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いだてん噺

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[いだてん噺]二十三日間04(1821文字)

  スウェーデンのエテボリーに着いて5日目、8月8日ー。
 この日は、午後1時までの練習を許可されたため、絹枝は午前11時から練習に出かけている。

 800mの軽いウォーミング・アップを試み、ちょっと苦しいなという感想がしたという。
 そしてスタートの練習に入った。

 この日は日曜日であったからか、いつも通る森林公園は人でいっぱいになっていたと絹枝は記している。

 当時、日本では日曜に家族そ

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[いだてん噺]二十三日間03(1513文字)

  スウェーデンのエテボリーに着いて3日目の8月6日ー。
 この日は、午後4時から練習に出かけている。

 スウェーデン語のスタートに使われるフレーズにも慣れて来たことが自伝に記されている。

 今大会の練習で初めて取り込んだ円盤投げについては、『少しずつ入念に研究的に』取り組みを始めている。
 また最後に、『マッサージのおかげか練習の疲れも出ない』と記されていた。
 『脚の筋肉がはなれてしまう程

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[いだてん噺]二十三日間02(1513文字)

  スウェーデンのエテボリーに着いて2日目の8月5日ー。

 朝9時に通訳のマルチソンが、絹枝とマネージャーの黒田乙吉の写真が載っている新聞を持ってきた。

 新聞に写真が掲載されたためか、絹枝は朝10時頃に日本領事館を訪ねていているが、自伝には『町を歩くと人が見て困る』と記されている。
 『中には「あ、あれがヤポン(=日本)のチャンピオンか」と言っているのが耳に入ることも度々ある』とも記されてい

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[いだてん噺]二十三日間01(1266文字)

 絹枝とマネージャーの黒田乙吉、通訳のマルチソンの3名を乗せた車は市の中央にある森林公園の間を縫って進み、20分ほどしてスロットスコクス競技場の正門前に着いた。

 開催国スウェーデンとともに日本の国旗が翻っていた。
 絹枝が外国選手の到着第1陣だった。

 3人が事務所に行くと、大会委員会の面々はすでに顔を揃えていた。
 通訳のマルチソンが、大会委員長のドクトル・リリエに絹枝を紹介した。

 尚

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[いだてん噺]エテボリー(1337文字)

(※都市名は、人見絹枝自伝に記されているエテボリーに統一)

 絹枝の自伝にはそう書かれている。7月8日から一ヶ月近くをかけて8月4日、絹枝はようやくスウェーデン第二の都市、エテボリーに着いたのだった。

 昨日、スウェーデンの首都ストックホルムで、日本公使館の者から、『日本の東京がこのストックホルムだとすれば、明日あなた達の行くエテボリーは大阪のような工場市です』と絹枝は聞かされていた。

 だ

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[いだてん噺]モスクワ滞在(2/2)(1137文字)

 森林公園の中にある運動場では、マトロスモク所長とシケルバコ書記長が手配したのであろうか、5名の女性が絹枝と一緒に走るために待ってくれていた。
 さっそく絹枝は練習を始めた。

 2時間ほど練習したあと、黒田乙吉の家に戻り、その日の夜は11時過ぎに床についた。
 ロシアに対して誤った先入観を持っていたことを、絹枝は反省するのだった。

 1926年(大正15年)7月31日の朝。絹枝に、体育会議所か

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[いだてん噺]モスクワ滞在(1/2)(1357文字)

 1926年(大正15年)7月29日ー。
 モスクワについた絹枝は、大阪毎日新聞社モスコー(モスクワ)特派員の黒田乙吉に案内されて、ホテルに入った。

 久しぶりにまともな風呂に入れた絹枝だが、ホテルは翌日早々に出て、黒田乙吉の家に入っている。
 自伝で、以下の様に記しているが、ひとりきりでホテルの部屋にいるのは不安であったのだろう。

 練習がしたいと願う絹枝は、黒田乙吉と共に、町の各種旅行者案

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[いだてん噺]モスクワへ(1414文字)

 1926年(大正15年)7月21日ー。
 絹枝たち三人(大阪赤十字社病院長の前田松苗院長とベルリンに留学に向かう早大建築科の今井謙次助教授が同行)は、モスクワに向かった。
 モスクワへは、ハルピンから8日間の鉄道の旅になる。

 絹枝たち三名は、列車での旅の間、まるで家族であるかのように親しんだという。
  (また自伝では新進思想家の胡適氏と、ブロークンな英語で話しをするようになった、とも記され

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[いだてん噺]ハルピン(2100文字)

 1926年(大正15年)6月ー。

 スウェーデンのイエテボリで開催される『第二回国際女子競技大会』への参加を薦められた絹枝だが、最初は断っている。

 だが最後は押し切られ、絹枝は1926年8月27日から開催される『第二回国際女子競技大会』に参加することになる。
 
 絹枝はより強い緊張感をもって練習に取り組んだ。

 『第二回国際女子競技大会』参加が決まってからは、毎日のように送別会が開かれ

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[いだてん噺]世界へ(2083文字)

 1926年(大正15年)4月ー。
 絹枝は大阪毎日新聞社(大毎とも略される)に入社する。

 1926年(大正15年)6月7日の大阪毎日新聞社 社内報に絹枝の入社時の気持ちを綴った一文が掲載されている。

 アスリートとしての絹枝の才能に疑問を持つ者はいなかったに違いないが、新聞記者として文才の適正があるかどうかについては、一抹の疑問を抱いた者はいたのかも知れない。
 しかしそれは杞憂であったこ

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[いだてん噺]決断(1407文字)

 1926年(大正15年)1月15日。
  二階堂体操塾は学校名を『日本女子体育専門学校』とすることとし、文部省に申請を行った。
 
 1926年(大正15年)3月24日。 
 文部省から昇格の許可がおりる。
 二階堂体操塾は、日本最初の女子体育専門学校となった。
 二階堂トクヨと絹枝は手を取り合って泣いた。
 
 もっとも、絹枝は自伝の中で正直な気持ちを書いている。

 絹枝は『日本女子体育専門

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[いだてん噺]日本の人見(1576文字)

 1925年(大正14年)。
 絹枝が京都市立第一高等女学校の教員となり、生徒の指導に勤しんでいた頃、二階堂トクヨは二階堂体操塾の専門学校への昇格に向け準備を推し進めていた。
 
 そのトクヨのもとに台湾総督から招待状が届く。
 1925年(大正14年)8月11日から10日間の予定で開催する、台湾教育会主催『全島女教員体操講習会』講師として来台願いたいーという内容であった。

 トクヨは二階堂体操

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[いだてん噺]京都市立第一高等女学校教師(1207文字)

 1924年(大正13年)。
 日本で最初となる本格的な陸上競技場・明治神宮外苑競技場が完成した。
 11月6日~7日に東京日日新聞社主催で、全日本選手権大会が開催され、絹枝はこれに参加している。
 7日のホ・ス・ジャンプ(三段跳び)では10m38を、槍投では26m37を、ともに世界記録を出している。

 トクヨは8日の朝早くから新聞を買い集め、岡山の絹枝の母校と家に発送したという。

 1925

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[いだてん噺]世界新記録(1209文字)

 二階堂トクヨからの快諾を得て、第3回岡山県女子体育大会に出場するため、喜び勇んで帰省する絹枝だったが、玄関を開けたとたんに線香のにおいが鼻をついた。

 1924年(大正13年)10月5日。第3回岡山県女子体育大会が、岡山女子師範学校で開催された。

 当日、絹枝の父母だけでなく、姉も義兄も応援に来てくれたという。
 この大会にて絹枝はホ・ス・ジャンプ(三段跳び)で、10m33の記録を出す。当時

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