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【17冊目】ヴェニスに死す / トーマス・マン

雨の月初です。
本日17時-20時です。

今日なんていうのは、午前中から風がびゅうびゅうと吹き荒んだかと思ったら、これくらいの時間には緩急こそあれど雨雲の下にすっぽりという具合で。雨雲レーダーなんかを確認するにつけ、当店の現在の時短営業中なんていうのは雨雲がちょうど通過していくようで、となると、当店なんていうのは非常に雨風の営業がご来客数にダイレクトに反映される。ただでさえ短い営業時間なのに、この雨風、しかも火曜なんて中途半端な曜日なわけですから、果たしてどうなることやら、など思いながら出勤してきたわけなんですがね。昔から晴耕雨読とはよく言ったもので。雨が降ったら本でも読んでいればいいってなもんで、つまりは、そう、当店月初のお約束、ウィグタウン読書部ですね。

先月の課題図書は、ドイツのノーベル賞作家、トーマス・マンの『ヴェニスに死す』。文学作品としてより、映画化された映像作品としての方が認知は広いのではないかと思いますがね。早速これから先はいつものように【ネタバレ注意!】となるわけですが、この『ヴェニスに死す』というタイトル、カッコいいですよね。タイトル的に、内容を全く知らない人でも「まぁ、何者かがヴェニスで死ぬ物語なんだろうな」という予想はつくかと思うのですが、果たしてその通りで、これは偉大なる芸術家、文人であるアシェンバハがヴェニスにて、流行病のコレラに冒されてその死を遂げるまでの様子を描いた作品なわけなんですね。いまなんていうのは2度目の緊急事態宣言なんてものが出されて、やはり、1度目の緊急事態宣言中にやった『ペスト』と同じく、流行病物をやるには御誂え向きなわけですから。芸術家アシェンバハの様子を見ながら、現代の我々の行動様式というものに迫っていきたいですね。迫っていきましょう。

作品の主人公であるグスタフ・フォン・アシェンバハは、年齢も五十を過ぎ、世間的な賞賛と国民の支持、表彰に至るまで、思想的に充実しきった芸術家である。彼自身も「充実しきってしまったなぁ」など思いながら街をふらついていた時に、たまたま見かけた男の姿から「そうだ、旅に出よう」と思い立つわけなんですが、やはり旅というのは、肉体的な意味合いにも、また精神的な意味合いにおいても、新しい刺激に満ちているものだ。話は飛ぶようですが、先日。お客さんとの会話の中で、東浩紀『弱いつながり』に触れ「哲学とは一種の観光である」なんてやりとりがなされたことがありましたが、これなんていうのは、まさしくアシェンバハの状態を指し示すのにちょうどいいワードで、つまりこの物語は「答えを求め過ぎた芸術家が、その日常から少しだけ自由になろうとする逃走」を描いたものであると言えるのである。最終的にはヴェニスで死ぬことになる彼が、現実には「充実しきった芸術家である」ということと「その逃走先で、芸術的な理知から解放された状態で死を迎える」というのが、この物語を読んでいく上で非常に重要になってくる因果関係なんですね。もう少し詳しく物語を追ってみましょう。

逃走先にヴェニスを選んだアシェンバハは、その地でポーランド人家族の旅行客と出会う。中でもその息子である美少年タドゥツィオの美しさにアシェンバハは惹かれ、直截的な干渉をしないまでも、彼のことを毎日目で追うようになる。しばしの時間をヴェニスで過ごすが、アシェンバハにとって、少年のことを除いてはその逗留は決して心地の良いものではなく、ある朝、街の蒸し暑さと入江のなにかものの腐ったような臭気にうんざりして、ヴェニスを離れることを決める。しかし、一度は不快感に追い立てられるように出立を決めたアシェンバハだが「でも他の場所に行っても一緒かもな」「街の人の気軽なやり取りもありっちゃありだな」「あとやっぱりあの少年が気になる」など、なかなか踏ん切りがつかず、それでも「やっぱり不快」みたいなことを感じて、彼はチェックアウトの手続きをとる。それでもまだモヤモヤした気持ちを抱きながら、翌朝船着き場まで行くのだが、荷物が届かないなどの不手際があり、結局彼はヴェニスに留まることを選択する。これというのは「感情と思想」「感性と理性」という相反関係にあるもののせめぎあいであったととることが出来る。アシェンバハは前者でもって出立を決めたわけだが、後者の価値判断によってそれを躊躇うところもあった。結局のところ、最後はそれらのあずかり知らぬ「運命」のようなものによって滞在延長が決定するわけだが、このせめぎ合いというのはつまり「芸術家としての自分」と「そこから逃走中の自分」のせめぎあいであったといえよう。アシェンバハは今までの経験と直感でもって、この地を離れようとするも、それは思想によって後ろ髪を引かれ、最後は運命によって縛り付けられてしまう。これは、この物語のラストを決定づけるようなシーンで、芸術家としてのアシェンバハの敗北が見られる。

ヴェニスでの逗留が決まったアシェンバハであるが、その後ろにコレラの影は確実に迫っていた。ドイツ語の新聞を読めた彼は、その影にいち早く気付くことができた。慌ただしく消える他の観光客の中、彼もそれに倣ってコレラから逃げることもできたはずだ。しかし彼はヴェニスに留まり続けることを決める。その心の中心には、紛れもなくポーランド家族の少年、タドゥツィオがいた。仮に彼ら家族がいち早くヴェニスを発っていたとしたら。恐らくはアシェンバハもヴェニスにとどまり続ける理由はなかっただろう。彼は「理性」では今すぐヴェニスを発ったほうがいいことを理解しながら、タドゥツィオを愛でたいという「感性」がそれを上回り、結果としてその地で最期を迎えることとなる。死の間際、彼が執着したポーランド人家族がホテルから出立の準備をしている様などは、まさしく運命の皮肉と言わざるを得なく、なんともやり切れぬ悲哀を感じさせる。

このコロナ禍において、我々は常に身の振り方を考えさせられている。こと飲食店においてその対応というのは目に見えて顕著で、休業や他形態への業態変換、時短要請の拒絶や果ては闇営業に至るまで、それぞれがそれぞれの理念に沿ってアクションを起こしている。アシェンバハのみせた死に様は、このコロナ禍を生きる人々の生活様式にどのような教訓や感慨をもたらすのか。理に沿って生き、感情によって死ぬことの意味を、ポストトゥルース時代の我々は、いま一度考えてみる必要があるのかもしれませんね。

というわけで、先月の課題図書はトーマス・マン『ヴェニスに死す』でした。今月の課題図書は花村萬月『希望(仮)』です。10年目の3月を迎え、また新たな大災の渦中にいる我々に、花村萬月が見せる(仮)付きの希望。いいタイトルですね。読んでいきましょう。

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