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【49冊目】八本脚の蝶 / 二階堂奥歯

12月です。
本日17時-24時半です。

今年もこの月がやってきましたね。つまりは最後の月ですがね。みなさま覚悟はいいですか?今年が終わることについての覚悟ですよ?思い残したこと、やり残したこと、しっかりやっていく必要があるわけなんですがね。そんな当店月初のお決まりといえばそう、ウィグタウン読書部ですね。

さて。
11月の課題図書は二階堂奥歯『八本脚の蝶』。25歳の若さで自死を選んだ筆者による、最期の日まで綴られ続けた2年間のブログの書籍化なわけなんですがね。こう書くとなにか下卑た好奇の視線でもって本書を捉えることもできるかと思うのですがね。つまりは「自ら死を選んだ人間が如何にしてその道を辿るに至ったか」という視線や、もっと露悪的に書くと「女子中学生の飛び降り自殺配信事件」の動画を探そうとするような、人の死に対する感性の麻痺した視線などで読むことも可能であるかとは思うのですがね。私が本書を知ったのは、今からもう少し前のことである。概要を知り、まだ閲覧することが可能な同名のブログを検索し、最後のエントリを読んだ私が一番に思ったのが「面白そう」という感想であり、この「面白そう」という感想自体に嫌悪感を抱きつつしばし遠ざけていた本である。ブログというのは最新のエントリが一番トップに表示されるもので、本書の場合、最新のエントリというのはつまり最期の日のエントリであり、つまり筆者の最期の言葉が一番トップに現れることになる。私はその時、その日のブログと、さらに数日遡って彼女のブログを読んで「こいつは軽々に扱うとえらい目に遭うな」と思って、しばらく遠ざけていたのである。しかし、常に積ん読リストの最上段にあった本書を今回手にとったのに理由はなく、そうして軽々に扱った結果、やはりえらい目に遭った。それは人の死に対しての鋭敏な感覚が研ぎ澄まされた結果というよりかは、単純に彼女の生き様(美意識)にすっかりあてられてしまったという意味で、一言で言うと「凄まじい人物を見た」と言う気持ちになったのですね。膨大な読書量とそれによって醸成された世界への認識。それらを自分の目で見て適切にアウトプットできる表現力。主体を持つ個人でありながら、徹底した自己客観とそれに基づく分析能力の高さによって自らを物語化しており、彼女自身が「二階堂奥歯」の物語を適切に読み解くことができるかどうか、と言うところに強い意識が向いているように感じました。それはひとつ、運命論めいた自身の生涯を、なんとかして別の読み方ができないかと試行錯誤しているようにも見えて、しかし、彼女自身もそれには気付いており、その危険性について曰く〈私はいつも、誰かが作る物語の中で翻弄されるコマでありたいだけなのだった〉〈読まれ手でも、読み手でもなく、語り手になること〉と作中で語っている。ここでは「物語としての彼女」と、「彼女が読もうとした『二階堂奥歯』としての物語」の二点に注目して、感想を書きたいと思う。果たして彼女の見た、そして彼女が辿り着きたいと願っていた地平とはどのようなものだったのか。読んでいきましょう。

さて。
本文に入る前にもう少しだけ駄話をしようかなと思うんですがね。夭逝した現代作家の作品に触れるたび、私は「あぁ、もし彼が彼女がまだ生きていたなら、Xでどのようなポストをしていただらうか」と思わざるを得ない。類いまれなる想像力と、世界を見渡す明瞭な視線で、この現代をどのように語っただろうか。それを聞いてみたいものだ、など思うのですがね。私の頭の中にあるその座(ポスト)には、随分と長らく伊藤計劃さんが座っていた。彼の作品をもっと読んでみたかったな、と常々思っている。しかし今作を読んだいま、その座に二階堂奥歯さんの存在を置くことに躊躇う気持ちは一切ない。彼女は広い視野をもっていたかというとそうではないようにも思う。ただ、彼女のフィールドにおいてその視座はとてつもなく強固で、例えばそれは幻想文学だったり、ジェンダー意識だったり、耽美主義だったり、はたまたファッションだったりするのだけれど、そのジャンルを愛するという確固たる美意識が彼女の中にはあり、それに対する理論武装(理由を言葉で説明できる能力)も大変に強かった。作中に現れる膨大な数の作品からの引用文は、彼女の理論武装をより強固にするためのものであり、説得力をつけるための武器である。彼女は自分の好きなものに理由をつけ、なぜ好きなのかを自己分析し、それらを他の作品を用いて説得力を持たせる。作中に出てくる〈文脈を作る力を身につけなくては〉と言う意識は、世界の真理に対する挑戦であり、また彼女が幻想文学や耽美主義に傾倒していた理由もまた、一言でいうならば「世界の全てを知りたい」という気持ちの表れだろう。そして、彼女は当然「それが不可能である」ということも知っていた。今作の終盤で怒涛のように繰り返される幻想小説の引用は、さながらまだ見ぬ情景がその中にならばあるかもしれない、と必死になって探しているようでもある。現代のフィメールラッパー、泉まくらは歌う〈説明のつく気持ちはいつか、理由をつけてなくしちゃいそうで怖い〉と。二階堂奥歯という物語に、説明と理由をつけることの危うさに彼女自身も恐らくは気付いていたはずだ。彼女の類いまれなる美意識とそれに対する理論武装は、妥協を認めることができないところにまでたどり着いてしまった。正義と同じく、美しさもまた妥協を認めないのだとしたら、その物語はどうしたって破滅を急ぐものになってしまう。〈だから、破綻する前に、この(私によって)聖化されたものと、聖化されたものによって価値づけられた私を凍結したいのだ〉。自身の信念に殉ずる意志というのは、阿部定事件に触れた日のエントリにも見て取れる。曰く〈定さんは、あれほどの恋の後、老いるまで生きたのだ。 酔うことも狂うこともない、素面の日常を毎日毎日何十年も積み重ねたのだ〉〈おそろしいのは恋のはかなさなどではない〉〈酔い続けているには人生は長すぎる〉と。ここで語られるのは、自分の信念にそって滅びることの恐怖ではない。むしろ、信念が滅びてなお生き続けることへの恐怖である。これは「徐々に色褪せていくくらいなら、いっそ燃え尽きたほうがいい」と言って頭部に据えたショットガンの引き金を引いたカート・コバーンの心境にも共通する意識で、もう少し言えば「将来に対する唯ぼんやりとした不安」を口にして大量の睡眠薬を飲んだ芥川龍之介にも共通する。彼らが恐れたのは、気が狂って人生が滅茶苦茶になることではない。たとえ自分の人生が滅茶苦茶になろうとも、世界はちくとも変わりはしないし、夜が明けたらまた朝が来る。その無限に訪れる朝日を、狂いながら見続けなくてはいけないということを恐れたのだ。

世界の強度に対抗するかのように、彼女が求めたのは「文脈を作る力」だった。言い換えれば「世界の中に自分の居場所を作る力」ということもできる。これは、過去から現在へと繋がる文脈を追うことで、その先にいる自分の存在に肯定を与えるような行為で、これもやはり一つの理論武装なのだけれど、彼女はその理論武装を強化するために世界と向き合い、そしてそれに誠実であろうとしたさまが、様々なエントリから見て取れる。〈こわがりでよわいのはかまわない(仕方がない)が、楽になろうと力任せに粗雑に何かを定義してはいけない(2002/03/10)〉という箇所は、分かりやすい結論や物語、共感に靡かずに、また分からないからといって対象に自分の尺度に収まる解釈を与えてはいけない、という自戒であり、対象に対する誠意が見て取れる。またその三日後のエントリでは「物語の否定」と思える箇所が見える。曰く〈何かを信じるということは、目をつぶり鈍感になることだ。 それによって生まれる単純さによって安らぎと強さを得ることが出来る。 自分で立たず、大きな価値にくるみ込まれて「意義のある」人生をおくることができる。 でも、それは偽物だ〉〈たまに自分を支える物語が欲しくなるけど、それは転落であり不誠実な態度だという気持ちがいつもつきまとう〉〈現実はいつも定義されたところのものだ。 これに根拠はない。しかしこれを現実としておこう。そうやって日々を生きている私が、今更どのような自己欺瞞を行えば何かを信じることができるだろう〉。この箇所が示すのは、安易な物語の否定であり、温かな共感に包まれながら腐っていくことへの恐怖である。鴎外が『かのように』で示したような信仰への不信を抱きつつも、決して「かのようにの化物」から目を逸らしてはいけない(できない)という性質に対する不安も描かれている。さらにその五日後のエントリでは私的な価値体系が世界と分断されている意識が言及され、これは言い換えるならばやはり「文脈をつくる意味」の消失(あるいはそのための努力)ということができるだろう。彼女の価値体系が世界と共有できないのであれば、そのための文脈を形成することこそが大切なはずなのに、それが消失してしまっている様子が見て取れる。少し進めて同年5月30日のエントリでは、神を信じて楽になることを〈欺瞞〉と言い切り〈幸福さは罠だ〉〈とにかく、安易な解答には決して飛びつかないこと〉と、温かな共感の物語を否定し、自己の価値体系への信仰を強化しているようにも思える。同年9月26日のエントリでは「物語の主人公になることへの危機感」が語られており、これもやはり「自分の(世界の)価値は自分が決める」という意思が感じられ「物語に流されてはいけない」と自分にリマインドをかけている。こうして彼女は独自の世界を自分の中に造っていった。これはなにも特別なことではなく、誰もが自分の好みによって自分だけの世界を構築している。彼女が少しだけ特別だったのは、その「好き」を理論武装する能力と、自分の存在に対して無自覚でいられないという性分を持ち合わせていたということだろう。性転換をしたトランスジェンダーの友人とお茶をしながらの会話で、その友人は彼女に向かって言う。〈「自分で自分を作れないで生きていて、どうするっていうのよね」〉。彼女は自分の物語を自分の手で完璧に作りあげ、そして、そこに詭弁が差し挟まる余地がないほどに理論武装を固めたのだろう。彼女のメンターに位置付けられる知人、雪雪さんからのメールではこのようなフレーズが引用されている。〈読むものとしてのあなたの限界が、書物としての私の限界である〉。彼女は自分の物語の作り手であり、そして同時に読者であった。読み手としても、書き手としても、彼女は妥協を許さなかったのだろう。やはり正義が妥協を認めないように、美しさもまた妥協を認めないものである、と言わざるを得ない。大切なものは、大切なうちに失われなければならなかった。慣れて、色褪せていく前に。

しかし、二年間に及ぶ彼女の日記それ自体に、死の気配というのはほとんど感じられない。あるのは濃厚な耽美の雰囲気だけで、それ以外は物欲を満たすためにお買い物にいそしんだり、理想の肌を手に入れるために新しいコスメを試したりといった、普通の二十代前半女子である。それが、死のおよそひと月前である2003年3月23日のエントリで唐突に感じるほど、死のムードがぐっと濃くなる。それまで毎回のエントリで長文を書いていた彼女がこの日はわずか2行のみの投稿になっている。〈綺麗なものたくさんみられた。しあわせ。/そろそろこの世界をはなれよう。〉。耽美なものを追い求め、未だ見ぬ地平を幻想小説に求め、自身の価値体系に妥協を許さず、愛では満たされない美しさというものに狂っていく。同年4/1以降の日記では圧倒的に引用が多くなり、中には引用のみ十数件挙げただけの日もあった。まるで彼女の存在自体を過去の美しい物語に説明してもらおうとしているように。あるいは美しい物語で彼女の存在を取り囲んで飾ろうとしているように。破綻を恐れ、その美しさに殉ずる精神が、彼女の物語をとてつもなく耽美なものにしており、その意味において彼女は愛するものの一部になったのだろうなぁ、と思いました。最期の日のエントリはとても感傷的で再読に耐えないけれど。彼女の好きだったバンド、筋肉少女帯の歌詞にこんなものがある。〈代わりに私が生きてあげようかな〉。彼女の美しさを前に、私が代わりになんて烏滸がましいけれど。

というわけで圧倒的な存在感を放つ作品でしたね。個人的に、私は二十歳ごろからアングラ・サブカルに没入し昭和の猟奇悪趣味エログロナンセンスも一通り触ってきたので、その辺りのアイテムがたくさん散りばめられているのが楽しかったですね。今作を読んだという方とお話しすると「作中に出てくる香水私も使ってた!」とか「あの写真集私も持ってる!」なんてリアクションもあって、彼女の生を実感しますね。私なんかが一番びっくりしたのは、赤坂のモルトバー「ですぺら」のホームページを彼女が作成していた、というくだりで、私、このホームページ見てた!ってなりましたね。ウイスキーに関してもですし、やはり文壇バーとしてのカラーがあるこちらのお店のBBSとかは楽しく読んでいた記憶がある。この記述が出てきたときは、マジで、うっそ、みたいになりましたね。びっくりした。人形やぬいぐるみへの愛情、SMや身体改造、ジェンダー論など、すごく共感できるハッとするような深い洞察がなされているところもあり、読んでいて気持ちよかったですね。しかしまぁ。氏賀Y太や蜈蚣Melibeを愛読しながら〈乙女の心意気〉を手放さずにいられたり、マゾヒズムとフェミニズムを高次に融合させようと試みたりなんていうのは、本当にすごい人物がいたもんだな、と感心しきりですよ。石井輝男『恐怖奇形人間』とエルメスのバーキンが両方同じ熱量で内在する人間なんて存在するのかよ、みたいな気分ですね。本当はみんなで作った架空の人物なんじゃないの?みたいに思いました。私もそうなりたいな、って感じですね。まずは香水でもつけてみようかな。あとはトルコ旅行に行く日記も良かったですね。旅行とは新しい価値観に触れにいく行為で、決して写真を撮りに行く行為ではない、みたいな気持ちになりましたね。読んでて心地よかったです。

というわけで、11月の課題図書は二階堂奥歯『八本脚の蝶』でした。12月はピーター・S・ビーグル『最後のユニコーン』です。天野さんの装画が美しいですね。読んでいきましょう。

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