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歴史フィクション・幕末武器商人 ~グラバー青年~(3377文字)

※ご注意※
これは史実をベースにした小説であり、『全てフィクション』です。あらかじめご注意ください。


1859年9月19日(安政6年8月23日)
長崎の地に降り立つ、ひとりのイギリス人青年がいたー。
名をトーマス・ブレーク・グラバーという。

この年の7月1日(安政6年6月2日)、長崎と横浜が開港し、日本の鎖国は実質的に終わった。

1838年6月6日、スコットランドのアバディーンに沿岸警備隊員の5男として生まれた彼は、アバディーンで少年時代を過ごし、19歳の年(1857年)に故郷アバディーンから、中国の上海へと旅立つ。

当時、イギリスの上流階級に属さない者が、財を成そうという野心を実現する方法のひとつは、海を渡り、故郷を遠く離れた異郷の地で商人になることであった。
トーマス・ブレーク・グラバー(以下、グラバーと記す)に限らず、多くの若者が海を渡り異郷の地へと旅立って行った。
グラバーは彼らの背中を追ったに過ぎない。

阿片戦争によって開港させられた中国の港のひとつが上海である。
19歳のグラバーは、中国におけるイギリス資本では最大手となる『ジャーディン・マティソン商会』に勤める。

2年間、商人としての経験を積み重ねたグラバーは、『ジャーディン・マティソン商会』が長崎における代理人として契約した50代のスコットランド出身の商人ケネス・ロス・マッケンジーの補佐役に任命され、日本へと赴く。グラバー、21歳の時であった

「は~~~~~~」
と、長崎の地に降り立った青年グラバーは感極まって、大声を出すのだった。

「は~~るばる来たぜ、長崎ぃ~~(*^o^*) 」
長崎に来れてよほど嬉しかったのだろう。しかし時代考証を無視するのはいただけない。

「いやー、だいたいさー、僕は幕末期、20代の青年なのに、映画やドラマでは、渋いおじさま俳優が演じてるじゃない?映画『天外者』で僕を演じた役者さんは50歳ですよ、いや、重厚感あっていいけどさ。でもね、もう少し事実にあわせて若々しいイケメン俳優が演じることがあってもいいんんじゃない?って思うわけ。なので、若さをアピールするために、ちょっとだけ、はっちゃけてみたわけなんよ (。・∀・) 」

誰に向かって行ってるのだろうか。無意味にカメラ目線のグラバー青年だった。そのうち関係者からしこたま怒られると思うので、いい加減にしてほしい。

ちなみにNHK大河ドラマ「龍馬伝」でグラバーを演じたティム・ウェラードは当時30歳ぐらいだから、グラバーがいうほど年齢的に離れてはいない。

「でもさ、ティムが演じた僕ってまだ20代のはずなのに、おじさま顔だったじゃん? (。・∀・) 」

若き日のグラバー本人の写真をみたら、結構おじさま顔してると思うが。

「さ、僕の事務所に行こう。たしか大浦21番だったよな~ (((((。・∀・) 」

都合の悪い指摘は無視するグラバー青年だった。

こうして長崎におけるグラバー青年の、商人としての人生が始まる。
ケネス・ロス・マッケンジーの元で、商人として鍛えられるグラバー。
その成長に満足したのか、1861年6月(文久元年)、ケネス・ロス・マッケンジーは、新たなビジネスを求め、グラバー青年に後を託し、中国へと旅立ったのだった。

「お世話になりましたマッケンジーさん。後は僕に任せてください。さぁ、ケネス・ロス ロスになってる暇はないぞ、グラバー!( ・`ー・´)」

そこはマッケンジー ロスでいいのでは?なぜ紛らわしい言い方をする?

ともあれ大浦2番にあったマッケンジーの事務所を引き継いだ22歳のグラバー青年は、商人として独り立ちすることになった。

独り立ちしたグラバーの主なビジネスは、お茶の輸出だった。他に生糸・海産物も扱っていた。
決してビジネス的に膨大な利益を上げたとはいえない。

この時期、グラバー青年はまだ武器商人ではなかった。

だが、激動の時代が彼、グラバー青年に転機をもたらす。
1862年9月14日(文久 2年 8月21日)に起きた生麦事件である。

生麦事件とは薩摩藩主 島津久茂の父親である島津久光(大名ではない)の行列に運悪く遭遇してしまった、乗馬中のイギリス民間人4名が、興奮した馬を制御できず、結果として行列を乱したことにより薩摩藩士に切りつけられ、1名死亡、2名が重傷を負うという凄惨な事件である。薩英戦争に至る契機となる。

「はい、もしもし、こちらグラバー商会でーす( ^o^ d) ☎ 」

大嘘である。当時、日本に電話は引かれていない。

「いやいやいや、みなもと太郎先生の歴史コミック『風雲児たち』でよく使われているギャグのパク・・・リスペクトだから 、これ(。・∀・) 」

いまパクリと言いかけたな。

「はい、なんでもないでーす。外野がうるさくて、すみませーん。で、そちら様は・・・え、薩摩藩? それはそれは。お茶でも輸出されるのですか?・・・ え、アームストロング砲が欲しいけど手に入るかですって? いやー、薩摩さんは藪からスティックですねー。でも、どうしてアームストロング砲なんて物騒なものが必要なんですか? ・・・はいはい、なるほど。先般の生麦事件で揉めたイギリスが薩摩に攻め込んでくるみたいだから、それを迎え撃つためにアームストロング砲が欲しいと・・・。あのー、僕、一応イギリス人なんですけど、知ってますぅ?・・・え?それはそれ、これはこれですって?で・す・よ・ねー。いいっすよー、お安い御用で。はーい、いつ手に入るか、わかったらこちらから連絡しますねー( ^o^)Г☎チンッ 」

いいのか、こんなに流され過ぎで?自分の国の民間人が被害者なのに。

そんな指摘も時代考証も無視して、グラバー青年は国際電話をかける。

「あ、もしもし。やぁ、ロンドンに一時帰国してるビジネスパートナーのグルーム君、元気?ごめんね、いきなりの電話、しかも説明セリフで。いや、ちょっと調べてほしいことがあってさ。イギリス政府がアームストロング砲の販売を許可してくれるかどうかをさぁ。・・・え?なんでだって?話せば長くなるから、コレクトコールでかけなおしていい? (^o^ d) ☎ 」

この時期、長崎からロンドンに電話は引かれていない。大嘘である。

尚、この時のアームストロング砲買い付けについては、さすがにイギリス政府が禁止をしたようである。

だが、このことにより、グラバー青年は気づく。
今まで自分は日本にしかない物を西洋に輸出することにこだわり過ぎていたのではないか。
逆だ。日本にないものを西洋から輸入し、日本で売りさばくべきなのだ。
それはなにか?武器だ。
銃を、大砲を、いや戦艦を日本で売れば、巨額の利益を得ることが出来る。
なぜなら、今この国は、喉から手が出るほど、これらを必要とする者たちであふれかえっているからだ。このビジネスをしない手はない。

武器商人グラバーの誕生であった。
そして武器だけでなく、取引の中で、自然と薩摩や長州の藩士たちとの交流も生まれた。

「はい、もしもし、こちらグラバー商会でーす。あ、五代友厚さーん、おひさー。え?自分も含めて薩摩藩士16名をイギリスに密航留学させたいから船を用意して欲しい?OKでーす。薩摩スチューデント御一行様承りました~ (^o^ d) ☎ 」

1865年にはアメリカの南北戦争が終結し、不要となった武器が市場に流れてくる。

「はい、もしもし、こちらグラバー商会でーす。おぉ、小松帯刀さーん、おひさー。え?幕府との戦争のために長州藩が銃が必要なので、薩摩藩名義で購入したい?お安い御用でーす。南北戦争が終わって大量の銃がこちらに流れてきてますから。・・・はい、詳しい話はこっちにくる長州の井上聞多さんと伊藤俊輔さんと打ち合わせですね。OKでーす( ^o^ d) ☎ 」

こうしてグラバー青年は武器商人として、日本の幕末期に薩摩と長州、そして多くの志士たちとのかかわりを持つことになるのであった。

生麦事件の波紋は薩英戦争を引き起こし、そして大国である英国との戦いを通じて、薩摩藩に攘夷がいかに無謀であるかを知らしめ、藩論を開国へと大きく切り替えることになる。

同時にグラバー青年を武器商人へと変貌させ、結果的に薩摩と長州を主体とした倒幕勢力形成の一翼を担わせることとなった。

その意味において、生麦事件は、幕末期の転換点といえるものであった。


■参考文献
『長崎グラバー邸 親子二代』
山口 由美(著)

『「幕末」に殺された男 ー生麦事件のリチャードソンー』
宮澤 眞一(著)

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