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【57冊目】氷の海のガレオン / 木地雅映子

9月です。
本日14時-23時半です。

台風が運んできた長い雨が夏の熱気を冷ましてゆきます。猛り狂った暑さは8月と共に収まりを見せ、新学期の季節を迎えたわけなんですがね。夏休みの宿題をやっていかないといけませんね。自由研究に、絵日記に、読書感想文ですか。そう。当店月初のお決まり、ウィグタウン読書部ですね。

 というわけで8月の課題図書は木地雅映子『氷の海のガレオン』。〈自らを天才だと信じて疑わないひとりのむすめがありました。斉木杉子。十一歳。——わたしのことです。〉という最高の書き出しから始まる少女の物語なんですがね。いわゆるヤングアダルト小説というやつなわけですが、本作の主人公たる杉子もティーン特有の感性で自らを特別な存在だと思っている。これは、まだ他者と自己の分別もつかないような少女が、己の万能感を少しずつ摩擦消耗していく物語なのかな、など思うわけですがね。果たして、そうではあるがそうではない。まだ小学生の杉子は、学校という小さな箱に閉じ込められて、その中で社会を学んでいく。価値観の画一を求められる教室の中で、周囲との協調が取れない子どもは「変な子」のレッテルを貼られ、矯正を求められる。「普通」になることを求められる。自分の中の正義が周囲の価値観によって無理やり形を歪められてしまうかもしれないという恐怖と、その価値観の画一を拒んだことで発生する周囲から孤立してしまうかもしれないという恐怖。どちらも恐ろしいものではあるが、本作の杉子は前者をより恐れている。つまり、分かってくれないならそんな集団への所属はこちらから願い下げだわ、という態度で、それが冒頭の一文に象徴されるわけなんですがね。今作が発表された90年代前半はいじめや不登校が社会問題化し、教育のあり方が見直されつつあった時代。それでも、杉子のように自分の正義を保とうとする子どもにとって、教室という空間はまさしく「氷の海」であったに違いない。大海原まで出ることができればその能力を如何無く発揮することができる巨大なガレオン船でも、氷の海にはまっては身動きひとつ取ることができない。教室内のルールに則って周りの評価を上げることができる陽キャたちの中で、「変な子」のレッテルを貼られてその性質の矯正を求められる陰キャの孤独な戦いが描かれているわけですがね。本作が発表されて30年。教室が「守ってきたもの」と「潰してきたもの」はどう変遷してきたのでしょうね。おそらくは同じテーマで書かれた併録の『オルタ』と『オルタ追補、あるいは長めのあとがき』と合わせて読んでいきましょう。例によってここからは【ネタバレ注意!】となりますのでご注意くださいませ。

 本作を読んで自分の小中学生の時を思い出す読者は多いだろう。私はどれだけ「普通」だっただろうか。運動部に所属して、ぼちぼち勉強もできて、それなりに友人もいて、ぼんやりとしたいじめもいじめられも経験して、卒業アルバムの寄せ書きも少なからず埋まるような小中学生活は、どこまで「普通」だったのかな、と思うわけなんですがね。それでも私はやはり「変な子」と言われることが多かった気がする。そしてそう言われることを誇りに感じていた気もする。そうして「他とは違う」ことに価値を見出していると、当然周りから爪弾きにされることもあるわけで、そんな時に自分の気持ちを守るために「人は人、私は私」と唱えながらマイペースに生きることを誓ったりしていた気がする。そうして、自分の価値観を解さない周囲をコケにしたり、絶対的に自分の味方であるところのぬいぐるみに抱きついたりするなんていうのはこれ、作中の杉子が同級生を小馬鹿にしたり、庭のナツメの古木に抱きついて話しかけたりするのと全く同じで、そうした「変な子」と呼ばれることもあるような思春期を送った全ての人に、この作品は大変雄弁に語りかけてくる。教室という閉鎖空間で、一度貼られたレッテルを貼り替えることは大変難しい。「陽キャ/陰キャ」というワードが一般化した現代において、社会の価値観に沿ってヒエラルキーの上位に立とうとしている陽キャの女の子たちを評して杉子は言う。〈強い女の子たちはたいがい、強い男の子たちのグループと接触が多く、性的にませていて、「はやっている」とされる服を身につけ、髪型をしょっちゅう変える。(中略)それらは弱い女の子たちには許されていない『特権』である〉。そして、そんな「特権」を得たいかと問われると〈商品的になるために努力するなんて、まっぴらだ〉とはねつける。この〈商品的になるために努力するなんて、まっぴら〉というのはとても強いフレーズですよね。社会の中では自分が集団に利益をもたらす存在であることをアピールしなくてはいけない。そのために自分の商品価値を高めるというのは、何も子どもたちが教室の中だけで行っているわけではなく、むしろ大人も積極的にヒエラルキーの上部に行くために努力していることであると言える。それを〈まっぴら〉と言い切ってしまうなんていうのは、はっきり言って社会の平和に仇なす不穏分子である。しかしまた、その考えは社会全体のために少数の犠牲を厭わない、社会主義的な発想につながる。教室には教室のルールがあり、社会があるのは理解できる。その上で「守るべきは『個』か『社会』か」で常に切り離されてきた少数の異分子たち。併録の短編『オルタ』の中にはこんなフレーズが登場する。〈(運命づけられた共同体の、優秀なる緩衝材)/この国には、そういうこどもが、たくさんいるのです〉。社会を優先するということは、そのために犠牲になるこどもたちを見捨てるということに繋がる。80年代のパンクバンド「INU」のボーカル、町田町蔵は歌う。〈それともお前は戦争をなくし、世界を一家にするためなら、不穏分子として効率よく速やかに殺戮され尽くされたいのか?〉。社会構造を守るために犠牲になるこどもたちを見捨て「普通の」こどもたちを量産することで安定する社会を、我々は生きたいのだろうか?

 「自分勝手」という非難を武器に、社会は「普通じゃない」子の矯正をはかる。「どうしてもっと普通にできないの」「普通にやればいいでしょ」。そう言われて育つ〈優秀なる緩衝材〉たち。この構造はなにも教室内にとどまらない。エマ・ワトソンはフェミニズムに関してのスピーチでこんなことを言っている。〈女の子がやってはいけない一番悲しいことは、男性のために頭の悪いふりをすることです〉。社会に〈優秀なる緩衝材〉としての役割を与えられた人は、いつの間にか率先してその役割を全うしようとする。それどころか、その役割を奪われないように争いさえする。そうした役割を押し付けられた子どもは、そうした生き方しか学ばずに大人になり、率先してその役割を果たすことに幸福を覚えたりするものだ。かといってその役割の意味を自覚させ、その役割を奪うことが、対象を幸せにするとは限らない。ジョジョ第5部のブチャラティのセリフでこんなものがある。〈吐き気をもよおす『邪悪』とはッ! なにも知らぬ無知なる者を利用する事だ……!! 自分の利益だけのために利用する事だ…〉。緩衝材としての役割を与えられている者たちの存在を知りながら、自分がヒエラルキーの上部に居続けるためだけに、下部の人間にその役割の重要性を説くことほど〈吐き気を催す邪悪〉はない。この構造を変えるしかないのだ。しかし、どうやって。

 作中で杉子は、いじめられっこの『まりかちゃん』から「ともだちになって」と迫られる。まりかちゃんは教室に馴染まない杉子をみて、自分と一緒になってみんなからいじめられる役割を果たしてくれる子かもしれない、という打算で近づいてくるわけだが、杉子はそれをにべもなくはねつける。「ともだちになって」と泣いてすがるまりかちゃんに対し、断固たる態度でNOを突きつける杉子の姿を見て、私なんかは「なにもそんなはっきり断らないでも」みたいに思うのだけれど、まりかちゃんが求めているのは「一緒に緩衝材としての役割を果たしてくれる存在」であり、もっと言えば「私の代わりにその役割を担ってくれる存在」なわけで、そんなの杉子からしたら「まっぴら」というわけだ。この、一見陰キャ同士に見える両者には決定的に違う点がある。つまり、既存のピラミッドに組み込まれようとしているか、新しいピラミッドを建設しようとしているか、である。あくまで教室内ヒエラルキーの中で生きようとしているまりかちゃんは、たとえ自分が下部に組み込まれることがわかっていても、そのピラミッドから出ることができない。下部にいることを自覚しながら、少しでも上部へ行けるように、杉子と「ともだち」になって、上部の陽キャたちがやっていることを模倣してみたりする。まさしく〈優秀なる緩衝材〉といって良い。翻って杉子は、自らのピラミッドを建設することにしていて、既存のピラミッドには一切の興味を示さない。積極的に不干渉を貫いているといっても良い。そのピラミッドがどんなに小さなものだとしても、既存のピラミッドに組み込まれて緩衝材の役割を担わされるなんて「まっぴら」というわけだ。大槻ケンヂさんは「サブカルってなに?」との問いに対して〈学校教育から落ちこぼれた人間が、プライドを保つために自分を別のベクトルで教育してカウンターカルチャー、つまりサブカルを修める。要するにちっぽけなプライド〉と答えたとされる。既存のピラミッドでは下部に組み込まれる人間も、別のピラミッドではトップに立つことができる。まりかちゃんと杉子が徹底的に違うのは、そのために必要な〈ちっぽけなプライド〉を持っていたかどうかだ。その〈ちっぽけなプライド〉を失ったとき、人は〈優秀なる緩衝材〉として生きることに喜びを見出してしまう。それを知りながら「もっと普通にして」と矯正することこそ〈吐き気を催す邪悪〉と言わずしてなんと言えるだろうか。

 「変わり者」として既存のピラミッドの中で生きることは容易ではないし、また新しいピラミッドを建設することもとてつもなく難しい。作られた環境は、時にそうした「変わり者」を守ることもあるだろう。〈優秀なる緩衝材〉が必要だった時代もあるだろう。しかし時代は多様性を抱えることができるほど豊かになった。その豊かさの中で、まりかちゃんのように〈ちっぽけなプライド〉を失ってしまうなんて悲しいことだ。環境から与えられた役割を自らの役割だと思い込んでしまうことのないように。そして、そんな環境を〈なにも知らぬ無知なる者〉に与えないように。我々大人は考えていかなきゃいけないと思いましたね。まぁでも最近は、たとえば神聖かまってちゃんのの子とか、女王蜂のアヴちゃんとか、あとはあのちゃんとかちゃんみなとか、いわゆる「自分らしさ」を強く後押ししてくれるポップアイコンも目立つようになりましたし、「スクールカースト」という言葉も一般化して、それに伴ってピラミッド下部の生き方に対しての窮屈さも緩和されつつあるのかなとも思いますね。ただ「まりかちゃん」がいなくなることはないし、誰もが杉子のように生きられるわけでもない。その杉子とて、庭のナツメの古木ハロウに抱きついて泣くこともある。しかし、今作が「普通」であることを求められてきた「変わり者」たちにとって、心の支えになるだろうことは想像できる。たとえいまが、どんなに凍てつく氷の海の上だったとしても、環境さえ変われば巨大なガレオン船はどこまででも行けるのだ。日本語ラップ史に燦然と輝くパンチラインに〈普通がなんだか気づけよ人間〉というものがある。この曲のフックで繰り返されるフレーズは次のようなものである。〈You need heart to play this game. 気持ちがレイムじゃモノホンプレイヤーになれねぇ〉。小さな子どもたちだけでなく、大人になった我々もまた、気付けば周りが氷の海に覆われていることはよくある。「普通」を疑い、大海へと漕ぎ出す勇気を、それを持つ心構えを常に失わずにいたいなと思わせてくれる作品でしたね。しかしまぁ、悲しい気分にもなりますね。豊かさの中で消耗させられる子どもたち。この構造をどう変えていくことができるのかなって思いましたね。 

というわけで8月の課題図書は木地雅映子『氷の海のガレオン』でした。9月はポール・オースター『ムーン・パレス』です。読んでいきましょう。

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