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【36冊目】悪の誘惑 / ジェイムズ・ホッグ

快晴の日曜日です。
本日14時-23時半です。

10月に入りましたがまだまだ暑いですね。本来でしたら、この曜日でこの季節なんていうと、秋の行楽シーズン、なんてワードがチラつくわけなんですが、どうもまだ秋の雰囲気を味わうにはちょっと早い気がする。行楽の秋に、食欲の秋。スポーツの秋に、芸術の秋。そして、当店月初のお決まりといえば、そう、ウィグタウン読書部ということで、読書の秋ですね。

というわけで、9月の課題図書はジェイムズ・ホッグ『悪の誘惑』。随分とゴシックな雰囲気の本書ですが、私がこの本を手に取ったきっかけというのが、何を隠そう、スコットランド、ウィグタウンの古書店店主の営業日誌である『ブックセラーズ・ダイアリー』で、その中で店主であるショーン・バイセルさんがこの本を読んでいた。『ブックセラーズ・ダイアリー』は古書店店主のダイアリーなんですから、当然たくさんの本が出てくるわけなんですが、このダイアリーを通じて私はすっかりこの偏屈な店主のファンになっており、そんな彼が読んでいた本ということで、タイトルを検索かけてみると、帯文に曰く「人間の悪魔性を真正面から描き出す苦悩と狂気の物語」「生涯羊飼いを生業とした〈エトリックの羊飼い〉ジェイムズ・ホッグによるゴシック小説、幻の傑作」と。私はこの「羊飼い×ゴシック小説」という、一見とても遠いように感じる組み合わせにグッときて、だってそうでしょう?エトリックというのはスコットランド南部の町の名で、よく言えばのどかな自然の広がる、悪く言えばなんにもない場所だ。試しにGoogleマップで「エトリック」を検索してみると、近くに「Ettrick Primary School」という施設がある。なんだ小学校はあるのか、と思い、その施設名をクリックしてみると、赤文字で「閉鎖」と示された。そら閉鎖もするだろうってなくらいに、なにもない場所なのである。そんな場所で生涯を羊飼いとして過ごした人物が「人間の悪魔性を真正面から描き出す苦悩と狂気の物語」を著したなんていうのは、はちゃめちゃにグッとくるじゃないですか。なんでもっと「空の青さ」とか「生命の豊かさ」とか「羊の可愛さ」とかを描かなかったのか。なぜそんなロケーションで「人間の悪魔性」が描かれたのか。私なんていうのは、どうしても羊飼いという職業を、ある種の寓話的な、牧歌的なステレオタイプにはめ込んでしまうところがあり、そのステレオタイプから遠く離れた『悪の誘惑』というタイトルに、もうクラクラしてしまったんですね。これというのも職業バイアスの最たるものかと思うのですがね。羊飼いにはもっと『サウンド・オブ・ミュージック』みたいな。両手を広げて草原を駆け回るみたいな。そういう作品のイメージがあった。でもよく考えたら『サウンド・オブ・ミュージック』でも、教会とか修道院とか戦争とか亡命とか描かれてますから。まぁそういうものなのかもしれませんね。なにもないからこそ、心の内側に深く沈み込むということはあるでしょうね。読んでみましょう。

さて。
ここからは例によって【ネタバレ注意!】になるので、ご了承の上読み進めていただきたいのですがね。本作は大きく分けて二つのパートに分かれており、つまりは「編者」のパートと、その編者が見つけた類稀なる「告白記」のパートである。本書『悪の誘惑』の原題は『The Private Memories and Confessions of a Justified Sinner』というもので、これを訳者は『義とされた罪人の手記と告白』と訳している。どんな罪でも大義さえあれば赦される。そんな主張は、現代においても様々な場面で目にする機会がある。それはある意味では真実かもしれないが、あまりに脆い大義は、すかさずこの主張を単なる詭弁へと貶める。本作は、自身の罪を認めながらも、その罪は全て大義を成すためだったのだ、という言い訳を小脇に抱えながら悲劇の死を迎えた一人の男の手記と、それをたまたま見つけた編者による事件の全貌という、二つのパートから構成されるわけなんですがね。前半は「編者」のパートで、つまり事件の全貌が客観的な視点から語られるのだが、後半の「告白記」のパートに入ると、その事件の主人公であるロバートという一人の青年が、いかにしてこのような事件を起こすに至ったかという、いわば答え合わせが行われる。物語のラストで、再び語り手は「編者」へと戻るのであるが、この「告白記」が発見された地域を取材していた「編者」が、当地で作者たるジェイムズ・ホッグに出会い、この事件の話を聞くというシーンがある。このシーンなんていうのは、「編者」パートと「告白記」パートの交差のみならず、そこに作者本人がカメオ出演するというメタ演出で、これによって読者は、作中の事件が現実のものであり、つまり作中に登場したスーパーナチュラルな存在もまた現実に存在することを思い知らされる。私なんていうのは、この二つのパートが交差するだけでも興奮の展開だったのですが、そこへまさかの作者本人ご登場で、もう「ホッグきたー!」みたいな感じになりましたね。すごく楽しかったです。

ここで改めて本作のストーリーラインをなぞろうと思う。舞台はスコットランドの地方豪族であるコルウァン家。宗教に対して奔放な領主と、極めて敬虔な妻の間の二人の兄弟、ジョージとロバートの物語である。敬虔な母は領主の奔放な考え方に同調できず、結婚後すぐに別居を始めると、宗教観の一致する牧師とともに生活を始める。長男ジョージは父のもとですくすくと、次男のロバートは母の元で狂信的ともいえる宗教観を植え付けられながら成長していくわけだが、作者は(「編者は」)明らかにジョージの方に共感しやすいようにと、この兄弟を描写している。溌剌として人望もある兄ジョージに対して、弟ロバートはことあるごとに宗教論ぎをふっかけてきて「はい論破」みたいな態度で大変いけすかない。私はこの対比を少しく違和感をもって読んでいたわけなんですがね。だってそうでしょう。キリスト教的な社会において、教えを敬虔に守っている弟が悪役のように描かれ、それにとらわれない兄がヒーローのように人気者になっている。これというのはどういうことなんだろうな、など思いながら読み進めるわけなんですがね。兄は、弟の粘着的なちょっかいにフラストレーションを溜めていき、それでも人格者として振る舞い続けるのだが、ついには弟の卑劣極まりない謀略にかかって死んでしまう。そこで、神の子である弟になんらの報いがあるかというとそんなことはなく、それどころか実の父さえも間接的に手にかけ、ぽっかりと空いた領主の座に就いては、わがまま放題に生活している。「編者」によるこうした描写は、果たして神が誰を赦し、なにによって赦されているのかを大変曖昧にしている。結果として弟は悪事が露見しそうになった頃に忽然と屋敷から姿を消し、そこで「編者」パートは終わるのだけれど、このパートだけをみると、完全に悪者は弟であり、しかもその罪が全く「Justified」されていない。利己的な理由で実の兄を抹殺したばかりか、屋敷を乗っ取ってふんぞり返っている弟のどこに「義」があるというのか。それが語られるのが、後半の「告白記」パートである。

「告白記」は弟ロバートの一人称で語られる。彼は、自分より優秀な学友に嫉妬心を抱き、あることないこと先生にチクって、その学友を破滅させてやろうと試みたり、義父である牧師の下男である老人を侮辱したりと、はっきりいって人間のクズである。しかし、彼がこんなクズい行為を神の名の下に行っているというのも、これずべて敬虔な両親の手によるもので、母と義父の二人はそんな過ちばかりの息子に対しての祈りを捧げ、ある時、彼が「全うせられたる義人の仲間入り」を果たしたと告げる。これによってロバートはすっかり自分の行為に疑いを持たなくなるわけなんですが、これらが全て「宗教的熱狂」の元に行われている、というのはそら寒い感じを覚えますね。そんな彼の元へ悪魔が平然と近寄ってきて、すっかり親交を深めて悪魔とロバートは親友になってしまう。悪魔は「義とされた罪人」であるロバートのことを唆し、誑かし「義とされた君の行いはすべて神の思し召しによるもので、この神聖なキリスト教社会を守るためには兄弟殺しや親殺しさえも正当化されるのだ!」という主張を吹き込んで、また実行させる。ロバートは悪魔の言説に疑問を抱きつつも、熱くたぎる宗教心がゆえにそれに逆らうことができずに凶行へと突き進んでいく。このロバート転落の有様などは、一読者としてはたから見ていると、あぁあぁ、そっちに行ったって破滅しか待っていないというのに、なんでそっちにいくかなぁ、みたいな気持ちになるものなのだけれど、そんなことは自身の信念に燃えるロバートの心にはこれっぽっちも芽生えない。彼は悪魔の言う通りにどんどんと転落をしていき、最後には自らの手で命を絶つにまで至る。この「告白記」パートを読んでいて思うのが、確かにロバートの破滅を加速させたのは悪魔に間違いないが、そのきっかけを与えたのは母と義父の二人であり、いわばこの二人によってロバートは坂道を転がり始めた。悪魔はあくまでその傾斜を傾け続けたに過ぎないような気もするんですよね。するってぇとこの事件の根源は、母であり、さらにはその母に教義を授けた牧師であり、もっと言ってしまえば、その牧師の仕える神であるとさえ言えてしまうのではないかと思うのですよね。これは、神という存在の解釈によるもので、神の言葉を間違って解釈すれば、それはすかさず悪魔の言葉になる。ロバートによる兄弟殺しが起きる以前、彼の燃え盛る信念を諌めようと、とある牧師が彼に諭すシーンがある。曰く「キリスト教は崇高な栄光にみちたもの、この世の人々をつなぐ絆、そして我々愚かしい人間を神と結びつけるものなのだ。だが、その教理のひとつでも曲げて把えたり、しかるべき範囲を無理やり逸脱させたりすれば、人間にとってこれほど危険なことはない。(中略)人間は過ちを犯したときには、必ずそれが間違っていないことの証明として自分の都合のいいように無理やり聖書の言葉をこじつけるものだからね」。老牧師のこの説教は、まさしくその後のロバートの物語を予言していたということができる。彼は最期の瞬間を迎えるまで、悪魔に唆されるがままに誤った解釈に突き進み、その道が誤ったものだと気がついたときにはもう手遅れだったんですね。

ラスト、再び語り手はロバートから編者の手へ渡り、編者はこのロバートの物語を「彼は狂信の徒であり、誤った教えに惑わされた人間について狂気の涯まで書き続けているうちに、自分こそ描き込んできた当の対象であると信ずるにいたったのだ」と締めている。つまりロバートは最初から最後まで、誰の目から見ても明らかに「Justified」されてはいなかったのだ。ただ唯一、彼を「義」とした両親と、そこにつけ込んだ悪魔を除いては。

いやはや狂信って恐ろしいですね。今作では親ガチャ的な要素もあった気がしますね。悪魔が出てくる物語といえば、今年3月の課題図書であった『巨匠とマルガリータ』も思い出されますが、こちらの悪魔が結構剽軽だったりして愉快な側面も持っていたのに対し、今作の悪魔は、徹頭徹尾ロバートを唆かすことだけにステータスを全振りしており、粘着質なやなやつでしたね。悪魔にも色々いるんですね。勉強になります。

というわけで9月の課題図書はジェイムズ・ホッグ『悪の誘惑』でした。10月の課題図書は川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』です。夜が長くなる季節ですから。こういうのにしましょうよ。悪とか言ってないで。

それでは本日14時-23時半の営業です。
みなさまのご来店心よりお待ちしております。

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