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芦田愛菜はクラインの理論を読んでいたという深読みおじさんを発動したnote 〜期待と破壊は紙一重〜

こんにちは。taka3です。
今は一応大学院で子どもの心の発達をテーマにしながら、来年からデザイナーとして就職する予定になっています。

趣旨としては、精神分析で有名なクラインの対象関係論を参照して、期待と破壊は紙一重だよね過度に期待するのって虚しいよねっていう思想をまとめたnoteになります。

予防線マシマシおじさんでもあるので最初に断っておくと、

  • 多分おかしなこともあると思いますが、そんなときは「なんか言ってるなー」くらいのテンションで読んでください✨

  • 期待について終始ネガティブな主張をしますが、これは他人に期待しすぎてしまう私への戒めの意味が強くて、「期待は悪だ」と主張したい訳ではないです。

「信じる」について 芦田愛菜さんの神意見

まず、芦田愛菜さんとは対照的に、ブスで頭の悪いtaka3のクソどうでもいい話です。

私が期待の破壊性を感じたのは中2の頃です。

中学の時に所属していた部活が全国大会にも出るような強豪校で、顧問がかなり厳しい人でした。しょっちゅう怒鳴られ、まあぶっちゃけ体罰もありました。そんな環境にいて、怒られるのが嫌すぎて、なんでこんなにキレるんだろうとよく考えるようになります。その結果、顧問の期待と私たちの行動とのギャップが大きくて、そこの差分を埋めようとして怒るんだなという結論に至って妙に納得します。(中学生の自分おい)

そんな思想を持っていた私に以下の芦田愛菜さんの言葉を聞いたときは、激しく同意しすぎて禿げました()

「この作品を見て私が一番強く感じたことは、信じるって何だろうということでした。その人のことを信じようという言葉をよく使うと思うのですが、それってどういう意味なんだろうと考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、自分の思う理想像を期待してしまっているのではないかと感じました。だから、『期待していたのに』とか『裏切られた』というような言葉が出てきてしまう。でも、普段見えなかった側面が見えただけで、裏切られたわけではないのかなと思います。知らなかった側面が見えたときに、それもその人なんだって受け止めて決断できる揺るがない自分がいる。それが信じるっていうことなんだと思いました」

芦田愛菜さん

要は、勝手に理想像を作っていて、普段見えなかった側面をみると「裏切られた」って言葉が出てしまう。知らない側面もその人なんだと受け止めることではじめて信じることになるってことですかね。

ちなみに、世代的には「ちゃん」呼びしたいのですが、こんな発言されたら「さん」をつけざるをえないし、なんなら「さま」「どの」「御中」「皇后」をつけるべきだと思います(?)。

そして、大学で心理学をかじっていた私からすると、メラニー・クライン( Melanie Klein)を知っているだろこいつってなった訳です。

そんなことでクラインの提唱した対象関係論をざっと紹介します。

クラインの理論をざっくり

以下の2冊を参照しています。
松木邦裕『対象関係論を学ぶ クライン派精神分析入門』(岩崎学術出版社, 1996)
大倉得史『育てる者への発達心理学 関係発達論入門』(ナカニシヤ出版, 2011)

どんな人物かとかはwikiを読んでください

幼児期の内的世界が部分対象→全体対象へと移行する、妄想分裂ポジション抑うつポジションへと移行するという理論が概要です。

妄想分裂ポジション

産まれてすぐの赤ん坊の内的世界は混沌として、
その中で漠然と快を与える「良い部分」と不快を与える「悪い部分」があり、
「良い部分」を守るために「悪い部分」と切り分けられています

母親(対象)においては
「良い部分」:母乳をくれる、自分を助けてくれる
「悪い部分」:母乳をくれない、自分を放置する

自分(自己)においては
「良い部分」:ある種の全能感、満たされている
「悪い部分」:自分を守ってくれない母を恨む、攻撃的な気持ち

そして、部分部分がバラバラで混沌としていると、
「良い部分」を積極的に取り入れ、
「悪い部分」は自分で持っているのがしんどいので、投影する機構が働きます。

投影とは
「私は」あいつが嫌い
 →(こう思っている自分よくないなあ)
  →「相手が」自分を嫌いだということにしよう
という、自分は悪くないということで安心を得ようとする防衛機制

投影が働くことで、内的世界が何とか「良い部分」で満たされて安心するが、「悪い部分」の破壊性や攻撃性が増して、「良い部分」が解体してしまいそうな不安が生じてきます。こうした妄想性の迫害不安に陥る時期を妄想分裂ポジションと言います。

抑うつポジション

断片的に存在していたものが、だんだん相互に結びついてまとまりある対象として明らかになっていき、「良い」「悪い」で分かれていると思っていた母親や自分自身が実は同一であると気づきます。

「良い部分」として認識していたものが、自分を解体してしまうような憎むべき「悪い部分」 を持ち合わせている、つまり、「悪い部分」と思っていたら、実は「良い部分」も持っていると気づくということです。傷つき、死にかかるほどにまで傷つけてしまったことに後悔や罪悪感、寂しさ、悲哀といった抑うつ的な心の痛みを感じ、抑うつ状態に至ります。

こうして一人の母親に良い部分と悪い部分との混在を認識し 、良い部分に対する愛情と悪い部分に対する 憎しみを両方持つことが可能になります。これは妄想分裂ポジションでは愛または憎しみのどちらかしか持ちえなかったけれど、抑うつポジションにおいては一人の人物に愛と憎しみのアンビバレンス(両価的感情)を体験できるようになることを意味します。こうした力は相手の中にある長所も短所も受け止め、自分の中のアンビバレンスを抱えながら他人と関係を結べる力へとつながります。

ここまで読み疲れたあなたのために唐突の芦田愛菜。
容姿端麗、秀才ということで非の打ち所がないですね。
さて、読者をてなずけたところで、続きに行きます。

過度な期待は妄想分裂ポジションに近い

過度な期待は、「自分の思い通りになると勝手に思い込むこと」とでも表現しておきましょうか。

あと、ここまで聞いてなんのこっちゃっていう方や芦田愛菜を拝んで全記憶が飛んだ方のために、下の図を思考の整理に使ってください。

岡田尊司『パーソナリティ障害 ―いかに接し、どう克服するか』(PHP研究所, 2004)

すごーく簡単に要約すると

妄想分裂ポジション
こいつはめっちゃいい奴、マジで期待できると思い込み、「良い部分」ばかりを取り込み、その人の欠点から目をそらしてしまい、ただ、「悪い部分」が見えてくるとそれを受け入れられないので、攻撃的になる

抑うつポジション
断片的だと思っていたものが、実は同一のものであり、「悪い部分」と思っていたら、実は「良い部分」も持っていると気づき、後悔や罪悪感で抑うつ的な心の痛みを感じた状態。愛 / 憎、長所 / 短所の両方を受け止め、他人と関係を結べる力へとつながる

って感じです。赤ちゃんを想定した概念ですが、これは青年期や大人にも応用できます。

例えば、干渉的な親は、子供が自分の思い通りだと褒めるが、思い通りにいかないと厳しく叱ったり何かに縛り付けたりときには暴力をふるったりして自分の都合に合わせようと躍起になります。

メンヘラな方(伝わりやすいのでこの表現をしている)は、自分の欲望を満たしてくれるときは理想の人として束縛したり依存したりしますが、自分の欲望を満たしてくれないと人が変わったかのように情緒不安定になり攻撃的になります。

確かに、こうした期待をバネに成長を遂げるケースもあるので(メンヘラはあんまりなさそうだけど)、決して悪いことではないでしょう。

一方で、こういう人たちは、他人が自分の欲望を満たそうと生きている訳でないのに、他人の都合は二の次にして、自分の都合を押し付けているという、攻撃的な行動を気づかぬうちにしてしまっています。その結果、例えば、干渉的な親のせいで子供が非行に走ったり、メンヘラ相手は嫌気がさして鬱っぽくなったりします。

要約すると、期待をすればするほど「いい像」と同時に「悪い像」を増幅してしまい、(妄想なのに)その悪い像を認めたくないので、攻撃的になってしまうということです。期待は破壊的な力を持っているので取扱注意、ということが私の言いたいことです。

いい部分だけではなく、悪い部分も心の底から認めてあげることで、全体像を理解できるようになり、健康的な関係維持につながります。長所は認めつつ、短所も知っておき、その人の主体性を尊重してあげることが、ひいては良好な関係構築につながるんじゃないんでしょうか。

私たちが見ている他者は所詮虚像を見ているにすぎない

ここで、冒頭の芦田愛菜さんのスピーチをもう一度確かてみましょう。

「その人のことを信じようという言葉をよく使うと思うのですが、それってどういう意味なんだろうと考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、自分の思う理想像を期待してしまっているのではないかと感じました。

「良い部分」ばかりを取り入れ満たそうとしているねー

だから、『期待していたのに』とか『裏切られた』というような言葉が出てきてしまう。でも、普段見えなかった側面が見えただけで、

「悪い部分」が見えてきたねー

裏切られたわけではないのかなと思います。知らなかった側面が見えたときに、それもその人なんだって受け止めて決断できる揺るがない自分がいる。それが信じるっていうことなんだと思いました」

「良い部分」と「悪い部分」が統合されて、抑うつポジションに入ってますねー そして、妄想分裂ポジションの奴を暗にくそdisってるやん()

こっちの都合で勝手に期待像を作って、それが間違いだったら期待はずれって言って勝手に失望するだけ。期待する側のエゴでしかなくて、その人はそんなに悪くないってことですね。

相手のことを100%理解するのは不可能で、こちらの主観とか色眼鏡込みで人を見てしまう。つまり、多少いい人だったり悪い人だったりというイメージというか偏見を持ってその人を見る

これって、虚像をみているにすぎないんじゃないかなあ

って思っちゃった訳です(悲観的〜)

私は、結構他人に期待しちゃうタイプで、勝手に裏切られたと落ち込んだり、他人を悪者扱いしたりしてしまう醜い人間です。ってことで、戒めの意味を込めて、「他者は所詮自分が勝手に作り出した虚構にすぎない」という、なかなか悲観的な信念を持つことにしました。

ユングのいう影(シャドー)の文脈で言うと、「悪い部分」と向き合い受け入れることで心豊かな人間になれるし、人間関係も良好になっている気がします。

*参考文献
松木邦裕『対象関係論を学ぶ クライン派精神分析入門』(岩崎学術出版社, 1996)
大倉得史『育てる者への発達心理学 関係発達論入門』(ナカニシヤ出版, 2011)
岡田尊司『パーソナリティ障害 ―いかに接し、どう克服するか』(PHP研究所, 2004)

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