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【56冊目】ハイ・フィデリティ / ニック・ホーンビィ

8月です。
本日17時-24時半です。

今日なんていうのは当店の入っているビルの水道メンテナンスがあるっていうんでね。朝9時から11時半くらいまでやるっていうので、ならばどうぞ、など思っていたのだが、どうやらその時間はお店にいなくては行けないらしい。少しくめんどくさいな、など思いながらも仕方ない。早起きして颯爽と出勤。水道メンテナンスに立ち会って、買い出しして、お昼ご飯食べて、仕込みもしたら、なんだかもうすっかり一仕事終えた気分ですね。しかも今日は8月1日ですから。つまりは月初。そう。ウィグタウン読書部の日ですね。

というわけで、7月の課題図書はニック・ホーンビィ『ハイ・フィデリティ』。一言で言えばロンドンの外れで中古レコードショップを経営しているサブカル中年の物語なんですがね。私なんていうのは元ライブハウス店員なわけですから。本作の主人公たるロブ(35歳)のことを、まるで自分のことを見るかのように読むことができた。若い頃からサブカルにどっぷり浸かり、そいつに青春を捧げてきたという意識がある人間がもれなく持つ精神のこじれ。オタク仲間であり自身の経営するレコ屋の店員でもあるバリーとディックと共に悪態をつきながら「オタク特有の早口」ってやつを捲し立てる様には苦笑してしまうし、弁護士になって出世した恋人ローラとの環境の違いに一方的なコンプレックスを感じた結果別れてしまう様には歯痒さを感じてしまう。ひょこひょこと別の女とベッドを共にしてみたり、両親から結婚について小言を言われたりと、好き勝手生きているモラトリアム中年あるあるの普遍的な出来事が描かれるわけなんですがね。ミュージシャンや楽曲の固有名詞をバシバシ出しながら、90年代イギリスのシニカルな描写もありありで、なんというか『ブックセラーズ・ダイアリー』っぽさもありますよね。古書店と中古レコードショップですから、扱ってるアイテムこそ異なれどアティチュードは非常に近いものを感じます。イギリスの中古ショップにはこんな店主しかいないのか、って気持ちになりますね。とてもこじれてシニカルで、毒気のあるユーモアで大衆的なものを批判する。キッズ時代の情熱そのまま、大人になりきれずにモラトリアムを過ごすなんていうのは、趣味=仕事にした中年の宿命ともいえる。大きなサクセスを果たさずに30代後半を迎えてしまったサブカル中年は果たしてどこへ向かうのか。なぜこんなサブカル中年が生まれてしまうのか。サブカル中年が陥る心理にスポットを当てながら読んでいきましょう。例によってここからは【ネタバレ注意!】となるのでご留意くださいませ。

 さて。本作は主人公であるロブが「今までに付き合った女の子との別れトップ5」を発表するところから幕をあける。この「トップ5」はこの後も至る所に登場して、いわゆる「無人島に持っていくレコード5選」というアレなんですが、今作の登場人物は至る所で「人生のベスト5」のことをトピックにあげる。こうした行為は全て「過去」を振り返る行為であり、サブカル中年にとって未来のことはなに一つ想像できないけれど、過去のことならばいくらでもあげつらうことができるという性質を表している。実際にロブ自身も〈起きてしまったことは、よく理解できる。過去はぼくの得意科目だ。しかし現在となると、さっぱりわからない〉と独白している。この心情というのも私には痛いほど理解できて、というのも、サブカルクソ野郎というのは基本的に批評が大好きである。過去の作品を総ざらいして、そこに埋没している価値観に新たな視点を加えることに快楽を覚えると言って良い。その批評家精神は自分自身にも向き、過去のトチった場面を延々とリフレインしては「あの時ああすればよかった」「あそこでああいう反論ができればよかったのに」などと悔しがっているわけなのだけれども、この批評家マインドの根本にあるのは、端的に言って他者に対する劣等感である。過去に対する批評は得意でも、現在から未来に対して建設的な道を築くことができない我々は、常に生産的な道をゆく方々に対して一方的な劣等感を抱いている。王道で勝てないことが分かっているからこそ新しい視点を武器に物事の価値を転倒させようとしているのであって、そうして築いた自身の価値体系に沿って行動するがあまり王道を批判するというのはクソサブカルにとっての存在証明に他ならない。今作でもその性質はふんだんに描かれていて、彼らは自身の存在を守るためなら他者の尊厳を踏み躙ることさえ厭わないクソ野郎である。元恋人ローラの父の葬儀に参加した際、ぐだぐだ言っているロブに対してローラは〈ケンはあなたのために死んだんじゃないのよ。あなたって、みんなを自分の伝記映画の脇役みたいに扱うのね〉と言うのだが、それに対してロブは〈そんなの、あたりまえだ。みんな自分が主役だと思って生きてるんじゃないのか?〉と言って憚らない。また別のシーンでレコ屋の店員であるバリーは仲間のディックにいい感じの女のコが出来たことに苛立ちブチ切れる。そのシーンをロブはこのように述懐する。〈彼はこれからの人生を思って怯えている。なにより、さびしい。この世でいちばんひねくれているのは、さびしい人間だ〉と。周囲がどんどんと人生の次のステージへ上がっていく中、王道に対するカウンターとしての宿命を負ってしまったサブカルにとっては次のステージがどこかさえも自分で決めなくてはいけない。どこかで正道から逸れてしまった自分の人生に意味を与えるためには、自身のやり方で人生を次のステージへと引き上げなくてはならないわけだ。ラッパーの空也MCは『27歳のリアル〜REMIX〜』でこう歌う。〈本来この年で持ってるはずの安定や幸せ、結婚や子供だとかね、その他もろもろ、いわゆる当たり前が無いのは当たり前、積み上げて無いんだから当然〉〈情けねー程の馬鹿さ、拭えてない甘さ、他人の粗探しだけやたら上手いアラサー〉〈結果が欲しい、綺麗事は無しで、家族に一人前と認めさせるくらいの〉と。自分が王道の人生を積み上げてこなかったことを自覚し、それでも自分なりに積み上げてきたサブカルとしての道を否定しないためには、その道で結果を出すしかない。その焦りが、周囲の人間の〈安定や幸せ、結婚や子供だとか〉に過剰反応してしまう理由であり、よりサブカルをこじらせる要因である。作中ではその焦りをこんな風に表す場面がある。〈ブルース・スプリングスティーンの歌の世界では、とどまって腐っていくか、逃げ出して燃えつきるかしかない。(中略)けれど、逃げ出した上で腐っていく可能性のことは誰も歌にしてくれない。(中略)それがまさに僕の姿だ〉。王道から逸れ、かといって「サブカルで食う」ための覚悟も決まらない。いつか誰かが自分のことを認めてくれるはずと夢想し続けながら生きる〈これからの人生〉に怯えながら腐っていく。カウンターカルチャーとしてのサブカルは、初速だけでなんとかなるものではない。周囲が充実していくたびにボコボコになりながらも、その度に奮起してガソリンを放り込み続けなければ、とてもじゃないが走り続けられるものではないのだ。

 ロブにとって自分の人生を次のステージに上げるための通過儀礼が「今まで付き合った女の子に連絡を取ってみる」ということだった。「過去が得意科目」である彼が、未来を見るための方法を過去から学ぼうとする行為がこれなわけなんですが、この辺の行動も非常に自分本位なサブカルクソ野郎らしくてとても良い。この行動で、彼は自分を取り巻くクソッタレな状況に蹴りをつけたいと思っている。しかしうまくいかず、その試みの破綻が明示されるのが、ロブ36歳の誕生日である。ロブはたいして親しくもない友人に連絡をとり、たいして面白くもない酒を飲むという自罰的とも思える誕生日を過ごす。この時点で彼は完全に「終わっていた」と言ってよい。未来を見ることを諦めて、このクソッタレな日常を死ぬまで続けていくという事実に対して腹を括ったという言い方ができる。自暴自棄になった彼の心境を変えたのは、その直後に起こったローラの父の死だ。これによって彼は、人生の行き着くところがつまりは死であり、その終着点をいやがおうでも意識せざるを得なくなった。それは元カノのローラも同じで、二人は元さやに収まることになる。ロブはローラの父の死と、その後のローラとの関係を考えていく上で、自身のモラトリアムを終えなくてはいけないという意識を強く抱いていく。彼は結婚をめぐるローラとの車中の会話を、こんな風に述懐している。〈でも、ぼくはその、いわば、可能性を可能性のままにしておきたい。しかし、のんびりしている時間はない〉。なりたい自分になりたいと思い続けている人というのは、とどのつまり、思い続けている状態を楽しんでいる人のことだ。なりたい自分を夢想することは簡単だけれど、実際のハードルを超えるための準備に取り掛かることはせず、気付けば時間にがんじがらめにされている。ローラとの縁が戻り、レコードショップでのミニライブの準備も着々と進む中、ロブは思う。〈ぼくらはみんな皮相的なものを捨て、本質的なものをたよりに生きていくべきなのだと思っていた。しかし、今ぼくが感じているのは皮相的なものばかりだ〉。これは、モラトリアムを終わらせることに対するもの悲しさを表している。ロブはまだ本質的なものを信奉したい。しかし、彼が「皮相的」と呼ぶ人間関係の間にだって当然本質的なものはあるはずなのだ。物語のラスト、ローラとの最初の出会いのきっかけとなったDJパーティ再開へ向けて動き出すロブは、明らかにモラトリアムの終焉を皮相的なものとは感じていないだろう。私なんていうのはいまだにサブカルクソ野郎のマインドを捨てきれないものですから。パーティを成功させてその他の登場人物と仲良く大団円を迎えるロブに、幸せな未来が訪れないことを願っている。成功は刹那的なものですぐに破綻し、得たと思った人生のヒントも、哲学や感傷も全て嘘っぱちで、全てがゆるく腐っていくことを願っている。それが、モラトリアムを生き続ける人間にできる唯一のことですから。ゆらゆら帝国の曲『パーティはやらない』にはこんな歌詞がある。〈楽しい時にも忘れちゃいないさ/終わりが来ることも戻れないことも/こんな日がいつまでも続くならいいけれど〉。スチャダラパーは〈とにかくパーティを続けよう、これからもずっとずっとその先も〉と歌った。パーティを始めるのは簡単だ。問題はいつだって終わらせ方なのだ。「Show Must Go On」というやつで始めたものを終わらせることは難しいし、なぜ難しいってそれは過去の自分を裏切ることが難しいからである。しかし、過去の自分を裏切れないあまりに未来の自分を犠牲にするなんてことがあっていいのか。サブカルを生きた私たちはいつでも過去の自分を人質に取られているようなものだ。ラッパーのR指定は10代の自分に向けて歌う。〈そんな血走った目で俺を睨むないつかの15才/その息苦しい世界はいまここと地続き/その個性はやがて武器に変わる/その武器はいずれ重荷になる/自分の影に縛り付ける/振る舞え、らしく、らしく、らしく〉〈お前が欲したいくつかを手に入れて/お前が嫌ったいくつかを身につけて/お前が願ったいくつかを諦めて/お前と誓ったいくつかを忘れてる〉。過去の自分を裏切ることなく、どう未来を見ていくべきか。それについて考えさせられる作品でしたね。

そもそもタイトルの「フィデリティ」とは「再現度/忠実度」を指す単語なわけだけれど、作品の内容的にもこれはいわゆる「ハイファイ/Hi-Fi」というやつでつまりは音楽用語。録音状態の良い音源のことなどを指す単語なわけなんですがね。私なんていうのは元ライブハウス店員なわけですから。インディーズのバンドなんていうのは、いわゆるローファイ、ガレージ、宅録などのベッドルーム・ミュージックなんていうのが多く、またその録音環境の悪さゆえのノイズやスカスカした音、気怠いムードなどが、オルタナティブな姿勢によく合っていた。翻ってハイファイなんていうのはいわゆる「四大卒のコミュニティの中で生まれた音楽」っていうやつで、これはテン年代中頃に東京のライブハウスシーンを席巻していたイベント「スカムパーク」の中心的人物であったディスコパンクバンド「Have a nice day!(ハバナイ)」のフロントマンである浅見北斗さんのインタビューで飛び出したパンチラインなのだけれど、つまり最近はこの辺のレベルミュージックさえもなんかハイファイになっちゃって、なんというか「うまくやる」ことが人生の最適解って感じを受けますよね。うまくやっていきたいですね。ほんと。なんか最後はただのサブカル批判になっちゃいましたが。それこそがサブカルらしさですかね。

というわけで7月の課題図書はニック・ホーンビィ『ハイ・フィデリティ』でした。8月は木地雅映子『氷の海のガレオン』です。読んでいきましょう。

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