バイカル湖の悲劇、最後のひとり

バイカル湖の悲劇、という言葉をご存知だろうか。

時は1917年、ロシア内戦が勃発した頃に遡る。ざっくりと説明すれば、ロシア内戦とは、のちにボリシェヴィキと呼ばれる赤軍と、それに反抗する白軍の、ロシア国内での戦乱である。
紆余曲折あり敗北した白軍は、東に逃げることにした。125万の人々が、故郷を追われ、拠点であったウラルから極東シベリアに退却せざるを得なくなってしまったのだ。もちろんその125万人には、軍人だけでなく民間人、それも女子供も含まれている。
途中、凍てつくロシアの寒さや食糧難で125万あった避難民は25万人ほどに減ってしまったという。そしてその25万人がたどり着いたのが、冒頭に記した「バイカル湖」であった。

バイカル湖についての説明は、こちらもざっくり終わらせる。
最大水深1600mを超える、世界最古の淡水湖。それがバイカル湖だ。極東までの間に三日月型に位置する湖。冬になれば氷の厚さは1mを越し、車が走行することも可能になるのだ。これがバイカル湖である。画像で検索してみると、淡水をたずさえた透き通った湖にすぎない。世界一透明な湖とも呼ばれ、実際、観光客も多いらしい。
だが百余年前、ここで悲劇が起こったことを知る人は少ない。

話を戻す。
逃亡の末、疲れ切って仲間も失った彼らの前に現れたのが、この厳冬の地獄、バイカル湖であった。イルクーツクまでなんとかたどり着いた彼らは凍ったこの湖の上を徒歩で越え、ボリシェヴィキの手の及ぶことのないさらに極東へと逃げようとした。また平穏な日常が戻ることを信じて。
けれども真冬のロシアである。自然は逃げ続ける彼らにすら味方することはなかった。遮るものがない湖上、そこではマイナス20度にもなり、体感温度にしてはマイナス70度近い暴風に晒され、25万の残った人々もすべて死んだ。みんな、ひとり残らず、殺されたのだ。それも人や武器ではなく、自然という抗うことのできない事象に。
長い冬を終え、春がやってくるとバイカル湖の分厚い氷は少しずつ融けて、そしてもとの透明な湖に戻る。春の陽光を受けた湖は、少しずつ少しずつ氷を失ってゆく。その上にある、志半ばで死んでいったひとびとごと、融けてゆく。氷がひとつ消えるたび、凍死体もひとつ、またひとつと水底に沈んでゆくのだ。

その25万人は、いったい何を思って死んでいったのだろう。それを考えたことが、そもそもこの記事を書くきっかけだった。
はじめは安寧を得るために逃げていた。新しい、けれども昔のような日常を取り戻すために。しかしバイカル湖の上でひとり、またひとりと命の灯が消えてゆくたびに、いったいどんなことを考えていたのだろうか。一歩を踏み出したまま死んでしまった人、子供の手を引きながら死んでいった人、氷上で産まれた胎児と死んでいった母、そして最後の一人になってしまった彼/彼女。そのおそろしさはきっと、私たちの想像よりもはるかに残忍なのだ。
最後、立っているのが自分だけになってしまったのが誰だかはわからない。名前も残されているはずがない。だが確かにそこにはいたはずなのだ。24万9999人の死を見届けて、自らもバイカル湖に眠った存在が。ふと想像をしてみる。猛吹雪で何も見えない真っ白な世界、やっとの思いで歩を進めても目の前はしかばねばかり。あくまで想像だが、きっと、世界に一人ぼっちになってしまったと思ったのではないだろうか。そのときの絶望は、きっとわたしたちなどでは計り知れない。あたたかな毛布にくるまって、火の通った食事ができて、一歩家から出れば生きている人間がいる。そんな暮らしを当たり前にしている人間に、彼らのことなど想像するのも無礼と感じてしまうくらいだ。
それでもわたしは最後のひとり、25万人目の死者の気持ちが知りたくてたまらない。おそろしかったのか、あきらめたのか、己だけでも想いを繋ぐため前へ前へ、と歩いたのか。いくら考えても、答えはない。だが、くらくてふかい水底に沈んだ生命たちの声が聞きたいのだ。

彼らの死体は湖の底に沈み、引き上げられるようなことはない。それでもバイカル湖には、たしかに暮らしと生命と意志を持っていた25万の「ひと」の魂が今でも眠っている。25万人それぞれに母がいて、心があって、信念があった。それが不思議で、残酷で、怖い。25万人目の彼/彼女の絶望を知りたいと思ってしまっている。この好奇心は、彼らに対する追悼なのだろうか。恨まれたりは、しないだろうか。
それでも死んでいったあなたたちのことは、記録には残されていると伝えたい。ひとりひとりの名は分からなくとも、そんな悲劇があったことは百年以上たった今でも語り継がれていると、そう伝えたい。

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