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【51冊目】おらおらでひとりいぐも / 若竹千佐子

2月です。
本日17時-24時半です。

あっという間に1月が過ぎ、2月になりましたね。でもほら。今年は閏年ですから。2月も29日まであるっていうとちょっとは長いもので、でもそんなこと言っていたらまたすぐに3月を迎えることになりますからね。やることはさっさとやっていきましょう。例えば当店月初のお約束、ウィグタウン読書部とか。

というわけで、先月の課題図書は若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』。そのタイトルからも分かる通り、東北弁の訛りが随所に現れる作品なんですがね。標準語にすれば「私は私で一人いくよ」ということになろうが、つまりは旦那に先立たれて子供達もすっかり親元を離れ、一人暮らしをしている老いた女性が主人公なんですがね。そんな主人公たる桃子さんがある種の決意を込めたフレーズが、タイトルでもある『おらおらでひとりいぐも』なんですが、そんなことを言うと、老いて子供も寄り付かなくなった老女が孤独に余生を送る日常が描かれるのかと思うのだが、果たして本書はその通りなのだけれどその通りではない。客観的事実だけを捉えると、確かに桃子さんは孤独だし、老いているし、いわゆる社会問題化する独居老人その人であることには間違い無いのだけれど、その実、桃子さんの明瞭で思索的な独白は、我々がイメージする孤老とは程遠いものである。地元を飛び出して四十年。すっかり馴染まなくなったはずの東北弁が頭の中で反芻するのは、独居老人かくあるべしというパブリックイメージへのアンチテーゼと、無限に繰り返される自問自答である。読者はそうした思索にすっかり付き合わされ、だからこそ、その果てにたどり着く『おらおらでひとりいぐも』の説得力がすごくて、なんというか、すごい面白かった。孤独でも、孤独ではない。地球四十六億年の歴史になぞらえて語られる桃子さんの人生もまた、決して孤独ではないのだ。私なんていうのは独身中年男性なわけですから。桃子さんと同じく、孤独なイメージを与えられることが多いプロフィールなんですがね。桃子さんの生き様や考え方に励まされたり元気をもらったりするところもあって、笑って泣けて、共感できるところも多かったですね。人は誰しも孤独である。でも、孤独って、思っているよりもネガティブではないのかもしれない。無価値ではないのかもしれない。そう思わせてくれる作品でしたね。例によってこれからは【ネタバレ注意!】となりますので、何卒ご留意くださいませ。

さて。
まず本作を特殊なものにしているところに、その文体がある。まずは東北弁。これは、桃子さんの頭の中に住むたくさんの桃子さんが使う言語で、彼女たちは一般的な幸せの形や意見に流されないようにと常に桃子さん本人に注意を促してくる。次に地の文。今作は桃子さんの一人称小説でありながら、三人称で語られるべき地の文が、登場人物である桃子さんを〈桃子さん〉と敬称付きで呼んでいる。これによって、作品全体が桃子さん自体に寄り添うような雰囲気になっていて、さながらこれは桃子さんと、桃子さんをよく知る友人である地の文、二人による私小説のような印象を与える。そして最後に文章のリズム。東北弁が生み出すグルーヴもそうなのだが、本来の用途ではないような単語による体言止めや、唐突な独白、埒外からのツッコミ、鳴り響くBGM、リフレインする感情の吐露、やはり唐突な語り部調など、地の文と桃子さんの独白、そして桃子さんの中にいるたくさんの桃子さんの発言が、シームレスに一つの文章を編み出しており、このリズムが非常に独特でハマる。単調に桃子さんという人物像を描くのではなく、地の文の親しみやすさと併せても、ブログ調というか、実在の人物の日常をありありと写し出すような生き生きとしたリズムで、例えば物語の冒頭。部屋で一人お茶をすすっている桃子さんの背後で、ネズミが立てる物音と頭の中で響くたくさんの桃子さんの声が呼応しあい、まるで即興のジャズセッションのような気分になって思わず踊り出してしまう、なんていうくだりは、実際にはなかなか想像しづらい。客観的事実だけを見ると、ネズミが這い回る部屋で突如老婆が踊り出す、ということになり、はっきりいって受け入れがたいシーンにもなりそうなものなのだけれど、東北弁のグルーヴ感と、地の文の寄り添うような優しいトーン、そして思索的で多弁な桃子さんの感情表現によって、見事にこのシーンに可笑しみを与えている。私はとにかくこのリズムにハマってしまって、もうすっかり桃子さんの友達みたいな気持ちで読んでいたわけなんですがね。そんな桃子さんが常々考えているのが、自身の生き様と死に様ということである。

彼女は〈どんな人生であれ、人は孤独である〉という哲学を持っている。彼女が試みているのは、孤独を退けることではなく、孤独のポジ転換である。その上で大切なのが、自分の意見と世間の意見をごっちゃにしてはならない、という意識である。「世間ではこういうおばあちゃんが求められるよね」というムードに対するアンチテーゼが常にあり、やってることはめちゃめちゃパンクなのだけれど、彼女はそれで考えを終わらせない。延々に繰り返される思索の螺旋は、生き様や死に様というものを中心に、男と女、愛、地方と東京といったテーマに波及し、それら思索の果てに〈おらおらでひとりいぐも〉にたどり着く様などはある種のカタルシスがある。桃子さんは決して結論を出さない。満たされることを求めながらも、自分の気付きを疑い、老いた自分を嘲笑い、時に死をすぐ傍に置きながらも「ちゃんと生きる」ということに真剣である。先立たれた旦那の墓参りにいった際、もういっそ早く亭主のいるところへ行きたい、なんて気持ちに飲み込まれながらも、ふと視線を落とした先にある半分枯れたカラスウリの赤さに心が反応するシーンなんていうのは本当に最高で、桃子さんはこの赤に反応した自分の心の動きに気付いて、己を再び鼓舞するわけなんですが、感動的なシーンでしたね。思索をやめない桃子さんらしい場面です。赤にも意味がある。それだけで明日を生きることができるのである。

また、愛する旦那とのエピソードも秀逸である。桃子さんは、自分の愛が旦那を殺したのではないかという思いに駆られている。愛を発露するために旦那を利用したのではないかと。こうしたシステム化された愛や、その中における女と男の機能(役割)に関しても、桃子さんの思索はとどまるところがない。人は自分のために生きていくもの。誰かのための献身が愛というシステムによる役割分担であるのなら、そのシステムから離れたところでしか、本物の喜びは与えられない。桃子さんの旦那はある時木版画にハマっていた。夫としてでもなく、男としてでもなく、ただ自分の喜びのために木を削っていた。このシーンにおける旦那の木版画への想いこそが、システム化された愛から離れた喜びであり「一人で生きる」ための重要な要素なわけなんですがね。社会主義的、封建主義的考えから、個人主義、自由主義への移行ともいえますが、これを単なる個人主義にしないアイテムが、桃子さんが常に携えている「四十六億年ノート」の存在である。

地球の歴史で気になることをメモして、調べて、清書されたこのノートは、過度な個人主義に走ろうとする桃子さんの考えをすんでのところで止める。過去現在から未来まで。大きな枠組みの中で自分というちっぽけな存在が、DNAの小舟としていかに「ちゃんと生きた」か。物語のラスト。孫娘が口にした東北弁が、まさしく桃子さんが「ちゃんと生きた」証明であり、仮に子や孫がいなくとも、文化的環境的遺伝子は子や孫の世代に受け継がれる。〈おらおらでひとりいぐも〉とは、小さな孤独の物語ではない。我々一人一人が持つ孤独と、愛によるシステムをひっくるめた、正しい生き方、そして、正しい死に方の物語だ。いやしかし、めちゃめちゃ面白かったですね。すごく良かったです。

というわけで一月の課題図書は若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』でした。二月はトルーマン・カポーティ『カメレオンのための音楽』です。読んでいきましょう。

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