【52冊目】カメレオンのための音楽 / トルーマン・カポーティ
出会いと別れの季節です。
本日17時-24時半です。
3月です。
暖かな風も吹き、季節の移ろいを感じますね。しかし世間ではまだ年度末ということですから。まだまだ季節の移ろいに想いを馳せるほどの余裕はないというか。しっかりやるべきことやって、来月の春に備えるべきというか。つまりは、当店月初のやるべきこと。ウィグタウン読書部ですね。
2月の課題図書はトルーマン・カポーティ『カメレオンのための音楽』。野坂昭如の翻訳という点も目を引く、なんとも不思議なタイトルの短編集なわけなんですがね。カポーティの無駄のない流麗な筆致で描かれた世界はどれも「フィクション」アンド「ノンフィクション」の境界線上を行くようで、そんなことを言うと「小説なんんてどれもこれもフィクション/ノンフィクションのあわいを描くものだらう」などと言う方もいらっしゃるかとは存じますがね。今作は実際に起きた殺人事件や、実在の人物、はたまたトルーマン・カポーティ(TC)その人自身も現れる物語群で、つまりは「実際の事件を元に再構築したフィクション」や「私小説的フィクション」と言うことができそうなんですが、そのシンプルな文体ゆえか、どんな不気味なシーンや不条理な出来事もすいすいと読めてしまう。すいすいと読んで、二、三歩行った先で「ちょ待てよ。いまなんつった」みたいな感じで同じ箇所を読み返すなんていうのもしばしばで、なんなれば、そうして二度見せずに通過してしまった仕掛けもあるのではないかと思う。奇妙なようでいて、平板な印象もある作品集でしたね。短編集ですから、面白かったり面白くなかったりするわけなんですが、何よりもまず『序』が面白かったですね。カポーティ本人が、自らの手法をドヤり散らし「私ってばこんなにすごいのよ。でもしっかり努力してるからなのよ」という「大変なの分かってよねムーヴ」がめちゃめちゃ書かれていて、笑っちゃいましたね。そんなことを言いながら今作を読み終え、収録の解説を読んでいると「今作は、めちゃくちゃ評価を受けた前作『冷血』を受けて、さらにそれを超える大作『叶えられた祈り』(未完)を執筆している途中に書かれた短編集である」とある。それを受けて例の序文を思い返すと、カポーティめっちゃ必死じゃん、次回作の風呂敷広げまくっちゃってんじゃん、と思わずにいられませんね。可愛いですね。〈神が才能を授け給うにしろ、必ず鞭を伴う。いや、鞭こそ才能のうちなのだ。自らを鞭打つ〉とは印象的なフレーズですが、カポーティの必死さと努力と「分かってよねアピール」が伝わってきますね。例によってここからは【ネタバレ注意!】となります。読んでみましょう。
さて。
そんな短中編が十数編連なる本書であるが、その中には当然好きな作品もあればいまいちピンとこない作品もある。個人的に好きだったのは『窓辺のランプ』や『見知らぬ人へ、こんにちは』といった短編で、この中では明らかに正常ではない人物が突如として現出する。現出するといっても、何もないところから突然現れるという意味ではなく「目の前にいる見知った人物が、急に得体の知れない狂気を孕んだ人物に変貌する」という意味で、それらの転換は文章にしてわずか数行の間に起こる。気のいいおばちゃんだと思っていたのが冷凍庫の中は猫の死骸でいっぱいになっていたり、古い友人が露出狂だったりする。ラストに向けての加速感はなく、それらはすべて、描かれていた日常に寄り添う形で提示される。こうした、人物像の唐突な転換は「ノンフィクション・ノヴェル」と作者自らが語る中編『手彫りの柩』でも起こっており、凶悪犯罪の犯人を追うサスペンス的な物語の中にあってなお、犯人のサイコパスっぷりを際立たせる効果を得ている。「よく知った人物が、実は全然知らない一面を持っている人物だった」という展開は、いわば「よく知った人物(ノンフィクション)」が「全然知らない人物(フィクション)」に転換することであり、こうした転換は現実でもいくらでも起こり得る。過去にウィグタウン読書部で取り上げたニック・ドルナソ『サブリナ』では「インターネットが介在することにより目の前の人物が分からなくなる恐怖」というのが描かれておりましたが、このように、現実でも起こり得る出来事が、彼の「私小説的フィクション」の手法ではよりくっきりと浮かび上がっているように感じましたね。
「TC」という作者の分身が登場する会話劇群では、一読すると「TC」という固有の人物がいるようにも感じるが、私小説的な一方向への視点のみでは知り得ない事実の開示や、複数の人物の総称としての「TC」ではないかと思える箇所などもあり、これもまた「フィクション/ノンフィクション」の境界を曖昧にさせる。『秘密の花園』では、その同性愛的なものを匂わせる内容から、最後の決めフレーズ〈頼むから、あんた、堪忍してよ〉を発した人物が誰だかはっきりとしない。「TC」と書いてあるので「TC」なんだろうけど、どこか女性的な印象も受ける。今作の作品紹介では、これらの会話劇群を〈会話によるポートレート集〉と紹介しているが、単純なポートレート集というかはやはり、なんらかの幻惑を孕んでいるような気がしてならない。今作の最後を飾る短編『夜の曲り角、あるいはいかにしてシャム双生児はセックスをするか』でその幻惑は顕著で、この短編では二人の「TC」が交互に喋り、しかもそのうちの片方は〈自分のことをインタビューするとかいう自己面接記事〉に取り組んでいる。これらの会話劇群が〈ポートレート集〉であるのならば、さながら最後のこちらは〈セルフポートレート〉となろうが、単純な自問自答の形式を取らずに「双頭の人物による会話」と「自己面接」というやや悪趣味な手段を取っているのが、大変気持ちが悪い。そして、この会話と自己面接もまた「よく知った人物が、実は全然知らない一面を持っている人物だった」というテーマを持っており、その「私小説的フィクション」の手法によって浮かび上がるのは「自分」という「この世で最もよく知っている人物(ノンフィクション)」が「全然知らない人物(フィクション)」に転換する構図である。こう考えると「TC」という記号的な呼称もまた、特徴的な「曖昧さ」を際立たせるのに役立っている。これらの作品群が「ノンフィクション」の役割を与えられているのは、あくまでその中に潜んでいる「フィクション」の要素を浮かび上がらせるためだし、すべての「ノンフィクション」の中に「フィクション」は潜んでいる。そしてそれは、圧倒的なノンフィクションであるべき「自分自身」とて例外ではない。我々は、自分自身のことなんて、なに一つ知らない。ほんの少し、文章にしてたった数行後の未来で、我々は自分自身も知らない「フィクション」と対峙しなくてはならないのかもしれない。そう思わせる作品群でしたね。
というわけで、2月の課題図書はトルーマン・カポーティ『カメレオンのための音楽』でした。3月は岡田利規『三月の5日間』です。読んでいきましょう。