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【48冊目】レンブラントの帽子 / バーナード・マラマッド

11月です。
本日17時-24時半です。

11月は楽しいことがたくさんある感じがしますよね。祝日もたくさんあるし。秋ですし、お芋とか食べたりとかして。カフェーでラテーを飲んだりして。芸術の秋に音楽の秋、運動の秋に食欲の秋。充実した日々を過ごしていきたいなと思うわけなんですがね。そんな中、当店で忘れてはいけない秋といえば当然読書の秋で、つまりは月初のお決まり、ウィグタウン読書部ですね。

さて。
10月の課題図書はバーナード・マラマッド『レンブラントの帽子』。ページ数にしてわずか30ページにも満たない短編なんですがね。話の筋を簡潔にご案内すると、ある男が同僚の男に「その帽子イケてんな」と声をかけたら、翌日から彼はその帽子をかぶってこなくなってしまった。それどころか、それまではそんなことなかったのになんか態度もつっけんどんになって、そんな態度をとられるとこちらも面白くないものだから徐々に関係は悪化。帽子を褒めたことの何がそんなに気に障ったのだろうか。それとも原因は何かもっと他のところにあるのだろうか。そんなことに気を揉む男の話なんですがね。私なんていうのはこの話を読んで「あるある〜」みたいになってしまって。全く悪意のない言動が他者を傷つけてしまうことも、傷つけられたことを伝えられずにわだかまりを解消できず、凝り固まった態度を取り続けてしまうこともめちゃめちゃある。人は常に連続性の中に生きていて、それらを切り取った断面だけを見て物事を決めることというのは出来ないはずなのに、前後のストーリーから分断されたピンポイントだけで物事を判断してしまう。目の前にある断面は、確かに厳然たる事実に他ならないのだけれど、その事実のみを重要視すると、世の中のありのままの姿というのを見誤ることになりかねない。そんなことを思いましたね。そんなストーリーでしたね。読んでいきましょう。

さて。
そんな「物事は断面だけ見て判断するものじゃないよ」ということが書かれている今作なんですがね。話は変わるようですが、私なんていうのは基本的に本を営業中に読んでいる。お客さんがいないオープン直後の時間など、隙を見て読み進めるのが私の読書スタイルなんですがね。その日もそうして読んでいたところお客さんがいらしたので読むのを中断。やいのやいのと接客を行なっていたわけなんですね。ひとしきりお酒も飲み、わーわーとやった後で、ふとお客さんが今月の課題図書について言及したんですね。私も本を手に取りご紹介し、まだ残りわずかに読み残している状態をお話したわけなんですが、それというのが本当に残りわずかな状態で、つまりは2、3ページしか残っていないような状態だったんですね。それを聞いて、お客さんの曰く「それくらいだったら最後まで読んでしまえばいいのに」と。そりゃそうだろう。私だって残り2、3ページの本を最後まで読みきらずに栞を挟むのはどうにもきまりが悪い。できるなら最後まで一気に読んでしまいたいものだ、と思うのはその通りなんですが、そういうわけで私は基本お客さんがいない時間帯を狙って本を読んでいる。裏を返せば、お客さんが来れば読書が中断されるということで、つまり今回のケースだと、このお客さんが来たから読書が中断されたわけで、その中断の原因となった張本人が「なんでそんな残りわずかなのに読みきらないの?」などと尋ねるのは、これ、尋ねられた側からすれば「お客さん、あなたが来たからですよ」となる。しかし、当然、お客さんからしたら、そんなことは知ったことではないし、残り数ページを読みきらない中途半端な状態が気持ち悪いなとも思うわけなんですよね。私はこの遣り取りをしながら、全くもって『レンブラントの帽子』的だな、と思ったわけですよ。つまり「数ページのみを残して読みきられていない小説」という断面だけを見た場合、双方の意見は一致していると言える。「そんなもん早く読み終わればいいのに」と双方が思っている。しかし、その断面に至るまでの過程が双方では異なっており、私の方には明確な「数ページのみを残して読みきられていない小説」が存在する理由があるのだけれど、お客さんの方にはその理由がないので不思議でたまらない。結果「なんで?」と尋ね、お互いに見えてなかった領域を補完し合う必要があるわけなんですね。
今作では「その帽子イケてんな」という会話を最後になぜか関係がギクシャクしてしまった二人が、なぜその不和が生まれ、その不和を解消するためには何が必要であるのかが描かれている。この両者の関係は、同時収録されている『引き出しの中の人間』では冷戦時代の米ソとそれぞれに暮らす両者にも当てはまるし、同じく『わが子に、殺される』では父子の不和が描かれている。人は皆、一方向からしかものを見ることができず、だからこそ会話や対話によって相手の視点を理解しようとしたり、相手との立場を考えて不和の原因を想像してみたりする。しかし、相手のことを理解するのはとても難しく、時に誤解が誤解を生んで人間関係を良好に保てなくなってしまう。『わが子に、殺される』の中ではこんなフレーズが出てくる。〈こういう苦労がいちばん辛い。自分のことの苦労なら、その苦労のわけがはっきり分かる。(中略)だが、それが自分以外の人間についての苦労だと、ひどいことになる。これは、いわば本物の苦労だ。その人間が話してくれなきゃ、人の胸の奥まで入って、その理由を探り出すなんて、できるわけがないんだから〉。これなんていうのはその通りで、その通りなんだけれども、不快になっている相手を前に「言ってくれなきゃわかんないじゃん」みたいなことを言うのは愚かで、そんなこと言った場合どうなるかというと、大抵は「は?マジでわかんないの?もういい!」みたいになって人間関係は修復できない。「言わないでも分かってよ」という気持ちは理解できるが、「分かってもらうための努力も必要なんじゃないの?」みたいな気持ちにもなる。人と付き合っていく上で衝突は避けられない。衝突を回避しようとするアクションは、相手のことを思い遣っているようにも見えるが、そうして積み重ねた関係性に自己の主体性が残っているかというと、これも難しい。相手のことばかり考えてしまって自分のことが分からなくなる。往年のロックバンド、スーパーカーは歌う。〈最近はこんな恋のどこがいいかなんて分からなくなるの、それでもいつか、少しの私らしさとか優しさだけが残ればまだラッキーなのにね〉と。自己の主体性を失った関係において私らしさを喪失していく過程ほどつまらないものはなく、ならば重要なことは、そうした衝突を避けるための手段を講じることではなく、衝突した後にどう対話を重ねていくかという姿勢である。
人は関わり合いにおいて衝突は避けられない。無理に避けようとすると、どちらかの主体性が損なわれることになり、関係性が歪んでいく。ならば健全な関係を築くために必要なことは、まず衝突することであり、そしてその衝突の原因を対話でもって解決していくことである。「言ってくれなきゃわかんないじゃん」に対して「言わなきゃ分かんないならもういい!」とそっぽを向いてしまうのははっきり言ってこの対話の放棄であり、精神の幼さを露呈する行為だと言わざるを得ない。「言わないでも分かってよ!」というのは、相手が自発的に分かってくれるからこそ成立するものであり、それを強要するということは、もはや衝突の原因を示唆しているのであって、そこまで言っておきながら原因に対して直接の言及を避けて相手を批判しようというムーヴ自体が、もはや対話のテーブルにつくことをせずに外から石を投げている状態と同等である。ならばなぜ対話のテーブルにつかないかというと、対話による衝突の原因追求がなされると自分にとって不利に働いたりするからで、それを分かった上で「分かんないならもういい!」と不機嫌を武器に相手をコントロールしようとしたりするのは、本当に良くない。お願いだから対話のテーブルについてくれ。コーヒーと、お茶菓子も用意してあるから。こちらとしても、君の悪いようにはしないから。みたいな気持ちになる。
少しく話が逸れたような気もするが、この「断面だけをみて物事を判断しようとする危険さ」と「対話のテーブルにつこうとしない人たち」の相性というのは最悪で、こちらが「君がみた断面は確かに事実だけれど、それにはこういった理由があるんだよ。今からそれを説明するからね」と言っていても「知らない!」と言われてしまっては話にならない。そうして、相手の中では切り取られた断面だけが厳然たる事実として残り、双方にとって不幸な関係性を迎えていくことになる。やっぱり言わなきゃ分かんないよな、みたいな気分になるんですがね。ここまで書いて思ったんですが、例えば欧米に比べて日本人ははっきりと物事を言うのが苦手だと言う。「空気を読む」文化が、いわゆるこの「言わないでも分かってよ!」だとすると、こんなに幼稚なことはない。言外の意図を汲むという行為は、本来大変教養的なもので、思い遣りによる行為のはずなのに。対話をしなくても相手のことを理解できる、或いは理解しない状態をそのままにした上で適切な関係を築くことができるというのが、本来の日本的「空気を読む」ということだと思うのですが、人間関係が複雑になっていくにつれそれが難しくなり、今まで対話の訓練もしてこなかったものだから、結局「言わないでも分かってよ!」になっちゃうのかな、とか、そんなことを思いましたね。みんな、言いたいことも言えないこんな世の中じゃ、ポイズン、みたいな気持ちなのかな、と思いましたね。対話をしましょう。衝突を避けようとせずに。相手を理解しようとする、そして自分のことを相手に理解させようとする努力を忘れてはいけないし、その労力を惜しんで安易な人間関係ばかりを築いていると「分かんないならもういい!」になっちゃうんだよなぁ、って気持ちになりましたね。話をしましょう。良くも。悪くも。

というわけで10月の課題図書はバーナード・マラマッド『レンブラントの帽子』でした。11月は二階堂奥歯『八本脚の蝶』です。綺麗な表紙ですね。読んでいきましょう。

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