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【19冊目】グレート・ギャッツビー / スコット・フィッツジェラルド

暴風雨です。
ただいま休業中です。

日曜日から休業に入ったので、日、月、火、水、木ともうすでに5日も経っているわけなんですがね。今回の休業要請期間は17日間ということで、つまりは「じゅうななぶんのご」日が経ったということで、約分できないですね。あっという間といえばあっという間ですが、長いといえば長い。永遠と呼ぶには短すぎるけれど、刹那と呼ぶには長すぎる。こうして過ぎゆく日々の中でも、やらなければならぬことがあるのを私は知っている。そう。月初のお決まり、ウィグタウン読書部ですね。

というわけで、本来ならば月初のお決まりなのですが、現在休業中で、他に特にお知らせなどもないので、ならば普段はお知らせがあるのかと問われれば、それもたいしてないのだけれど、やはりやるべきことはさっさとやるに限る。多少早まったところで困る方などいるじゃなしということで、今月は月末にやってしまおうというアレですね。やっていきましょう。

というわけで、今月の課題図書はスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』。禁酒法時代、1920年代のアメリカで、酒の密売などで財をなしたと噂される富豪、ギャッツビーの物語ですね。裏を返せば、いまの日本でもメイクマネーすることができるということですかね。そうなりますかね。どうなんでしょうね。読んでいきましょう。

さて。
これは本筋に入る前の話なんですがね。今回、本書を9割方読み進めていた頃に、私が何を思っていたかというと「私はこれを名作と評することができるだろうか」ということなんですね。物語ももう最終盤に差し掛かり、ストーリーラインは完結したと言っても良い。そんな段に達しても、未だ「私はこの作品を味わい尽くしていないのではないか」など思ったんですね。話は変わるようですが、例えばウイスキー。「伝説的な」と言われるボトルがあり、それを飲む機会に恵まれたとしても、人によっては凡庸なボトルと感じるということは、まま起こりうることで、これは経験値だったり、そのボトルに至るまでのコンテクストの理解度の問題だったり、あるいは単純に好みの問題だったりするわけなんですが、これと同じような感想を抱いていたわけなんですね。そこへ行くと、文芸作品なんていうのは、例えば芸術作品なんかと同じように、有識者による評価がすでに定まっているものを鑑賞することが多い。一からその作品の一般的な評価を無しに読み解いていくなんていうことは、もはや不可能であって、となると、これはそこにどれだけの解釈やパーソナルな感傷を放り込めるかにかかってくる。自分の共感できる部分を他者に説得力を持って訴えかけることができるかどうかにかかってくる。結局その気持ちを解消できぬままに読み終え、やれやれ、と思いながら訳者である村上春樹氏のあとがきを読んでいたら、まさしくその点に言及しており、曰く「『グレート・ギャッツビー』はすべての情景がきわめて繊細に鮮やかに描写され、すべての情念や感情がきわめて精緻に、そして多義的に言語化された文学作品であり、英語で一行一行丁寧に読んでいかないことにはその素晴らしさが十全に理解できない、というところも結局はあるからだ」と。そんなことを言われてしまうと、私なんかは、嗚呼、私の鑑賞能力が低かったのだ、文学的素養と #丁寧な暮らし を心がけている方は、この作品を正当に評価し、その素晴らしさにむせび泣くのだ。つまり、これを評価しないことは、自身の文学的鑑賞眼が愚鈍であることの証明に他ならず、皆に認められたいと願うのであれば、私もこれに喝采を浴びせるべきだ。ハラショー!なんて素晴らしい作品なんでしょう!と、はだかの王様マインドに陥ったわけなんですが、それでもやはり、私にはいまひとつピンとこなかったというところがあり、このままじゃ愚鈍の烙印を押されてしまうなど恐れつつも、やはり自分の着眼点で持って作品を鑑賞するというのは大切なこと。読書部の活動としてやっている以上は、決して誰ぞの感想をコピペせずに、自身の見方で作品に当たるというのが、少なくとも誠意のある取り組みということになる。ならば、私の誠意はどこに当てるべきか、と考えた時に、それは作中のふたつの台詞に集約される。つまりは冒頭の「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ(中略)世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」と、終盤の「不注意な運転をする人が安全なのは、もう一人の不注意なドライバーと出会うまでだって」というふたつである。このふたつのフレーズを軸に、その間に描かれたストーリーを読んでいこうと思う。以降、例によって本格的に【ネタバレ注意!】となることをご承知おきいただきたい。

物語は、1920年代のアメリカ。どういうわけか財をたっぷりと為し、日毎絢爛なパーティを主催している若者ギャッツビーと、彼の周りに起こる人間関係が、彼の隣人でありパーティの参加者でもあるニックの視点を通して描かれていく。
初めは何者かもわからぬ富豪に、若干の不穏と疑念を抱いていたニックが、物語が進行していくにつれ、どんどんと彼に心を重ねていくことになる。一読して感じたのは「果たして何がニックの中でギャッツビーを特別にしたのか」という感想である。そもそも、私は本作の登場人物にあまり感情移入ができない。ギャッツビーはどこかいけ好かない成金で(しかもどうやら悪事に手を染めて財をなしたと見える)、ヒロイン役のデイジーはそもそも既婚で不貞関係にある。そのデイジーの夫のトムにしても、やはり愛人マートルを囲っており、強いて言えばその旦那の自動車工であるジョージにはシンパシーを抱くが、この人物相関図を見るだけでも、ウェイなパリピのドロドロ昼ドラ展開な感じがありありで、私なんかはもとより「美しいものだけを貪っていきたいわ」など考えているものだから、彼らの人間関係などは醜悪を虚構で塗り固めたようなもので、読んでいてなんとも晴れ晴れとしない。そのスカッとしない要因の最大のものが、語り手であるニックがなぜギャッツビーに心酔しているのかが今ひとつ理解できないという点にある。冒頭でニックは、なぜギャッツビーのことを話そうとしたかについて、その理由を「人間の心根を高みから偉そうにのぞき込むような、派手ばでしい浮かれ騒ぎにすっかり食傷していた」「ギャッツビーという人物一人だけが、そのような僕の思いから外れたところに位置している」と述べている。ギャッツビーのことを「人としてまっすぐ」であったと言い、その周りにいた連中を「醜い塵芥」とさえ言っているのだが、この部分はまだ物語のほんの導入であり、これを私は、なるほど。これからこのギャッツビーという比類なきヒーローの生涯がこの人物によって語られるのだな。人の生きる道の素晴らしさの端緒が著されているかもしれない、など思いながら読み進めていくわけなんですが、出てくるのは怪しい出どころの金だとか、密造酒の販売だとか、人妻との不貞だとか、挙句不貞相手の夫の不倫相手を轢き殺したり(間接的にだが)とかで、何も スーパーヒーローなところが出てこない。ギャッツビーもまた、ニックが嫌った「塵芥」と同じ穴のムジナであったとなぜ言えないのだろうか。端的に言ってこんなやつただの「犯罪成金浮気野郎」やんけ。早い話が「塵芥」。つまりはカス、クズ、ゴミやんけ。それをなんでニックはんは神聖視してはるの?なんていうところなんですが、やはりそこを読み解くためには、ギャッツビーがギャッツビーとなる前のエピソードを読んでいく必要があるわけなんですがね。そこで描かれるのは、ギャッツビーもとい「ジェームス・ギャッツ」が如何にして「ジェイ・ギャッツビー」なる人物になるために努力したのかということである。貧しかった彼はリッチになるために努力したし、デイジーに恋をしてからは(彼女がまだトムと出会う以前の話である)何とかして彼女を我が物にしたいと考える。そして彼はそれを実行していき、見事自分の夢を果たす。これなんていうのは、見方によってはアメリカン・ドリームの体現と見ることもできるし、ピュア・ラブの物語と見ることもできる。しかし、やはり『おしん』的な「貧しくても人を裏切ることはいけない。お金だけがあっても心が貧しくってはいけない」というマインドが植え付けられている私からすると、やはりギャッツビーは「犯罪成金浮気野郎」でしかなく、これではちょっとあんまりだな、と思っていた私の目に飛び込んできたのが、物語終盤の例のフレーズなのである。

「不注意な運転をする人が安全なのは、もう一人の不注意なドライバーと出会うまでだって」。これは、ニックと恋仲にあったジョーダンの台詞で、この台詞は二人の恋愛関係が単なる「不注意」だったというような文脈で使われるのだけれど、私はこの台詞は冒頭の「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ(中略)世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」と合わせて、すべて、ギャッツビーその人のことを表しているんじゃないかなと思ったんですね。冒頭の台詞は、語り手たるニックが、幼い時に父から言われた教訓として出てくるわけなんですが、この「恵まれた条件を与えられたわけではない」人物こそ、まさしくジェームス・ギャッツであり、彼が夢みて創り上げたギャッツビーは単なる「不注意な運転をする人」だったのではないか。全てがうまくいっているように見えるギャッツビーの世界が、実は砂上に建てられた楼閣であったのではないか。ならば彼が出会ってしまった「もう一人の不注意なドライバー」とは誰だったのか。悲恋の相手、デイジーだろうか。彼を「作った」と豪語する裏社会の住人、ウルフシャイムだろうか。それとも、思いを話すことができる隣人、ニックだったのか。私はこの二人の不器用な関係は美しいと思った。恵まれた条件を与えられながらことなかれ的に生きるニックと、己の努力で虚像を作り上げ夢を果たしたギャッツ。塵芥の中で、唯一美しいと思えたのはこの関係性だけなんじゃないですかね。腐的な視線ですがね。あとはあれだ。本マニアのふくろう眼鏡の男。彼はいいやつだよ。そんなところですかね。

とまぁ、とりとめのない感想ですが今月の課題図書はフィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』でした。来月は中島らもの『今夜、すべてのバーで』です。酒場という場所が失われつつある今にこそ読みたいアル中文学ですね。やっていきましょう。

それでは当店はまだしばらく休業しております。
再開までどうぞみなさま健やかにお過ごしくださいませ。

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