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【34冊目】黄泥街 / 残雪

九日目です。
ただいま臨時休業中です。

さて。
体調も無事に回復してきたのはいいのですがね。療養期間はほとんど寝てばかりいる。寝て起きて、何か食べられそうなら食べて、また横になって寝て、と言った具合で、そんな生活を10日も過ごしていると当然体力も落ちる。頭もぼんやりというので、せっかく時間があるのだから本の一つでも読んで何かしらの生産的なアクションを取りたい気持ちがムラムラと湧いてくるかと思ったら、そもそもそんな気力自体がない。ただ漫然と横になり、まぁ、療養の目的というのは安静と体調の回復かと思いますので、その本文に即してはいるわけなんですが、どうも時間を無駄にしてしまっているような気持ちになる。しかして出来ることなどなに一つなく、ただひたすらに時が経つのを待つ身の情けなさよ。かうして時はあっさりと過ぎ去ってしまう。もう八月もすでに一週間が過ぎ去ったというのに。嗚呼。私の短い夏が。いや。しかし。まてよ。八月も一週間も過ぎたということは。つまり。当店月初のお決まり。ウィグタウン読書部だけでも。

というわけでウィグタウン読書部です。
七月の課題図書は残雪『黄泥街』なんですがね。まぁ分からない作品でしたね。当読書部では、過去も様々な作品を扱ってきたわけなんですが、その中でも随一の分からなさといってよいのではないかと思いますね。さながら「読むメダパニ」といった具合で、読めば読むほど、黄泥街の住人の会話に耳を傾ければ傾けるほど、この街の仕組みを考えれば考えるほど、とにかく混乱に陥っていき、私は何を読まされているのだろう、という不安な気持ちが最後の最後まで続いていく。どこかにあるようでいて絶対にどこにもない幻の街、黄泥街に自分が迷い込んでしまったような感覚に陥り、その街において異邦人である私のロジックはことごとく通用せず、虚実は入り乱れ、時に重なりながら不思議なリアリティを持って迫ってくる。私はそこに、この街の、この街なりのロジックを見出そうとするのだが、全てが破綻と再生を無限に繰り返しており、そのロジックを追おうとすればするほど、私は黄泥街というストリートの一番奥の奥、光の届かないそのまた奥にまで運び込まれていくような感覚に陥り、いヤァ。端的にいって気が狂うかと思いましたね。そんなことを言うと「そんなわけのわからない作品を読んで何が楽しいのですか」「難解な作品を鑑賞する俺カッケーですか」とおっしゃる方もいらっしゃるかとは存じますがね。これがまた随分とクセになる作品でして。例えるならば、屎尿の溜まった肥溜めに首まで浸かりそのすさまじき悪臭に涙を流しながら、発酵の温かさに生命の豊かさを感じるとでも言うような。延々に続くマトリョーシカを開き続け、最後の最後に出てきた小さな人形の姿形が一番外側の一番大きな人形のそれと全く同型であった時に起こる循環に、無限に対する畏怖を抱くような。そんな感覚に襲われる作品なんですよね。そんな感覚と共になんとか読み終わり、なんも分からへんかった、みたいな気持ちで巻末に付されている訳者の論評を読み始めると、冒頭から〈みんなが、残雪はよくわからないという〉というフレーズで始まっており、なんか安心しましたね。私だけじゃなかったんだと。私は本来、作品を読み終えたら、自分なりの感想やアウトプットがまとまるまで、人の感想や論評は見ないように心がけているんですがね。今回は完全に流れで読んじゃいましたね。そして、その評論がとても素晴らしかったので、完全に影響を受けてしまったのですけれど、なるべくそれを排しながら、自分の感想を語っていきたいと思いますね。以下例によって完全に【ネタバレ注意!】となりますので、ご留意くださいませ。

黄泥街は一本のストリートからなる街である。いつも空からは黒い灰が降り注いでおり、そのせいで住人は大抵赤い目をして、年がら年中咳き込んでいる。家々から出るゴミが通りを埋めつくさんばかりに溢れかえっており、露店には腐った果物が並び、ゴミから出る異臭と果物から出る甘ったるい香りで、むせかえるような空気が漂っている。黄泥街の住人はやたらと仕掛けを好む。家々に〈賊を防ぐ〉ための仕掛けが施されており、それらは大抵仕掛けた本人が引っかかることになり、それによる傷跡をもつ住人も少なくない。黄泥街では動物の気がすぐに狂う。みな狂ったような唸りを上げて人に噛み付く。黄泥街の便所は常に排泄物であふれており、種々様々な虫や蝙蝠などが人間と同じように家に棲みついている。黄泥街の住人は寝てばかりいる。眠りから覚めると人とお喋りをして、お喋りが終わるとすぐに寝る。街の突き当たりには、住人の多くが勤めているS機械工場があり、そこでは〈鉄の玉〉が製造されている。何に使うものなのかははっきりとしない。
とまぁ、この辺が黄泥街という街の基本的な描写なわけなんですがね。はっきりいって汚いですね。私は、この序盤の黄泥街の描写に、どことない『砂の女』みを覚えたんですがね。砂に囲まれた一軒の家に住む女の行動原理が、外部からの来客である学者には読み取れずに困惑するように、黄泥街の住人の行動原理がどうも理解し難く、また、『砂の女』における「砂の圧力」が、黄泥街においても強烈な「臭いの圧力」と共通するように感じましたね。どちらも周囲を覆っており逃れることができず、直接殺しにはかかってこないものの、放っておけば必ず死に至るというような圧力。黄泥街にはそんな圧力を感じますね。そして、はちゃめちゃに汚いながらも、序盤から〈造反派〉〈由緒ある革命根拠地の伝統〉〈上部の連中〉といった、どことなくレジスタンスみを覚える単語が住人たちの会話に現れており、私はそれを「この街はなんらかの歴史的事件によって迫害を受け、それでも無益な抵抗を続けている『過去の人々』の気高い物語なのかな」など感じながら読み進めるわけなんですがね。全然そんなことないんですよね。S機械工場と、そこで作られている謎の鉄の玉に関しても、なにか物語を展開させる推進力を持っているのかというと、そうでもない。そして、そんな黄泥街の物語を展開させることが期待されるのが王子光(ワンツーコアン)と呼ばれる現象の来訪である。
ある時、住人の一人が夢の中で「王子光」という名を叫んだ。それを受け、街のじいさんは「王子光によって街の生活は大きく様変わりする」と宣言する。しかし、誰も王子光が何者なのか知らないのだ。ある者は「鬼火の類だ」と言い、ある者は「上部の人間」だと言う。そんな中、王子光が黒い鞄を持って小舟で黄泥街へやってきて、いくつかの家を見て回ったという者も現れる。この時の描写は、地の文までが王子光を実在の存在として扱っており、さらには王子光が頭の中で考えたこと、周りの人間には知る由のないことまで地の文が解説しており、これによって読者は「王子光は黄泥街の外からなんらかの目的を持って視察にでも訪れた人物なのだな」と思うのだけれど、彼はすぐにいなくなり、黄泥街の住人はそれに絶望する。そうして読み進めていくと、中には「王子光は三階から飛び降りて死んだよ。顔はぐちゃぐちゃで、両足は誰か知らんが持ってってもうない」など発言する人物などが現れ、それらすべてがデマや虚言の類のように思えて、そうしてみると、王子光に関する証言のすべてが「伝聞の推量」のように感じ始め、それは住人たちの発言に止まらず、地の文までが王子光の存在についての推量を物語っているに過ぎないような気さえしてくる。この構造に気付いてしまうとあとはもう地獄で、住人たちの発言はもとより、地の文さえも虚実を分けるものではないのなら、何を足がかりにこの物語を読み進めていけばいいのか混乱してしまう。そもそも住人たちの会話がどう読んでもおかしいのだ。前述の通り、黄泥街の住人はよく喋る。さながら会話劇といってもいいくらいに会話の場面は頻出するのだが、それらの会話において、話者が誰で聞き手が誰なのかが非常に分かりづらい。その上、話者が自分の言葉を話しているかというとこれも違っていて「誰それがこう言ってたというのを見たっていうのを聞いたって聞いた」みたいな伝聞推量が何重にも重なったような発言で、それを受けて聞き手は、その伝聞推量の余地を全部割愛して、それらを事実として拡散。デマが際限なく広がっていく。王子光事件と同じように、誰も真実を知らず、誰も責任を取らず、伝聞推量だけが際限なく広がっていく。黄泥街の混沌はますます深まっていき、虚実がどこまでいっても分かち難いものとして、ただ在る。この「分かち難さ」こそ作品の肝であると訳者の近藤直子さんは解説をしており、それはまさしくその通りで、作者は本作で「混沌の理論」を描いているようにも感じた。すべてのものが混じり合い、他者と自分を分ける境界がなくなっていく街。それはまるで、腐敗という生命のグラデーションのようなもので、狂気と正気、生と死、汚さときれいさ、虚と実、夢と現実が、その間をいったりきたり、時に重なり合いながら壮大な混沌を描いている。行ってみたいですね。黄泥街に行ったら、すぐに私は私じゃなくなりそうな気がしますね。或いは、黄泥街とは我が身の中に存在するものなのかなとも思ったりしますね。それぞれのボディの中に、それぞれの黄泥街を抱えて、我々は生きているのかもしれないですね。
 しかし、このような混沌、無秩序な世界を描きながら、本書が単なる「狂人のたわごと」になり得ないわけは、ひとえに作者(そして訳者)の圧倒的な筆致によるものであろう。彼女の表現にかかれば、どれだけ素っ頓狂で奇天烈な世界でさえ、ある種のリアリティを持って迫ってくる。奇妙で道理の通用しない世界でありながら、そのリアリティによって読者は読み進めていくことができ、そして読み進めれば読み進めるほど混乱に陥る。とんでもない作品だったなという感想ですね。なんというか、文学の凄み、みたいなものを感じさせましたね。気が狂うかと思いましたよ。ホントに。

というわけで、7月の課題図書は残雪『黄泥街』でした。8月は京極夏彦『姑獲鳥の夏』です。読みやすいのが読みたいですね。読んでいきましょう。

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