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言語の自律性を利用した余白についての考察(実作)

1.さまざまな螺旋

蝶は、魂のメタファーである。羽化―身動きの取れない、けれども養分に満ちた蛹の中から、蝶として自らの羽によって羽ばたいていく―において、飛翔の軌跡は螺旋を描くという。

大江健三郎の実践する「魂のこと」において魂とは、天上にひとつの集合体としてあり、人間が生を授かるときに〈螺旋〉状に地上へと降りてきて、そのでこぼことした平面をぐるぐると廻り、そして死後、また〈螺旋〉状に上昇していく。

仏教において蓮は釈迦の乗り物であり、それに乗って人間界へと下降して来るのだが、浮いている蓮には―それが水上にあろうと空中にあろうと―回転のイメージが付き纏う。

前期ロマン主義における「反省の翼」―反省する自我と反省される自我を行き来しながらその自己そのものを超出する、往還運動において超出する即自的な自我と非我でありながら同時に(同期的に)運動する私である―概念も、往還運動によって「自己超出」し、上昇していくイメージを伴った螺旋である。

児童文学においても、ミヒャエル・エンデは―彼はノヴァーリスが自らの父であると言っているのだから当然といえば当然なのだが―、『はてしない物語』においても井戸を守る蛇を螺旋状に飛翔させて追い出す。

ノヴァーリスが断片集『花粉』を著してからエンデが『はてしない物語』において螺旋を現前させるまでの期間にも、ワトソンとクリックが―水素結合を知っていたというその事実だけに基づいて―DNAの構造が二重螺旋であることを解明する。

後に解明されるDNAの複製機構は、1.順行 2.順行しながら断片を生成し、その終点から逆行して生成開始点を作り、そこから順行、という返し縫いのような進行 3.二重化された軸 という構造を、二重螺旋に折り曲げ〈襞化〉する。そこにおいて反復のイメージは私が指摘する前から螺旋的―むしろ私がしたのは積み重ねられた円環と螺旋との差異化―である。この差異化が書かれたものを永遠に循環するシニフィアン―記号の記号となった/脱領土化した記号―と、そこからの超出とそれを読むことによる遅延によって螺旋を成すシニフィエというカップリング―さらにはこのカップリングによる別の円環+螺旋との共振まで呼びこむこと―の構想が可能となることはこれまで我々が見てきたとおりだ。ここにも螺旋があった。

2.理論に対する図像的イメージの似通い

理論に対する図像的イメージは諸現象、諸文脈同士で、似通ってくる。そうであろうとしなくても。例えば螺旋、例えば、三角形―三位一体にヤコブソンの三角形、弁証法、相対的距離感の図式―、そして形態の崩壊を含む死のイメージ。

むしろ、それを「イメージ」と呼んでしまうことさえもひとつの〈位置付けられないもの〉として他のモデルと似てくる。そしてモデルという標記もまた、描像、と似てくるし、それもコードとか運動様式とか、そういうものとも相似性を示してしまう。

相似性という形式もまた、そして形式の形式―現実的世界、実存的世界、呪術的世界、絶対的超越、システム、意味、変身、他者、マトリクス、感覚、魔術、神、機械、表現、情動、法、地図、行為、メタモルフォーズ、召喚―もまた似通ってくる。

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