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「ギブの輪」がつらくなる時

「ギブアンドギブ」「ギブファースト」「与えよ、されば与えられん」などなど、
見返りを求めず与える行為は素晴らしく、「ギブする」ことの重要性やメリットが注目されています。
人々が助け合い、win-winの関係を築く。
「ギブの輪」は外から見ているととても美しいものです。

でもそんな「ギブの輪」に入りたいかと言われると、少し躊躇ってしまします。
なぜなら私には「与えるものがない」と、どうしても感じるからです。

同じように感じる人はきっと多いのではないでしょうか?
この感覚は周りが「ギバー(与える側の人)」であるほど強くなり、まるで自分が「テイカー(見返りだけを求めるだけの人)」であるように感じられるのです。
もちろんこう感じる人は”本質的な”テイカーではないのですが、だからこそ「自分はテイカーになりたくない」という思いがあります。
与えるものがないことで”相対的な”テイカーになることが怖いのです。

それでも「自分には与えるものがない」と悩む人はどうするでしょうか?
ひょっとしたら、自己犠牲的な献身によって何かを与えようとするかもしれません。
しかし、これは間違ったギブであると断言します。
自己犠牲的なギブは労働力や時間、金銭を奪っていく行為です。
自己犠牲によって示せるのはコミュニティへの利益ではなく、コミュニティへの忠誠心でしょう。(批判を恐れずに書けば、自己犠牲を美徳とするコミュニティは宗教的だと思います)
ギバーの研究で有名なアダム・グラントの著書『GIVE&TAKE「与える人」こそ成功する時代』(三笠書房)のなかでも自己犠牲的なギバーは幸せになれないとしています。

だから「ギブの輪がつらい」と感じたとしても恥ずべきことではないですし、真面目に「ギブすること」を考えているからつらく感じるのだと思います。
そして自己犠牲が始まる前にギブの輪から抜け出してもいいのではないでしょうか?

ギブアンドテイクが世の中の全てではないように、ギブの輪も世の中の一部でしかないのです。

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