【正信偈を学ぶ】第34回_成等覚証大涅槃_現生の利益③人生の目的地が定まる
【正信偈を学ぶ】シリーズでは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が書いた「正信念仏偈」の内容について解説しています。 日々を安らかに、人生を心豊かに感じられるような仏縁となれば幸いです。
さてこの数回、「正信偈」の「本願名号正定業」から「必至滅度願成就」までの四句を見ています。前回、前々回は、その中の「成等覚証大涅槃」という句の「成等覚」という言葉から、現生の利益についてお話していました。
現生の利益とは、現生(この世)を生きる上での利益のことです。お念仏の教えに遇っていく中に、このような利益がありますよというのが、現生の利益ですね。具体的には、親鸞聖人が現生十益という、十種類の利益を示されています。
前回までに、現生十益の一つ目から七つ目までを見ていきました。今回は、現生十益の八つ目から見ていきましょう。テーマは、「人生の目的地が定まる」です。
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◆現生十益の要
さて、現生十益の八つ目から十こ目までの概要を、まずお話します。その後に、その意味を詳しくお話させていただきます。
現生十益の八つ目は、「知恩報徳の益」(ちおんほうとくのやく)です。「知恩報徳の益」とは、「阿弥陀仏の恩を知り、その恩に報謝すること」です。浄土真宗でご本尊とされる阿弥陀仏という仏様のの恩を知らされて、その恩に報謝する生活がめぐまれるということです。
現生十益の九つ目は、「常行大悲の益」(じょうぎょうだいひのやく)です。「常行大悲の益」とは、「阿弥陀仏の大いなる慈悲を常に広めること」です。阿弥陀仏に慈悲をかけられていることを喜び、その慈悲の心を伝える徳がめぐまれるということです。
現生十益の十こ目は、「入正定聚の益」(にゅうしょうじょうじゅのやく)です。「入正定聚の益」とは、「安らかな仏のさとりをひらくことが、正しく定まった仲間に入る」ということです。正しくと書いて、ここではまさしくと読みます。
この十こ目の「入正定聚の益」が、現生十益の要だと言われます。現生十益には、お念仏の教えに出遇ったことによる現生の利益、この世を生きる上での利益が様々示されていますが、その要は「入正定聚の益」です。
現生十益の一つ目から九つ目までの内容は、十こ目の「入正定聚の益」にまとめることができるということです。逆に言うと、「入正定聚の益」を開いて見ていくと、一つ目から九つ目までの内容ということになります。
とにかく、お念仏の教えに出遇ったこの世での利益として、現生十益という十種類の利益が示され、その要は「入正定聚の益」「安らかな仏のさとりをひらくことが、正しく定まった仲間に入る」ということです。
ちなみに、「正信偈」には「成等覚証大涅槃」という言葉がありますが、その「成等覚」と現生十益の「入正定聚」とは、同じことを表した言葉になります。
「成等覚」とは、「安らかな仏のさとりに等しい位に成る」ことです。そして、「入正定聚」とは、「安らかな仏のさとりをひらくことが、正しく定まった仲間に入る」ことでした。
言葉の表面上の意味は少し違いますが、「入正定聚」と「成等覚」とは同じことを表した言葉です。この「入正定聚」「成等覚」が、浄土真宗における現生の利益の要だということです。
では、「成等覚」(安らかな仏のさとりに等しい位に成ること)や、「入正定聚」(安らかな仏のさとりをひらくことが、正しく定まった仲間に入ること)とは、どういうことなのでしょうか。これらが現生の利益の要と言われるほど重要で、ありがたいことなのでしょうか。もう少し詳しく見ていきましょう。
◆人生の目的地が定まる
繰り返しますが、現生十益の十こ目は、「入正定聚の益」(にゅうしょうじょうじゅのやく)です。「入正定聚の益」とは、「安らかな仏のさとりをひらくことが、正しく定まった仲間に入る」ことでした。それを「正信偈」では、「成等覚」という言葉で示され、「安らかな仏のさとりに等しい位に成る」ことでした。
では、これらの「入正定聚」や「成等覚」とは、どういうことなのでしょうか。これらをもう少し分かりやすい言葉で表現すると、こういうことが言えます。
「入正定聚」「成等覚」とは、「人生の目的地が定まる」ということであり、「生きる方向性が定まる」ということです。
「人生の目的地が定まる」とは、「人生をどこに向かって歩んだら良いかがはっきりしてくる」ということです。そして、「生きる方向性が定まる」とは、「人生の目的地に至るためにどう生きれば良いのか、どの道を行けば良いのかが明らかになる」ということです。
私たちは、この人生をどこに向かって歩み、どう生きれば良いのでしょうか。それを示されているのが、仏教であり、お念仏の教え、浄土真宗の教えでもあります。
お念仏の教えに出遇って、この人生をどこに向かって歩み、どう生きれば良いのかが明らかになってくる。そうした「人生の目的地が定まる」ことや、「生きる方向性が定まる」ことが、「入正定聚」「成等覚」という言葉で示されています。そして、それらが現生の利益の要、この世を生きる上での利益の要だと言われます。
ではなぜ、「人生の目的地が定まる」ことや、「生きる方向性が定まる」ことが、現生の利益の要と言われるほど、重要なこととされているのでしょうか。
人生の目的地が定まっていないということは、例えばゴールが分からないままマラソンを走っているようなものです。人生の方向性が定まっていないということは、ゴールまでの道が正しいかどうか分からないままマラソンを走っているようなものです。
どこがゴールか分からないまま、道順が分からないまま、マラソンを走る人はいませんね。それほど実は、私たちの人生において、「人生の目的地が定まる」ことや、「生きる方向性が定まる」ことは重要なことだと言えるのではないでしょうか。
マラソンを走る方は、ゴールの場所とゴールまでの道順を覚え、どのくらいのペースで走ればゴールができそうか。事前に考えて、練習して本番に臨むことでしょう。マラソンは、自分で走ろうと思って走ります。ですから、事前に準備もできますし、ゴールの場所や道順を把握して、マラソンに臨めます。
しかし、私たちのこの人生は、自分で始めようと思って始めたものではありませんね。さあ人生を始めよう、人間に生まれようと思って、自分の意思で生まれてきたという人はいません。
自分で始めようと思って始めたわけではない人生を、私たちは生きています。ですから、人生の目的地や方向性が分かりづらいのですね。
ゴールが設定されたマラソンに、自分の意思でエントリーし、練習して臨んでいるならば、目的地が分からなくなることもないですし、道に迷うこともないでしょう。
しかしこの人生は、自分の意思で始めたわけでもなく、事前に準備して始めたものでもありません。自分の意思とは違うところでこの人生は始まり、気が付いたら人生がスタートしていたわけです。
ですから、私たちは人生の目的地が定まっていなくても、ある意味当然ですし、道に迷うことだってあるのですね。この人生は自分の意思で始めたわけでもなく、事前に準備して始めたものでもない。だから分からないんです。難しいんです。
その人生の目的地や方向性を示したものが、仏教であり、お念仏の教え、浄土真宗の教えというものです。
お念仏の教えに出遇ったならば、「人生の目的地が定まり」、「生きる方向性が定まっていく」。そうした利益があることを、「入正定聚」「成等覚」という言葉で示されています。
そして、その「人生の目的地が定まる」ことや、「生きる方向性が定まる」ことが、私たちの人生においてはとても重要なことだということが、現生の利益の要であることで示されています。
◆人生に悩み迷う
日頃の生活で「人生の目的地」とか「生きる方向性」なんて、そうそう考えないかもしれません。
しかし、マラソンでいうならば、人生の目的地とはゴールであり、生きる方向性とはゴールまでの道順です。ゴールや道順のことを考えずに、マラソンを走る人はいません。実はそのくらい、「人生の目的地」や「生きる方向性」とは、人生において、日々の生活において重要なものなのですね。
そして、人生を短いスパンで見れば日々の生活ということになり、日々の生活を長いスパンで見れば人生ということになります。ですから、人生と日々の生活とは、切っても切り離せないものです。
私たちは日々の生活が良くありますように、日々を幸せに過ごせますようにと、心のどこかで願いながら生きているのではないでしょうか。
日々の生活がもっと悪くなりますように、不幸になりますようにと願う人はいませんね。たとえ口では不幸になりたいと言う人でも、心の奥底では幸せを願っています。
人生と日々の生活は切っても切り離せないものですから、日々の生活が良くありますように、日々を幸せに過ごせますようにと願うということは、人生が良くありますように、この人生が幸せでありますようにと願うことと同じなのですね。
日々の幸せの積み重ねが、幸せな人生となります。良き人生、幸せな人生とは何かというと、良き日々の積み重ね、幸せな日々の積み重ねと言い換えてもいいわけです。
私たちは、「人生の目的地」とか「生きる方向性」について、日頃からはそうそう考えないかもしれません。しかし、日々の生活が良くありますように、日々を幸せに過ごせますようにと願うということは、人生が良くありますように、この人生が幸せでありますようにと願うことでもあります。
それは実は、心の奥底では、「人生の目的地」や「生きる方向性」を求めていると言ってもいいのですね。
どうすれば、日々の生活が良くなるのか、幸せに過ごせるのかということは、「人生の目的地」や「生きる方向性」が定まることと、密接に関わっています。「人生の目的地」や「生きる方向性」が定まってくるからこそ、日々の生活も定まってくると言えます。
ですから、日々をどう過ごすのかということは、この人生をどこに向かって歩み、どう生きれば良いのかということと、別のことではないということになります。
つまり、日々の生活とは、「人生の目的地」や「生きる方向性」とつながっていると言えます。
私たちは、この人生をどこに向かって歩み、どう生きれば良いのかについて定まっていなかったり、考える機会がないからこそ、日々の過ごし方に困ったり、迷ったりもするのでしょうね。
仕事や趣味や、家庭生活や学業などで、やることがある時はまだいいのです。置かれた環境の中で、自分の役割が与えられていたり、見出せている時はまだいいのです。
しかし、それらができなくなったり、節目のタイミングで、私たちは悩み、迷います。入学、就職、結婚、出産、転勤、大切な方との別れ、病気、定年、離職など、私たちは人生の節目で、人生に悩み、迷うことがあります。
私は、大学に入った時に人生に迷いました。それまでは高校に行って勉強をする、大学受験をするといった目標や役割が与えられていました。
自分が本当にそれを望んでいたわけではなく、与えられた目標や役割ではありましたが、高校生として学校に行き、勉強をするという日々の過ごし方があったことによって、深く人生に悩み、迷うことが少なかったのかなと、今になれば思います。
しかし、大学は高校と違って自分でカリキュラムを選びます。卒業のために取る必要のある必修科目もありますが、選択科目といって、どういう授業を取るかを自分で選べます。
ですから、選択科目を選ぶ時に、自分はいったい何がしたいのだろう、何を学びたいのだろう、何のために大学に進学したのだろうと、そういうことを考え始めたのですね。
そしてまた、大学には行かなければならないというような強制力も、高校に比べると少ないですし、一人暮らしを始めると、親の監視もなくなります。ですから、自分からその日大学に行こうと思わないと、休みがちになります。
このように、私は大学に入った時に人生に迷い、日々の過ごし方にも困った経験があります。皆さんはいかがでしょうか。大学入学ということではなくても、人生の節目で、人生に悩み、迷うことがあったでしょうか。
ちなみに私の場合は、そこから紆余曲折があって、今とは全く違う業界の仕事をしている時、20代後半くらいでしたが、もう一度、生きる方向性について考えることがありました。そこで、自分の中に仏教の考え方、価値観が根を張っていることに気が付いて、仏教の道、仏道に進もうと決めました。そして今に至ります。
このように私たちは、人生の節目で、人生に悩み、迷ったり、日々の過ごし方にも困るということがあります。
この人生をどこに向かって歩み、どう生きれば良いのかということが定まっていなかったり、考える機会がないからこそ、私たちは人生に悩み、迷うことがあります。「人生の目的地」や「人生の方向性」が定まっていないからこそ、人生に悩み、迷うのですね。
◆仏様の願い
さて、「入正定聚」「成等覚」とは、「人生の目的地が定まる」ことであり、「生きる方向性が定まる」ことでした。
「人生の目的地が定まる」とは、「人生をどこに向かって歩んだら良いかがはっきりしてくる」ということです。そして、「生きる方向性が定まる」とは、「人生の目的地に至るためにどう生きれば良いのか、どの道を行けば良いのかが明らかになる」ということです。
この人生をどこに向かって歩み、どう生きれば良いのでしょうか。それを示しているのが、仏教であり、お念仏の教え、浄土真宗の教えでもあります。
お念仏の教えに出遇って、この人生をどこに向かって歩み、どう生きれば良いのかが明らかになってくる。そうした「人生の目的地が定まる」ことや、「生きる方向性が定まる」ことが、現生の利益の要、この世を生きる上での利益の要として示されています。
では、この「人生の目的地」や「生きる方向性」とは、具体的にはどのように示されているでしょうか。
「入正定聚」とは、「安らかな仏のさとりをひらくことが、正しく定まった仲間に入ること」でした。「成等覚」とは、「安らかな仏のさとりに等しい位に成ること」でした。
つまり、お念仏の教えで示される「人生の目的地」とは、「安らかな仏のさとりをひらくこと」であり、「生きる方向性」とは、その「仏のさとりをひらく仲間に入ること」や、「仏のさとりをひらく道を歩むこと」です。
つまり、安らかな仏のさとりを志し、それに向かって仲間と道を歩むということです。
浄土真宗では、安らかな仏のさとりに至る道のことを、お念仏の道と言っています。お念仏の道とは、大きな道であることから大道(だいどう)とも言われます。安らかな仏の国に至る道であることから、お浄土への道とも言われます。
そして、悩み苦しみがあろうとも、阿弥陀仏という仏様に救われていく道であることから、無礙(むげ)の道(救いを妨げられることのない道)とも言われます。
その道中には、同じ道を歩む仲間がいます。その仲間のことを同行(どうぎょう)と言います。日本全国、いや世界中に、そのお念仏の道を歩む同行、仲間がいます。
そしてその仲間とは、今を生きる人々だけでなく、過去に生きた方々もおられます。お浄土に往かれ、安らかな仏のさとりをひらかれた方が、そのお念仏の道へと導き、共に歩んでくださっています。
浄土真宗には、亡くなった方を仏様として、また再び出会っていく世界観があります。多くの先人が歩んできた道。多くの先人に導かれている道。それがお念仏の道でもあります。
そうした「安らかな仏さとりをひらくことが、正しく定まった仲間に入る」ことを、「入正定聚」といいます。その「入正定聚」が、現生の利益(この世を生きる上での利益)の要として、現生十益に示されています。
そして、「入正定聚」を別の言葉で言えば、「成等覚」でした。「正信偈」には「成等覚」という言葉が出てきますが、これは、浄土真宗の教えに出遇った利益を表した言葉なのですね。
そして、「入正定聚」「成等覚」とは、分かりやすい言葉でいえば、「人生の目的地が定まる」ということであり、「生きる方向性が定まる」ということでした。
その「人生の目的地」とは、「安らかな仏のさとりをひらくこと」であり、「生きる方向性」とは、その「仏のさとりをひらく仲間に入ること」や、「仏のさとりをひらく道を歩むこと」でした。
それは、この人生をいただいたことを喜び、生きていて良かったと思えるような心が開かれてくると言ってもいいでしょう。そして、人生を喜ぶ人たちと出会っていく。心と心が触れ合うようなそうした関係性が育まれていく。
お念仏の教えに出遇うということは、仏様の願いを聞くと同時に、そうした同行、仲間と出会い、共に道を歩んでいくということでもあるのですね。
その同行の一人が、先に往かれた大切な方でもあり、また浄土真宗の宗祖の親鸞聖人でもあります。「正信偈」は親鸞聖人が書かれました。私たちが「正信偈」を読み、となえているその瞬間に、親鸞聖人に会っているとも言えます。
自分の意思とは違うところでこの人生は始まりました。そして、欲や怒りといった感情に流され、捉われ、人生に悩み、迷っている。仏様の目から見ると、私たちの人生とはそのように見えるようです。
そうした悩み、迷いの人生から、安らかな道へと歩みを運ばせたい。そう願われているのが仏様であり、そうした教えが仏教であり、お念仏の教え、浄土真宗の教えだと言われます。
仏様の願い、お念仏の教えを聞いていくことで、「人生の目的地」や「生きる方向性」が定まってくることが、「入正定聚」「成等覚」という言葉で示され、現生の利益の要とされています。
そうした仏様の願いを知っていくと、知恩報徳の思い、常行大悲の思いというのもわいてきます。
◆仏様の願いを知り喜ぶ
現生十益の八つ目は、「知恩報徳の益」(ちおんほうとくのやく)です。「知恩報徳の益」とは、「阿弥陀仏の恩を知り、その恩に報謝すること」です。阿弥陀仏の恩を知らされて、その恩に報謝するような生活がめぐまれるということです。
「人生の目的地」「生きる方向性」を定めてくださった。そういう道を用意してくださった。そうした仏様の恩に感謝し報謝するということですね。
現生十益の九つ目は、「常行大悲の益」(じょうぎょうだいひのやく)です。「常行大悲の益」とは、「阿弥陀仏の大いなる慈悲を常に広めること」です。阿弥陀仏に慈悲をかけられていることを喜び、その慈悲の心を伝える徳がめぐまれるということです。
悩み、迷いの人生から、安らかな道へと歩みを運ばせたいという仏様の心を知り、それを喜び、伝えていこうとする。それが常行大悲ということです。
そうした知恩報徳の思い、常行大悲の思いがめぐまれ、そうしたことを喜ぶ生活になってくることを、「知恩報徳の益」「常行大悲の益」という言葉で、現生の利益として示されています。
現生十益をまとめれば、「入正定聚の益」ですが、それを開いてみれば、「知恩報徳の益」や「常行大悲の益」がそこにも含まれています。
◆
いかがだったでしょうか。今回も、「正信偈」の「成等覚証大涅槃」という句の「成等覚」という言葉から、現生の利益についてお話しました。
今回で、現生の利益、「成等覚」というの部分のお話は終えました。次回は、続きの句について見ていきたいと思います。
合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
▼次回の記事
浄土真宗【正信偈を学ぶ】第35回_成等覚証大涅槃 必至滅度願成就_生きる意味|神崎修生@福岡県 信行寺|note
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浄土真宗【正信偈を学ぶ】第33回_成等覚証大涅槃_現生の利益②人生を喜ぶ心が開かれる|神崎修生@福岡県 信行寺|note
南無阿弥陀仏