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【33冊目】ただしさに殺されないために / 御田寺圭

7月です。
本日17時-24時半です。

夏のハジマリですね。6月までは梅雨という感じもありますが、7月となると問答無用で夏と言っていいでしょう。今日なんかもいつもの通り自転車に乗って出勤してきたわけなんですがね。道路の向こう側に、同じように自転車に乗って移動しているガールがいたんですね。そのガールの髪色が、ちょうどクリームソーダの溶けかけたような、ややくすんだようなパステルグリーンで。私なんかはそれを見て、そらクリームソーダも溶けるわな、思ったわけなんですがね。もしかしたら彼女の髪色はもっと鮮やかなグリーンだったのかもしれない。それがこの暑さで溶けて、あんなパステルグリーンになったのかもしれない。ならばこのままの暑さが続けば、いずれ彼女の存在が溶けてなくなってしまうかもしれない。全ては夏の暑さの中に消え、残るのは揺蕩う陽炎ばかり。嗚呼。もしかしたらすべては、夏の暑さが見せた幻影だったのかもしれない。

さて。
そんな暑さが全てを溶かし切ってしまう前にやらねばならぬことが、当店にはありますね。そう。月初のお決まり「ウィグタウン読書部」です。

というわけで、6月の課題図書は御田寺圭『ただしさに殺されないために』。基本的に当ウィグタウン読書部では小説を課題図書に挙げるのですがね。しかし、小説だけが対象かというとそうではなく、過去にはグラフィックノベルであるニック・ドルナソ『サブリナ』や、国民食からみる英国史であるパニコス・パナイー『フィッシュ・アンド・チップスの歴史』、エッセイであるショーン・バイセル『ブックセラーズ・ダイアリー』なども扱ってきている。そこへ行くと今回のなんかは『声なき者への社会論』という副題からも分かる通り、社会論というやつですね。なんだか小難しそうですね。しかし、実際に読んでみると、これがまた大変に読みやすい。実際に起きた事件・事象を引き合いに、そのような事件が起きた社会背景がどのようなものなのかを、平易な言葉遣いで分かりやすく真摯に書かれているという印象でしたね。しかしまぁ。読みやすい、なんて言いましたが、今作が実際の事件・事象を通じてどのようなことをしているかというと、光の届かない社会の闇に投光器をバシバシ向けているようなもので、こちらとしても取調室でスタンド片手に持った人物に髪を鷲掴みにされ、思いっきりスタンドの明かりを目の前に突きつけられた上で「分かってたよなぁ!ええ!?分かって、見ないと決めていたんだよなぁ!!(傍点)」と迫られている気分になって、なんというか、もう半泣きみたいな感じで「すみませんでした。。すみませんでしたぁ!!」とやっている感じなので、もう、辛かったですよね。かなりの劇薬だなって気がしましたね。ともすれば簡単に特定の思想に染まってしまいそうな不安さえ覚えましたね。多くの人が自由を謳歌できる社会の裏側で、そこから排除された存在に寄り添い、向き合い、そしてその行為によってさらに社会的自由を得るという現代社会。みんな大好きキング・オブ・ステージ、RHYMESTERの楽曲で『H.E.E.L.』ってのがありますが、明らかに今作で著者は、この美しい世界の汚い部分をぶち撒ける嫌われ役を買って出ていて、嗚呼。きれいはきたない、きたないはきれい。配慮のゆき届いたこの社会が写し出す我々という実像は、果たしてどのように結ばれていることでしょうね。読んでみましょう。

その前になぜ私が今回この本を手に取ったかというきっかけをお話ししたいんですがね。私なんていうのは「コロナ禍の飲食店店主」というある種のスティグマを背負った存在なわけですから。とにかくこの2年間なんていうのは、自分の行動が正しいものかどうか、正確にいうと「自分の行動が正しいものだと自分が信じられるかどうか」ということを考え続けながらの2年間だったわけなんですがね。ラッパーの神門は、コロナ禍を経験した上で発表したアルバム『二◯二一』で《これからは行動一つ一つがメッセージで、もう少し踏み込むならば”表現”だ》と歌った。これは平時でもその通り。我々は、自分の行動一つで”自分はこういう人間です”というのを社会にアピールしながら生活している。それをいやがうえにも強く感じさせられたのが、このコロナ禍だった。そんな中、私は慎重に「自分が正しいと思うこと」を選択し続け、そしてそれは概ね成功していた。私は正しく、かつ柔軟にこの局面に対応してきたと感じていた。しかし、そんな昨年10月。緊急事態宣言の長い休業から明け、まだ時短要請が出ている期間のこと。とある飲食店で働いているという人物が来店した。その人物は自ら自分の勤めている店の名前を言い、そちらも時短営業を続けているということだったので「お互い大変ですね」など言いながら接客をしていた。しかしそんな折、前日の晩に起こった地震の話になった。「結構揺れましたよね」などいう私に、その人物は「揺れよりも緊急地震速報のアラームがびっくりしました。お客さんのケータイが一斉に鳴って」と答えたのだが、私はその瞬間に表情をすっかり無くしてしまって。というのも、その日の地震は夜遅くに発生したもので、もしお店が時短要請を遵守しているのであれば、その時間はとっくに閉店している時間であり「お客さんのケータイが一斉に鳴る」なんてことは起こりえないからだ。相手は、自分の言葉の矛盾に気付いていない様子で、それまで通り平然とお酒を飲んでいた。その瞬間に、私は自分の中の”ただしさ”に自信を持てなくなった。それぞれに事情と想いがあって、環境もそれぞれ違うことなども理解している。しかし、こうして平然と面の皮を厚くしている人物を前に、私の中の"ただしさ"が失われていくのを感じた。自分の"ただしさ”で断罪できない人物を(しかもそのことに無自覚な人物を)前にして、私は一方的に"ただしさ"の責任を押し付けられているような気持ちになり、自分の"ただしさ"ゆえに自分を痛めつけているという構図に気がついたんですね。その時に確かに感じたわけですよ。嗚呼、私は、自分の"ただしさ"にこそ殺されるのかもしれない、と。そこで出たのが本書ですね。なんてタイムリーなんだと。こりゃあ読むしかないな、みたいな気持ちになったかけですね。果たしてそこに答えは見つかったのですかね。読んでみましょう。

本書が描き出しているのは「ポリコレ」の名の下に世界が平等と自由を求めた結果生まれた歪みである。みんなが公正で自由で真っ当な世の中を求める、という建前の上で、社会がどのような犠牲をないものとしてきたかということを、これでもかと丁寧に拾い上げる。たとえば第一章。「多文化共生」というテーマに対して「みんなちがって、みんないい」的な理想は正しいよね?我々は、たとえ違った文化や習慣を持った人物に対しても寛容にそれを受け入れるべきだし、むやみにそれを否定することは、相手に対してリスペクトを欠く行為だよね?という大義名分に対して、キリスト教圏におけるイスラムの人々の人口増加とそれに伴う軋轢を「人権意識が高いがゆえに背負うことになった《片務的責務》」と見つめてみたり、ベラルーシの移民政策に対して《人権のミサイル》という言葉を使用して、自由主義社会がその理想ゆえに窮地に立たされている状況を提示して見せたりした。素直な私なんかは、この第一章を読んだ時点で「え。じゃあ自由主義の果てにはメツボーしかないじゃん。個の自由の獲得が長期的にその文化を滅ぼすというなら、やっぱり人間は自由なんて手にすべきじゃなかったんだ」と、すぐにラディカルに走りそうになる。さらに読み進めていくと、基本的人権を筆頭とした自由主義社会が理想と掲げているものに対して負わなくてはいけない責任と、その責任をいかに自分は被らないでいいかを画策した人たちによる論理やシステムが丸裸にされていく。この辺りの内容は、当店の休業中のメディア「ウィグタウン通信 第8号」に掲載のコラム「正義というイデオロギーが脅かす平和というイデア」で書かれた内容とも重なる部分がとてもあるのだけれど、それらのシステムは、まさしく”ただしさ”と多くの”共感”によって補強されており、膨大な"共感"さえ集まれば、我々は自由主義を選択した責任を引き受けずに、その良い部分だけを甘受し続けることさえ可能になる。たとえ責任を放棄したとしても、その行為に"ただしさ"と"共感"さえ集まれば、その行為は社会的に認められるのである。SNSのフォロワー数がそのまま戦闘力になるような社会で。そして、当然責任を負うことにはある種の痛みが付随するものだから、そうした”ただしさ”のベールで包まれた無責任でグロテスクな物語は大きな”共感”を生み、目に見えなくなった責任の所在を誰もが忘れ、自由主義の恩恵のみを授かり続けるのだ。「自由には責任が伴う」という、言葉にすれば中学生にもわかるようなことが「ただし、責任逃れの”物語”に説得力を持たせることができれば、この限りではない」というような但し書きが付いた社会で、人々は、それぞれの”物語”をなんとか構築しようとしている。
こうした”物語”の狭間で生きるということは、自分の社会的な潔白を世間にアピールし続ける日々に他ならず、そんな生活を思った時に、嗚呼。私は誰かにとって有益な(ただし誰かにとっては有害な)人間になるより、誰からも無益な人間になりたい。みんなにでくのぼうと呼ばれたい。みたいな気持ちになりますね。

我々は、我々のいる自由で明るく、平等な社会が、どのような黒点を内包しているかを自覚せずに過ごしている。ちょっと前の課題図書で扱った伊藤計劃『虐殺器官』の中にこんなフレーズがありましたね。《この世界がどんなにくそったれかなんて、彼女は知らなくていい。この世界が地獄の上に浮かんでいるなんて、赤ん坊は知らないで大人になればいい。俺は俺の世界を守る。そうとも、ハラペーニョ・ピザを注文して認証で受け取る世界を守るとも。油っぽいビッグマックを食い切れなくて、ゴミ箱に捨てる世界を守るとも》。この世界を運用するために排除された、死屍累々の上に我々の自由で美しい社会が成り立っている。そのことに我々が無自覚に生きていられるのも、この世界が"ただしく"配慮の行き届いたものだからということができるだろう。まさしく《地獄への道は善意で舗装されている》と言わざるを得ない。

ここで、ラッパーの不可思議/wonderboyの散文詩『続・素顔同盟』の一節を引用したい。
《ああむかつく/あいつの言っていることは正しいからむかつく/非の打ちどころがないからむかつく/非の打ちどころがないやつを俺は愛せない/正しいことを言うことは決して正しくないのに/みんなそれに気づいていないんだ/地球がメツボーしてから泣けばいい/そうだあいつを訴えよう/「裁判長、あいつは正しいことしか言いません!懲役五年でどうでしょう! とても真面目で努力家で、誰にでも優しくて、仕事ができて/謙虚で笑顔の素敵な彼を牢屋に放り込んでください!」 と言った俺が今独居房でこうして詩を書いていることを/不条理と言わずして何と呼ぶのだろう》。
当然、"ただしさ"の物語がすべての人々に当てはまるとは限らない。ならば、その"ただしさ"の"共感"の輪から外れてしまった人間は、どうすればいいのだろうか。皆が共感マターでそれぞれの物語を紡ぎ、その物語の強度を高めるために”ただしさ”を利用する。そうして完成に近づいた社会が、その理想ゆえにメツボーに近づいているという構図には、シニカルな笑みを浮かべずにはいられない。我々は、我々の持つ”ただしい世界”とどのように付き合っていくべきなのだろうか。悩んでも考えても答えは出ない。ならば考えることは無意味なのだろうか。違う。たとえ答えが出ないとしても考え続けることが大切なのだ。考えることを放棄した時、人は安易な"物語"に走る。《本書は物語の否定である》と著者は書いた。そうなのだろう。《欲しいのは共感じゃなくあくまで実感》とは、ラッパー狐火のパンチラインですが、共感で繋がる時代だからこそ、我々は客体なくして立ち上がることのできる実感というものを求めているのかもしれませんね。最後にもう一つだけ不可思議/wonderboyの詩を引用しておきましょう。《敷き詰めた理詰めの大理石の上に/集団心理の絨毯を敷いた/たくさんの知ったふりをした人がその上を歩いている/悪いけど俺はそれを見ているだけだ》《相槌よりなにより/着飾った言葉より/誰にも負けない暗闇が欲しい》。考え続けましょう。誰かの"物語"の一部であることを。

というわけで、6月の課題図書は御田寺圭『ただしさに殺されないために』でした。なんか色々暗くもなりましたが、めちゃめちゃ面白かったですね。自分の境遇に「生きづらさ」を感じている人も多い現代社会では、その「生きづらさ」の”共有”という意味でも楽になるんじゃないかな、と思いましたね。個人的には「こどおじ」や「マッチングアプリ」などのワードを解説するための《不可視化された献身》というワードが、マジウケるって感じでしたね。面白かったです。来月7月の課題図書は残雪『黄泥街』です。全てが腐る季節にぴったりですね。読んでいきましょう。

それでは本日17時-24時半の営業です。
みなさまのご来店心よりお待ちしております。

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