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【30冊目】巨匠とマルガリータ / ミハイル・ブルガーコフ

3/31です。
本日17時-24時半です。

今日でとうとう今年度も終わりですね。思えば、いままだくすぶり続けるコロナ騒動が始まったのが一昨年のいま頃だったわけですから。あれからもう2年が過ぎたということになりますね。こうして日々を過ごしていく中で、一つ一つの区切りというものをしっかりとつけていきたいわけですが、そんな区切りにぴったりなものといえば、やはり毎月一冊の本を読むとかですね。そう。ウィグタウン読書部です。本来なら月初に紹介するわけなんですが、今回はちょっと都合があって月末のご紹介です。

というわけで3月の課題図書は、ミハエル・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』。いかがでしょうね。私は正直、名前くらいしか聞いたことはない、という作品だったわけなんですがね。作者のブルガーコフは当時の帝政ロシア、現ウクライナのキエフ、もといキーウ出身ということで、まぁ、なんというか、それくらいの浅いフックで今回の選書をしたわけなんですがね。これがまぁなかなか味わい深い物語でして。その上、上下巻の比較的ボリューム感のある作品なものですから、単純に物量の問題でも読み終わるのが大変だったわけなんですが、まぁ、まんぼやし。読めるやろ。くらいに油断していたら大変でしたね。正味、読み終えたの昨日です。つまり、これを書いているのはほぼ今日です。大変だった。来月はもっと薄い本にしよう、など思っているわけですがね。ともかく読んでいきましょう。例によってここからは【ネタバレ注意!】となるのでご留意くださいませ。

さて。『巨匠とマルガリータ』というタイトルの本書ですが、物語は文芸誌の編集長であるベルリオーズと、その雑誌に作品を載せている詩人のイワンの二人が登場して幕を開ける。彼らとその周辺を巻き込む混乱がどんどん描かれていくのだが、タイトルにもなっている「巨匠」が現れるのは、上巻も後半を過ぎた第13章のことであり、それも夢だか現実だかも判断つかないような感じで、病室のバルコニーに突然と現れ煙のように消える。もう一人のタイトルに載る人物である「マルガリータ」に至っては、下巻に入るまで姿を見せないなんていうのは、これ一体どういうことだよ、など思うのですが、下巻に入ってからのマルガリータのでずっぱりぷりといったら、まるで上巻はなかったかのような振る舞いで、逆に上巻で主人公のごとく重要な人物として配置されていたイワンは、下巻だとほとんど出てこない。おもしろいものですよね。おもしろいといえば、作中でモスクワ中を混乱に陥れる4人組、もとい3人と1匹組たるヴォラント一行なんかは、飄々とした態度でありながら慇懃、しかし心根では一切を見下しているような、軽薄な香りが漂っているところなんかはたまりませんよね。それなのに全く憎む気になれないのも、その中にユーモアがあるからで、中でも巨大な黒猫、ベゲモートの態度。例えば襲撃を受けた様子を主人に報告する際などは「ああ、ご主人、私の妻は、もしも妻がいたらの話ですが、二十回も未亡人になるところでした!」などと、心底しょうもないことを言ってのける。言いたいですね。「私の妻は!あぁもし妻がいればの話ですが」なんかは、汎用性のあるフレーズですよね。積極的に使っていきたいと思います。

そんなどこか憎めない面々が、悪魔のような能力を使いながらモスクワ中を大混乱に陥れるわけなのですが、登場人物が章をまたいで物語を語るシーンなどが印象的に挿入されていて、読者は少し混乱する。例えば、一章から二章のまたぎでは、編集長の前に突如現れたヴォランドが「私はイエスが磔にあったシーンに立ち会っていた」などと酔狂なことを言い出し、んなあほな、とつっこまれるや、あほなことなど何もない「すべては簡単なことです。深紅の裏地のついた純白のマントをはおり……」と語り始めると、二章ではその語りの中の物語が描かれる、と言った具合で、随所に劇中劇の章が挿入されている。読者としては、このイエスの物語がどのようにモスクワにいる彼らの物語に関わっていくのかな、など思いながら読み進める。この小説は、モスクワにいる彼らと、劇中劇の二つの世界を描いていることを理解して読み進めていくうちに、ヴォランドが語っているイエスの物語は、巨匠と呼ばれる作家が書いた小説の物語であることが明らかになり、そしてその小説をこき下ろしたのが冒頭に登場する編集長とその雑誌であり、そのことが原因で巨匠は作品を燃やしてしまったのだという。そうこうしながらも読んでいくと、気付くとモスクワに劇中劇の人物が現れたり、巨匠のもとに作品の主人公が現れたりして、虚実が入り混じっていく。そして、この小説のラストのフレーズさえ、巨匠が書いた作品の最後のフレーズと、ぴったり一致するように描かれており、ここに至って読者は、巨匠の書いた物語の主題と、小説の中で起きたモスクワの混乱は、自分たちのいる現実世界と全く同じ世界の出来事なのだと捉えることになる。この展開は痺れましたね。巨匠にブラーヴォ!を叫ばないわけにはいかない感じになりましたね。しかし、現実世界の我々が直面している事態が、巨匠の物語の主題やモスクワの混乱と一致するのであれば、ならばそれはなんだったのかを考えないといけないですね。試みてみましょう。

私がこの小説を通して読んだ時の感想として、まず第一に抱いたものが「ヴォランドたちが全然悪い目にあってない」ということと「むしろ巨匠とマルガリータの二人にとって彼らは救世主ではないか」ということです。ヴォランドは悪ふざけのような振る舞いで、モスクワの人々をひどい目に合わせるわけなんですが、こうした超能力で人々を混乱に陥れるものが、むしろヒーローのように振る舞い、一向に罰せられる気配がない。そして、巨匠とマルガリータの二人は、ヴォランドらの悪魔的な能力によって結ばれ、命と引き換えにハッピーエンドを迎えている。なぜ、ヴォランドはこの二人の物語をハッピーエンドに仕向けたのか。その引っかかりの答えこそが、巨匠が描いた作品の中にある。の、だと、思うのですが、これがまた難しいんですよね。というのも、巨匠の作品の主人公は、イエスを磔にする決定をしたユダヤ提督ポンティウス・ピラトゥスなのですが、作中にはユダやマタイといった人物も登場する。つまりキリスト教的な知識が必要になってくるのですが、私には巨匠の書いたこの物語が、どれだけキリスト教の正史に沿ったものなのか、どこからが巨匠の脚色によるものなのかが判断ができない。もちろん、だからといってこの小説を読みとくことができないかというとそういうわけではないと思うのだが、キリスト教に対する知識がもう少しあればよかったなと思ったのは確かなんですよね。物語も終盤。燃え盛るモスクワの町並みを見下ろすヴォランドたちのところに「招かれざる客」であるマタイが現れ、イエスが巨匠の作品を読んだ、と伝える。その上で、巨匠に安らぎを与えてくれるようにヴォラントに依頼する。このやり取りで、イエスは光を、ヴォラントは影を担っていることがわかるのだが、この箇所もちょっと理解できない。ヴォラントはいわば悪魔であり、神の遣いであるマタイがそれに頼みごとを、しかも巨匠を連れてってくれなんてことを頼むなんていうのは、よくわからない。もしかしたらヴォラントはいいやつなのかもしれない。燃えて灰になってしまった巨匠の原稿も復元して見せたし。ただ、権力側である編集者に抹消された作品を復活させて見るという動きは、社会主義のロシアでは不穏なものであり、そしてその作家である巨匠が最後に命を失いながらも幸せな結末を迎えるのは、まさしく本作を代表する名言である「原稿は燃えないものなのです」というフレーズとも重なる。権力がいかにそれを抹消しようと、たとえ命を落とすことになろうとも、原稿は生き続けるのかな、など思いました。ちょっともう一度、ポンティウス・ピラトゥスの物語パートを読み込みたい気持ちになりましたね。いやはや。

というわけで、3月の課題図書はミハイル・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』でした。4月は伊藤計劃『虐殺器官』です。読んでいきましょう。

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