しい風が吹くかもしれないと期待した人々の多くは、氏が内閣総理大臣になってからの発言を目の当たりにする度にがっかりされている事でしょう。あるいはやっぱりかという諦念の気持ちが勝っておられることと思います。そう、やはり日本はデフレからの脱却を目指す内閣の発足に今回も失敗したのです。
 しかし、長い目で見ると今回の衆議院選挙は真の保守派の人々にとって先んじて守りの一手を打てた選挙だったように思われます。高市早苗氏の登場により保守本流の方々の火種が燃えやすくなった意義ある選挙だったのでは無いでしょうか。少なくとも、彼女の存在が有識者の入り口になる事は確かです。さらに、財政出動を強く望んでいる与野党の有識者達が軒並み当選した事にも安堵致しました。
 他方、大阪では大阪維新の会が議席数を盛り返している事に筆者は非常に警戒心を持っています。彼らの思想は、強い改革主義的な部分を否めず、個人の豊かさを目指す繊細な微調整や小さな民間の成長というよりも大きな企業成長を望んでいるからです。IRカジノやリゾート化など、まさしく一発逆転の発想からくるものですが、そこに庶民の生活は含まれていません。彼らは大阪の名誉と栄誉のためなら何でもしてくれるでしょうが、大阪に住む人々の生活圏での繁栄を必ずしも約束してくれている訳では無いと筆者は考えています。
 改革主義は心中主義的側面を多く含んでいます。有権者の故郷への劣等感や悲観的な思考を煽り立て、それに対して雄弁に言葉を投げかける事で、民衆の感情によって政策を方向付けるやり方は、日本では戦後70年からずっと続いてきました。筆者は平成生まれになりますが、身近に潜む全体主義的かつ改革的な思想に触れる機会は、より鮮明に酷明になってきているように思われます。例えばナチス・ドイツも表面上は一見愛国者に見えますが、彼らは一党独裁政治によって、共同体を破壊し尽くして、結果的にドイツ人達の立場を弱くしてしまったのです。これは人類史上今に始まった訳ではありません。2000年前からずっと、あからさまになってきたのはここ200年ですが、人類は改革主義的なものと闘い続けてきました。ギリシア哲学の祖プラトンは、彼らの事を「雄弁家」つまり、ソフィストとして力強く批判しました。

統一政治が貴方の共同体を破壊する

 何故、こんな話をしたかと言えば、冒頭に貼り付けさせて頂いたリンク先が原因です。一昔前ならば陰謀論だと鼻で笑われるような話が眼前に迫ってきている事を冒頭の英国元首相は述べています。
 「世界政府」という大きな存在を前に貴方は何を考えるでしょうか。昨今よく話題に登るデジタル通貨や日本のムーンショット計画、スーパーシティ法案などなど。与党の強権な国会での採決姿勢や強引な消費税増税。もしも、世界各国の政府がこのたった一つの思想に基づいて、それらに同意、あるいは逆らえずに動いているのだとすれば、世界中がナチスドイツのような強権独裁政治に毒されているのでは、と思わず筆者は懸念してしまった次第です。
 しかし、この英国元首相が言う「世界政府」の樹立もグローバルリズムにそれほど興味を持たない人々にとっては、むしろ世界は平和になり、豊かになり、もっと安心して生きられるのでは、と思われるのではないでしょうか。
 しかし、これから筆者が主張する事は、ジョージ・オーウェル作、小説『1984年』の世界が我々の地球上で完成しようとしているという懸念です。これからグローバルリズムという思想も一枚岩ではない事を筆者は指摘してみたいと思います。

 さて、昨今のグローバルリズムとは二つの面を持っています。それは、国際協力関係という面と国際的統一体制というもう一つの面です。一つは今後、互いの国の足りない資源を補い合う本当の世界平和への道ですが、もう一つの大きな落とし穴として存在する道が、全ての国を一つに統一し、大きく組織化しようとする全体主義的な国際統一政府です。例えば、『花』という存在も様々な在り方があります。『花』の中には、モルヒネや蒲公英のような茎から咲く花もあれば、桜や藤などの木から咲く花もあります。この様々な多様性の中では、その生態系も様々存在しており、成長に必要な気候や水の量、日照時間なども違う訳です。
 これら、多種多様な花が存在する中で全ての存在を一つの『花』として、統一あるいは合一化する考え方こそ昨今のグローバルリズムだと言わざるおえません。グローバルリズムは徹底した縦関係競争社会です。このような社会では、互いに生存する上での協力関係つまり共同体は存在するのでしょうか。
 答えは、より強いものが生き残り弱いものは残念ながら淘汰され、共同体はむしろ破壊されていくのです。しかし、強者もまた別の強者に自己を破壊されるという極めて選別的な生き方を強いられる事になります。無駄という余裕は少しずつ省かれ、『花』である事以外の在り方は否定され、許される事は無くなります。
 世界三大心理学『個人心理学』の祖、アルフレッド・アドラーは第二次世界大戦後に共同体感覚を強く提唱しました。アドラーによれば、共同体感覚の1番最小の単位は『私と貴方』であり、これは他者が存在して初めて共同体が形作られる事を表しています。強者が強者であるためには常に弱者を必要とするように、強者は強者とされる(権威や権力、金銭的優位など)集団の中であっても必ず弱者を作ろうとしてしまう筈です。このように自分が『強い』と思っている時、必ず『弱い』という定義に依存します。
 この事から考えるにモルヒネがモルヒネであるためには蒲公英が必要であり、マクロ的に『花』という言葉を用いて一括に存在を統一されてしまえば、互いの存在としての主語は失われ、モルヒネはモルヒネの、蒲公英は蒲公英の、桜は桜としてのミクロなアイデンティティと在り方は無いものとして排斥されます。
 小説家ジョージ・オーウェルは『1984年』にて、この事をとても丁寧に描写しています。

「ああ、同志」彼女は哀れみを誘う暗い声で話し出した。「あなたが戻ってきた音が聞こえた気がしたのよ。ちょっと来てキッチンの流しを見てくれない? 詰まってしまったらしくて……」

それは同じ階の隣人の妻であるパーソンズ夫人だった(「夫人」は党が推奨していない言葉だった……誰であっても「同志」と呼ぶべきなのだ……しかしある種の女性にはついついその言葉を使ってしまうのだった)。

 『1984年』の世界では、どのような人も『同志』という言葉で総括され、登場人物達はよほどの事がない限り、社会や社交の場で個性やアイデンティティとしての主語、つまり名前で互いを呼び合う事は推奨されていません。テレスクリーンを通じて同じ時間に起き、同じ運動をし、同じ映画を見ます。同じである事が義務付けられた世界では、個人の文明や文化は破壊されてしまうのです。
 もっと大きな問題はマクロ的に文化や文明、もしくは思想を統一されてしまったとしても、人間は我慢や感情を押し殺して生きていく事が可能な点です。パーソンズ夫人は彼女自身である前に党の『同志』なので、『同志』として生きていく事が出来ますが、パーソンズ夫人として生きていく事は許されていません。この場合、アドラーが定説した共同体の最小単位の「私と貴方」の私の部分は失われ、「貴方」だけの存在を元に生きていくしか無くなります。その対象はミクロの個人に向けられたものでは無く、党という大きなマクロ的な「貴方」です。その際、たとえミクロの「私」は幸福には感じていなくても、マクロの「貴方」の幸福に拍手を送る事になるのです。それは互いの違いや存在を認め合い、支え合う関係では無くなっています。この関係において「私」は圧殺され、そこにあるのは極々少数の選ばれた「貴方」しか幸福の舞台に登る事ができません。この時、個人の自由意志と幸福は別離したものになり、他者との関係は不安定なものになり、関係性はより脆弱になります。そうすると、他者を想う良心は喜びでは無く孤独へと変換され、知性的な疑問を持ってしまった有識者は異端者として迫害されるのです。


https://www.animax.co.jp/special/psycho-pass


今、無邪気なだけでは生きられない。


 しかし、我々は何故こういった自由の制限と幸福への追求が偏狭に歪められる事に無力なのでしょうか。それは、我々があまりにも無邪気なためです。エリート達への無謬性を信じている無邪気さこそが我々が持つ精神的な長所であり、社会構築上の短所でもあります。社会的な思惑に対する無知は、何も考えないところから始まっています。
 あなたの幸福を考えてくれるのは他人ではありません。あなたの幸福はあなた自身が考え、構築していくものであり、また分厚い幸福への哲学には他者が必要です。モルヒネの幸せのためには蒲公英が必要なのです。そして想像力こそがあなたを幸福たらしめてくれます。それには絶対に共同体感覚が必要不可欠なのです。つまり、「私」が「私」たらしめるものは「貴方」であり、「貴方」が「貴方」たらしめるのは「私」なのです。他者が存在さえしていなければ「私」は「私」である必要は無くなってしまいます。我々の想像力を養うには必ず他者が必要なのです。
 ここで大切な事は、我々は幸福についての唯一無二の答えを持たない事です。地域や環境、文明圏の違いや宗教などによって幸福の追求の仕方は違っています。
 これは国家でも同じです。国際協力関係であればモルヒネはモルヒネとして、蒲公英は蒲公英としての尊敬と尊重を得られるでしょうが、昨今のグローバルリズムは極めて全体主義的な側面を含んでいます。ヨーロッパにはアジアが必要であり、欧米にはオセアニアが必要であるにも関わらず、一つの統一された国家に一国を含めようとするやり方は、極めて横暴な姿勢である事は否めません。下手をすれば国際共同体をむしろ破壊し、その協力体制さえも破壊してしまう事になります。
 大切な事は全体の中に個人があるのでは無く、個人の中に全体があるのです。ここを間違えてしまうとユートピアへの道が、気がついたらディストピアへとすり替わってしまうのでは無いでしょうか。
 私は全体主義の話をする時、いつも三木清の言葉を思い出します。

今日の良心とは幸福の要求である、と。社会、階級、人類、等々、あらゆるものの名において人間的な幸福の要求が抹殺されようとしている場合、幸福の要求ほど良心的なものがあるであろうか。
(中略)
幸福の要求が今日の良心として復権されねばならぬ。

 個人の幸福への要求が今日の良心として復権されなければなりません。幸福を要求するには、反対や反抗という濁を飲まずに幸福について何も考えなくても良い環境に浸かっていると、そのうち自分自身の幸福についても溶解して無くなってしまうでしょう。鳥が生まれ持った能力で自由に空を飛び、その声で歌う事が幸福なように人間が生まれ持った能力を使って体を動かし、モノを作り、その想像力で絵や詩を、あるいは植物や動物を愛で、命を育む以上の幸福がこの世にあるでしょうか。そして、それを自由に実行する機会を奪われた人類は、その主権さえも失ってしまうのでは無いかと筆者は懸念している次第です。

機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現われる歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。

 日本人か日本人の幸福についてよく考え、そして真の幸福を獲得できたのなら、国際社会でもきっと幸福な態度を示す事ができます。しかし、人類全体の生存のために何らかの規制を強制されるようになった時、幸福について何も考えずに生きている人の幸福はやがて消えて無くなり、貴方の幸せは他の誰かのための幸せにすり替わっている事でしょう。
 その時こそが全体主義の始まりなのです。貴方は全体の一部なのでは無く、貴方の一部に全体が含まれる事を忘れないでください。真に幸福な個人は全体のために自然と配慮を行う事ができます。それは個人主体のものなのであって、政府や政治家、国家や人類などというものを主体になった時、ディストピアの始まりでは無いでしょうか。

今一度、考えましょう。
貴方は幸福ですか。

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