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【46冊目】無意味の祝祭 / ミラン・クンデラ

9月です。
本日17時-24時半です。

さて。
新しい月がやってきたわけなんですがね。当店月初のお決まりといえば「ウィグタウン読書部」というのがあるんですがね。これは一昨晩の話。仕事を終えた私は、家に帰ってから8月の課題図書の感想文を書こうと思っていたわけなんですね。というのも、まだ何も書かれていなかったから。家に仕事を持ち帰り、ベッドの上で書いてしまおうと思っていたわけなんですがね。そんな私のスマートフォンがぶるると鳴り。知人女性からの着電があったわけなんですね。私はその着電に一種の緊張と期待を抱きつつ、しかしそれよりも「こっちにはやらなきゃいけないことがあるんだけどな」みたいな気持ちもあったわけなんですけどね。電話をとり「なんの用だ」と問う私に答えて曰く「意味などない。無意味な会話をしてみたくて」と。私はこの遣り取りこそが、今回の課題図書のテーマであることを即座に察したわけですよ。つまり、やらねばならぬことの中にも無意味はあり、無意味な会話の中にも意味はある。これだな、と思いましたね。それで結局やらねばならぬことを放擲して無意味な会話に耽溺したわけなんですが。そもそもこの感想文も「やらなきゃいけないこと」じゃない気もしてますしね。でもまぁ、やりますけどね。やっていきますけどね。

というわけで、8月の課題図書はミラン・クンデラ『無意味の祝祭』。いいタイトルですね。私なんていうのは無意味を愛している。無駄の豊かさと、非合理がもたらすワンダーを愛しているわけなんですがね。最近なんていうのは「タイパ」なんていう言葉も生まれ、限られた時間に対してどれだけ価値を生み出すことができるか(或いは得ることができるか)という点に重心を置く価値観を持つ人が増えている様子なんですがね。この言葉を私が初めて聞いたときに何を思ったかというと「みんな人生に意味をもたらしてくれるものを求めているのだな」ということで、これは言い換えるなら「自分の人生を価値あるものにしたいのだな」ということである。誰もが思春期に人生の意味について悩むことはあるだろう。自分はなぜ生まれ、何をすべきなのだろう。何が自分を生かしてくれるのだろう。自分に与えられた役割とは。私自身も御多分に洩れず人生の意味について考えていた。中学二年生の頃だった。そしてその時に私が得た哲学というものが「そもそも森羅万象の万物に意味などなく、そこに意味を見出そうとすること自体がナンセンスである」というものだった。私がいかにこの哲学を得たかはもはや記憶にないが、この虚無主義が私にもたらしたものは大きかった。意味がないのであれば、それは豊潤に持っているということではないか、と考えたんですね。多分hideちゃんが〈なんにもないってこと、そりゃあなんでもアリってこと〉って歌ってたからだと思うんですけどね。意味がない、役割がないのであれば、何をしてもいいということではないか。自由ってやつさ。これが本当の。みたいに思って以後、好きなことだけをやって暮らすことになるわけなんですがね。まさしくそれは無意味の祝祭だったのかもしれない。誰からも必要とされず、誰の役にも立たずとも、大いなる無駄に喝采を叫ぶことはできる。そう考えたときに、これはもしかして『雨ニモマケズ』ではないかな、と思ったんですね。〈ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイウモノニ/ワタシハナリタイ〉ではないかと。どうなんでしょうね。読んでいってみましょう。

 さて。そうは言ったものの、私はそもそも『雨ニモマケズ』に果たしてどういった解釈が与えられているのかを正確に理解しているわけではない。試しにいま「雨ニモマケズ 意味」みたいなワードで検索し、一番トップに出てきたページを開いてみると「これは賢治の理想の生き方を表現したもの」と説明されている。「理想の生き方」って言われてもな、と思う。実際にこれを授業で習ったとき、初めに抱いた感想は「みんなにデクノボーと呼ばれ、そういうものに私はなりたい?は?」みたいな感想で、つまり「役立たずと言われたい」という心境がまるで分からなかった。しかし時を重ね「無意味の存在感」が増していくにつれ、〈ホメラレモセズ/クニモサレズ〉という賢治の理想に共感する気持ちが強くなっていった。そんなデクノボーを象徴するような人物が、今作の中に2人出てくる。一人はカクリック、もう一人はカリーニンだ。カクリックは〈最高の女たらしのひとり〉と友人から評されている一方で〈たえず弱々しい声で、なにかをもぞもぞと話す〉〈彼が話すことはだれの注意も惹かない〉〈平凡で、面白くもなく、愚にもつかないことばかり言っていた〉と、およそ女にモテるような印象を与えない。しかし話者は、もう一人の友人であるダルドロを引き合いに出し〈ナルシス的人間〉と彼を評した上で「輝かしいことは有害だ」〈無意味は女を解放する〉と両者を比較する。ここでは、ダルドロの輝かしいキラキラした態度は女を口説く上でむしろ邪魔であり、カクリックのようなつまらない男の方が女の心は開きやすい、ということを言っている。
 もう一人のデクノボーを象徴する人物として出てくるカリーニンは、かのスターリンの一味にいた人物である。「カリーニングラード」という町の名にもなっている人物で、そんな町の名にもなるくらいだからさぞかし立派な勲章だらけの人物なのかというと、果たしてそうではなく、語り手は彼を〈なんの実権もない男だった〉〈人畜無害の木偶の坊だった〉と評する。語り手は続けて〈スターリンはカリーニンに対して並外れた優しさをもっていた〉とも語り、その理由を〈どんな人間も経験した苦しみ〉に対して〈じぶん自身以外のだれにも不幸をもたらさなかった絶望的な戦い〉を挑んでいたからだ、とする。全てを思いのままに操ることができた、時の権力者スターリンをして、カリーニンこそが「理解可能な人間」として愛情深く接することのできる唯一の人物だった。この「カリーニンに対するスターリンの愛情」は「カクリックに対する女たちの反応」と同種のものである。つまり「無意味であることの存在感」である。「デクノボーの魅力」と言い換えてもいい。それはナルシス的人間であるダルドロや、時の権力者であるスターリンが意識的に遠ざけてきた「無意味」であり、しかしながらだれもが共感可能なその特性は、一方で彼らを抗いがたく魅了するものでもあった。欲望はどこまでも膨らみ続けるもので、女にモテたいとか、世界を征服したい、とかいう欲望には果てがない。ひとときの達成はまた次の目標に向かうためのほんのブリッジにしかならず、そんな戦いの螺旋に乗ってしまった人物からすると「デクノボー」であることを選んだ彼らの安寧に、ふと安心感を覚える。これが「意味」と「無意味」が反転する瞬間で、戦いは何も解決してくれないような気分になる。これは、続く登場人物、カリバンの試みでも繰り返される。

 カリバンは役者で、パーティの給仕のバイトをしている。現地のフランス語がわからないパキスタン人として実際には聞いたことも喋ったこともない「偽パキスタン語」を作り出して、その役になりきることに愉しみを覚えているのだが、すぐに彼は〈苦労して創りあげたその韜晦がなんの役にも立たないのではないかと疑いはじめた〉。パーティの参加者は彼と言葉を交わすことを求めず、要求は簡単な身ぶりで示すことができたからだ。こうして彼は〈観客のいない俳優になった〉。私は、このカリバンの試みとその破綻もまた「意味」「無意味」の転覆する瞬間のように思う。俳優である彼は虚構を演じるのが仕事である。しかし、その虚構にだれも興味を示してくれなければ、その虚構でさえ意味がなくなってしまう。〈みずからの韜晦にどんな面白みも見いだせなく〉なる。そんなカリバンの努力を嘲るように、友人のアランはフランス語で話しかけてきて言う。〈きみ、その見事な言葉の快挙には感心するが、そいつは私を喜ばせるどころか、かえって悲しみに突き落とすんだよ〉と。〈韜晦の快楽はきっと、君たちを保護してくれるのだろう。(中略)われわれはずっとまえから、この世界をひっくり返すことも、作り直すことも、この世界の不幸な成り行きをとめることもできないと理解している。可能な抵抗はひとつしかない。この世界を真面目に受けとらないということだ〉とアランは言うのだが、これも自らが良しと思って作り上げてきた価値感が如何に不安定な下地の上に立っているかを示すようなセリフである。同じように、パーティに参加していた女優は言う。〈人間だれだって孤独なの〉〈たくさんの孤独に囲まれた孤独〉と。女優というカリバンの韜晦と同じ種類の価値観を築いてきた人物が、その価値観では孤独を埋めることができないと言っているわけですね。ちなみにこの女優は後に、パーティで出会った〈見知らぬ男〉とベッドで一夜を過ごしているのだが、この男が誰だかは明記されない。しかし〈じつに控えめで、ほとんど眼にも入らないくらいだった〉と描写されており、ここでもデクノボーとしてのカクリックのような「無意味な男」に「女優」が靡く様が描かれている。

 そしてもう一人の重要な登場人物がアランである。彼は父親から〈お前の母親はお前が生まれてくることをぜったい望まなかったのだ〉という毒親発言を受けたことで、すっかり自分の存在に価値を見いだせなくなっている。自己肯定感の低い彼は、ちょっとした衝突が起こるたびに自ら相手に謝罪して道を譲る〈詫び屋〉気質の男で、この〈詫び屋〉としての性質が最初に現れるシーンもとても印象的である。お腹に胎児を宿した若い母親が川へ飛び降り自殺を図るも失敗し、道路を歩いていた時にアランと肩がぶつかる。アランはいつものように謝るが、母親は〈「気をつけなよ、馬鹿!」〉と叫んでぷりぷり行ってしまう。このシーンは、望まれて生まれたわけではなかったアランと、今まさに母親によって殺されようとしていた(誕生を望まれていない)胎児の一瞬の邂逅で、もしかしたらこの若い母親は時空を超えてアランの前に現れた彼の母親なのではないかとまで思う。アランは物語の冒頭で、女のヘソについての考えを巡らせているのだが、これもやはり、彼が自身の出生に並々ならぬこだわりを持っていることの表現である。彼はことあるごとに「あんたを生んだおかげで私の自由が奪われた」と呪詛の言葉を吐く母親の幻覚を見る。幻覚の中で母親は、人権という言葉を使用して自由主義の中にある不自由について呪詛を吐く。アランはそれを詫び屋として全て受け入れ物語はラストに向かう。アランは友人と公園を散歩しながら例のヘソについての考察の結論を言う。曰く〈かつて愛とは個人的なもの、模倣できないものの祝祭、唯一無二のもの、どんな反復も認めないものの栄光だった。ところが、ヘソはただ反復に反抗しないだけでなく、逆に反復への呼びかけなのだ!〉と。これは、直前のやりとりで出てきた〈個性とは幻想にすぎないことを見るのをさえぎっていたシャッターが、誰かの手によって持ちあげられたようじゃないか!〉と言うセリフとも重なる。つまり、どんな個性も幻想であり、唯一無二のものや模倣できないものの中にも無意味は存在する。その上で友人は〈無意味とは叡智の鍵、上機嫌さの鍵なんだから〉と語る。この〈上機嫌〉というワードも本作を読み解く上で重要なキーワードで、スターリンのヤマウズラの話から派生した〈ポスト・ジョークの時代〉という言葉とともに、そこここに発見される〈無意味〉を愛することが上機嫌の鍵だと言っているんですね。アランの母親は無意味を愛せずに、自分と唯一無二の存在を誇示してしまった。アランは詫びることで、そしてヘソについての考察を深めることで、彼女の中の無意味に気がついたということでしょうね。まさか性愛の方向としてのヘソみたいな話から、反復への呼びかけへとつながるだなんて思わなかったですね。面白い。

 全編を通して、短い章立てで登場人物の視点や時代などが入り乱れ、それぞれの視点がラストの公園に集結して「ラ・マルセイエーズ」の合唱が流れ出すラストシーンは、なんかできすぎで、めちゃめちゃ構成のうまさを感じましたね。最高。ダルドロの嘘がラモンに与えた感動も、これはナルシス的気質のあるダルドロが無意味に触れたからなんですよね。この物語は私の歪んだニヒリズムに一つの添削を加えてくれた。つまり「愛することが無意味」なのではなく「愛することの中にある無意味を愛すること」ですね。この視点が必要ですね。ヘソを見つめながら。

というわけで8月の課題図書はミラン・クンデラ『無意味の祝祭』でした。9月の課題図書は金原ひとみ『アンソーシャルディスタンス』です。読んでいきましょう。

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