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【16冊目】夫婦善哉 / 織田作之助

2月です。
緊急事態宣言が延長になるやらならないやら、延長になった場合、時短要請はどのようになるやらならないやらと、相変わらず気を揉むところが多いわけですが、仮に延長になり、時短要請も変わらなかった場合は、お昼営業を再開させようかと考えております。お昼営業の再開準備入り検討の見通しをたてております。どうするべきかなと思いますがね。やるべきことをしっかりとやっていきたいところですね。そして当店月初のやるべきことと言えばお決まりですね。休業期間中だとしても、やはりこいつはやるべきですね。そう、みんな大好きウィグタウン読書部です。

先月の課題図書は織田作之助『夫婦善哉』。
例によってここからは【ネタバレ注意】となるわけなんですがね。私なんていうのは、やはり関西の文章のリズムが好きで、そもそもは町田康。そこから野坂昭如、中島らも、西加奈子なども心地よく読むのだけれど、なかでも意識的に自身でもよくやる書き方というのが、ひたすらに固有名詞を列挙するやり方ですね。直近だと昨年、12月24日の投稿を見てみると、クリスマスに関連したアイテムをひたすらと順々に挙げている箇所があったり、12月9日の投稿では通勤途中の街に並ぶ店舗名をつらつらと書き連ねている(実はこの箇所は、やはり大阪芸大出身の作家、山内マリコの『ここは退屈、迎えに来て』の引用)。そこへいくと、今回の課題図書である夫婦善哉の冒頭を読んでみると、のっけから「醤油屋、油屋、八百屋、鰯屋、乾物屋、炭屋、米屋、家主その他」と借金取りの往来を告げ、その次の文では「牛蒡、蓮根、芋、三つ葉、蒟蒻、紅生姜、鯣、鰯」など、天麩羅の材料が列挙されている。この固有名詞の列挙ってやつが私は好きで、よく真似をするわけなのだけれど、真似をすると言えば、この夫婦善哉に出てくるもので一度は真似してみたいフレーズというのが「僕と共鳴せえへんか?」という柳吉のセリフで、これなんていうのはなんとも危うい口説きの文句で、私なんていうのはこれを、やはり町田康(町田町蔵+北澤組)の楽曲タイトルで知ったのだけれど、なんとも言えずいい感じの文句ですよね。安カフェーで女給の手に気安く触れながら「僕と共鳴せえへんか?」なんていうのは一度は使ってみたい口説き文句ですよね。岡村靖幸『家庭教師』内の「それじゃね、お金を使わないで幸せになる方法教えてあげようか?」くらいに最高な口説き文句ですよね。一度は使ってみたいですよね。清竜人『CAN YOU SPEAK JAPANESE?』内の「僕のエリア51と君のエリア51では未確認生命体たちが愛の交信中」くらい一度は言ってみたいセリフですよね。考えてもみなさい。あなたが安カフェーの女給で。多少なりみてくれの整った男がやたら自信たっぷりに、真っ直ぐな瞳で「僕のエリア51〜」とか言われてごらんなさい。もう、トゥンクってなるでしょう?なにコイツ......トゥンクってなるでしょう?ならないです?ならないですかね。まぁともかく。

それはさておき本書であるが、細かい描写がとても良い。例えば、2人が両親の元へ初めて帰ってきた時、父である種吉は沈黙に耐えかねて氷屋に行き、氷いちごを持ってきて、それでも場は和まず、皆で黙々とそれを啜る。例えば、2人が一緒に暮らし始めた頃。蝶子が慣れない仕事をして疲れて帰ってくると、柳吉は山椒昆布をくつくつと煮ている。嬉しそうに「どや、ええ按配に煮えて来やったやろ?」と竹箸で昆布をつつく柳吉に蝶子は愛おしさを覚えつつも、そんな素振りは見せず「なんや、まだたいてるのんか、えらい暇かかって何してるのや」と吐き捨てるように言う。例えば、柳吉が遊び友達と貯金を使い果たすほどに飲み倒して帰宅、流石の蝶子も怒って柳吉を張り倒して家を出て街をしばしふらつくも、一人で浪花節を聞いても面白くなく、そんなところでたまたま通った定食屋でライスカレーを食べていたら、ここのカレーは柳吉がかつて「う、う、うまい」と言っていたのを思い出して、急に甘い気持ちになって帰ると、柳吉は酒酔いの状態で寝ていびきをかいている。そいつを荒々しく揺すって起こすと、まだ薄ぼんやりと眠い目を擦っている柳吉に唇を重ねたりする。そんでその翌日には二人で仲良く昨日と同じライスカレーを食べに行ったりしている。
どのシーンも本当に人情味に溢れていて、情景的でありながらシンプルな描写でもって、それぞれの機微というものを描き切っている様などは、誠に見事といって差し支えなく、これこそが、側から見たらロクでもない男に惚れてしまった女の心情だったりもするのではないかと思う。
なんて言っていられるのもまだまだ序盤で、徐々に読み進めていくに従って柳吉のクズっぷりは磨きがかかっていき、それは蝶子の母が亡くなった日のこと。柳吉の身勝手に振り回された挙句死に目に会えず、親不孝な気持ちで帰るとそんな蝶子を慰めることさえせずに「どこイ行って来たんや」と怒鳴る。この辺りになると、もうやめたってやみたいな気持ちになってくる。なんやね、この柳吉ゆうんは、みたいな気持ちになってくる。勝気な蝶子の性格さえも、どこか痛々しく思えてくる。あんなに仲睦まじい様子だった二人が、どないしてこんな拗れあった関係になってしもたんやろ、みたいに思うのだが、考えてみればそもそも柳吉は妻子のある身であり、蝶子とは今で言うところの不倫関係、愛人関係にあり、まぁ本妻に対しても家に対してもぐつが悪い。柳吉なんぞはそんなことも承知の上で、蝶子を都合よく扱っており、挙げ句絶望した彼女がガス自殺未遂を起こすと、ここを先途と別れの手紙を父親である種吉に送ってみせ、嗚呼、これで二人の腐れ縁もいよいよ終わりか、思ったらそれから10日もせん内にひょっこり帰ってきては「あんなもん芝居やがな」と悪びれもせず、「ど、どや、う、う、うまいもんでも食いに行こか」と二人で夫婦善哉を食べに行く。どうしようもないクズながらなぜか憎みきれない柳吉と、そんな柳吉を心の底から呆れ憎みつつも、どうしてか離れきれない蝶子。二人の関係なんていうのは中々に感慨深く、損得や理屈ではもとより、感情や道徳なども超えた所で、なにやら共鳴しあっているようでもあり、これは羨ましいようで、しかし羨ましいとは思えない関係で、全くもって処分に困る。どうしたものかと思ってしまうのです。

さて。
今作を選んだ理由として、本当は、なんとか今作をフェミニズム文学として読むことはできないだろうか、というものがあった。良妻賢母という言葉の通り、一昔前の日本で良しとされる夫婦観というものは、いまのジェンダー論からすると著しくズレているものが多く、となると、現代的にそぐわない文学はポリコレ棒に叩き潰される対象になってしまうのではないか、とも思っていた。しかし、改めてそういう視点で読んでみても、これは女性の役割だったり、男性が胡座をかいている図だったりよりもさらにメタなものな気もするんですよね。実際この辺りっていまどうなっているんですかね。落語とかでも、平気でジェンダーハラスメントとか行われるわけじゃないです?このセリフはちょっと現代的にどうなの?みたいなことたくさんあるわけじゃないですか。となると、それらは添削されるべきなの?その辺の落とし所ってどうなってるの?いま気になって「落語 ジェンダー」というワードでググったら「桂文也」という落語家が、なんでも「ジェンダー落語」なんてことをやっているんだそうじゃないですか。それも20年以上前からやられているってことじゃないですか。これは。気になりますね。わたし、気になります!

さて。
そういうわけで、今回は織田作之助『夫婦善哉』でした。次回はトーマス・マン『ヴェニスに死す』です。昨年4月にはペストをやりましたしね。今度はコレラですね。やっていきましょう。

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