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そもそもネオアコ in the UK

UKでのはじまりの話

ネオ・アコースティックって何ですか?と聞かれたら、まずはUK、イギリスの音楽の影響からというのは誰もが語ることでしょう。
しかし、言わせてください。それは、スコットランドはグラスゴーの Postcard Recordsと Orange Juiceから始まったのです!……地方の五人の若者からです!!

(こんな感じで……ウザくて長い話にしばしおつきあいくださいませ。)

そもそもUKには「ネオ・アコースティック」という概念はなく、そういう言葉もありません。それよりも、どの地域出身なのかに重きを置いて紹介されがちです。まあ自分たちのローカルな国内のことだから当然ではあります。

世はポストパンク

Postcard登場の1980年までに何があったかというと、1976年にパンクがあって、それが形骸化したころに、PILを始めとするポストパンクの波が起こり、マンチェスターからは Joy Divisionを擁する Factory Records 、リヴァプールには Echo & the Bunnymenや Teardrop Explodesを擁する Zoo Records 等々と、地方都市からロンドンとは違った個性を持つインディレーベルとバンドが登場します。これは マンチェスターのBuzzcocksが、1977年に完全DIYでデビューシングルを出したことが、特に地方の若者を鼓舞したに違いありません。Rough Trade Recordsが各地域のレコード店へのインディ・レコード供給網を整備していたということも大きく影響したでしょう。

……と思ったらば、BIG GOLD DREAMSのCDセット解説によれば、スコットランドではラフトレードの配給網整備前に、DIYレコード制作精神があったというではないですか!それを思い出したのはsosaidkayさんのツイート及びnoteのおかげでした。


上記記事より「グラスゴー市議会は、ストラングラーズのコンサートでの暴動をきっかけに、街の反抗的な若者たちに早くも致命的な打撃を与えた。その結果、グラスゴーでは今後パンクのライブはすべて禁止されることになった。この厳しい措置の結果、パンク・シーンは失速してしまった。その後、近くのペイズリーという町で再始動したものの、ダメージは大きかった」

これも忘れてた!!コレはかなり重要だ。グラスゴーは独特にならざるを得なかったんだ。それでもペイズリーまで行けばパンクバンド観れたんだよって話は聞いたことがある。ロディかな。それがどれほど影響あるのか想像しにくいけれど、まあそれがグラスゴーをグラスゴーたらしめたんだろう!
物理的にも、単純にロンドンと離れていたお陰で、流行に左右されずに済んだ、とも言えます。

ポストパンクはダークで重厚でシャープでエッヂィなのが主流でした。アズテック・カメラも最初は思い切りジョイ・ディヴィジョン・フォロワーやってます。そういえばアラン・マッギーもだわw 一度はカブレるんだなw
一方ではUKパワーポップやSKAやネオモッズやシンセポップも勿論ありましたが、前述した地方都市からのインディ・レーベルの動きとしては、マンチェのファクトリーとリヴァプールのZooが象徴的で、音楽紙は次にコレに続くのはどこか?と探してたと思われます。ああしかもイアン・カーティスは1980年夏に亡くなっているのだ。


二色刷りなのにカラーに見える眩しさ!


スコットランドはグラスゴーからポストカード登場☆

そういうモノクロームというか黒一色の世界から、キラッキラ☆総天然色☆笑顔溢れる四人の若者が地方から堂々と現れたんですから、そりゃまあ次のスタアとして飛びつきますよね。

上に上げたNMEの表紙をご覧ください。1981年5月スコットランド特集号の表紙をOrange JuiceのEdwynとAltered ImagesのClareちゃんが飾っております。「照らせ!スコットランドの新しい花たちよ」ですよ☆

このへんの事情は「ポストパンク・ジェネレーション」という本に大変詳しいです。現在在庫切れで高騰しており、原題が「Rip It Up and Start Again」ですんでオレジュ強火ファンとして原書で持ってますが、やっぱり日本語で読めると全然違います……。

第18章はポストカードとザ・サウンド・オブ・ヤング・スコットランドに丸々割かれているんですけど、のっけからわたしの言いたいことが全部書いてあるんです!延々と引用していいですか??

「1980年、ポストパンク券が除鬱な死の間にはまっている頃、
オレンジ・ジュースだけは異彩を放っていた。グラスゴー出身の彼らはまず、名前からして新鮮だったー 甘く、健康的な、グラスの中の陽光。「当時はメンバーの誰も酒を飲まなかった」と、シンガー/ギタリストのエドウィン・コリンズは振り返っている。
『オレンジ・ジュースは……ほくらにぴったりの名前だと思ったんだ。練習でいつも飲んでたしね』。彼らが作り出す音楽。ザ・バーズとヴェルヴェッツを足した、ふらふらと揺らめくサウンドも爽やかな炭酸水のようだった。何よりも、80年の春に発売されたデビュー・シングル「フォーリング・アンド・ラフィング」がすべてを物語っていた。甘酸っぱい恋心を歌うラヴ・ソングの復権である」

ああ延々と引用し続けてしまう!!
そのルーツはバズコックスとサブウェイ・セクトにある、と話は続く。更にNYパンクとvelvets。なかでもedwynは『LIVE 1969』(ジャケが苦手すぎるけど音は最高です)を何時間も流しっぱなしにしていたそう。中ジャケに写るルー・リードが抱えるグレッチのギターも重要。ロックの2大ブランド、フェンダーとギブソンだけは絶対に使いたくなかった!と。後期 velvetsに加えてChic。それが決め手だった。

彼らのライヴを一目見て、これに共鳴したアラン・ホーンと出会い、ルームシェアしていたブライアン・スーパースター(ザ・パステルズのギタリスト)と共に、音楽的に重要な過去のアイディアや博識を提供する頭脳かつ、共犯者となっていく。彼らが集めた遺産から好きなもの組み合わせて、音楽と服装とデザインとを作っていく。「サンプリングが登場するずっと前」に。ちなみに、ボーダーTは「ウォーホルのファクトリーを思わせる」と書かれている。
「白黒一辺倒だったポストパンク勢と一線を画す服装は、複数の要素を取り入れた彼らの音楽性の象徴だった」

ほんとにキリがない!この本図書館で借り続けて読んでください。または復刊希望! ↓↓↓↓↓


放課後ギターカッティング

以下のnoteや、拙著『ミニコミ「英国音楽」とあのころの話』第二章あたりでもさんざん語り続けていますが改めて、ここで自分のネオアコ感を。

↑この記事下部に貼り付けた、わたしのネオ・アコースティック10選ですが、「1983年の放課後ギターカッティング!でっかいグレッチが似合うボーイズ!がテーマ」と明言しております。

つまり原型はまさしく、オレンジ・ジュース、そのものなのです。
日本の奥手な高校生の自分にとって、ネオ・アコースティックとの出会いはアズテック・カメラでした。それからペイル・ファウンテンズ。地上波のテレビでもさんざんPVが流れていたブルーベルズ。憂いも秘めたロータス・イーターズ。ソロになったニック・ヘイワード。チェックシャツを着てグレッチ抱えたさわやかな男子たち。学校の友だちとデュラン・デュランにきゃあきゃあ言う延長線上で飛びつきましたとも。「VIVA ROCK」だいすき女子高生にも敷居が低い。共感できる女性アーティストという観点はあまりなくって、トレイシー・ソーンとブロンディとプリテンダーズくらい。そのうちレインコーツにはまっていくけれど。当初はきゃあきゃあできることに重きを置いていたので、ボーイズに絞られてます。

1983年当時は知らなかったんですけど、その原型は、キ・ラ・メ・キ☆オレンジ・ジュースだったんです。当時はミュージック・ライフの記事を見てヘアカット100のフォロワーなのかな?とか思ってました。日本にはそういう時差がまだあったんですね。

チェリーレッド関連でも、the monochrome setはずっと先輩のイメージなんでまた違いますが、Feltってどうなんだろ?ちょびっとは影響されてポストパンクからギターメインのボーイズ・サウンドになったんじゃないだろか。結果できたものは全く違う個性だけど。よく知らないので違ったらすみません。トレイシー・ソーンはハッキリ影響されたと書いていたのでイイ気になっています。

そう考えるとYMGはどうなんだって話ですよね。自分的にはこの流れで行くとちょっとまた違うんです。ラフ・トレードのポストパンク仲間といいますか、スクリッティ・ポリッティやレインコーツの流れ。モノクロ同様にちょっと先輩です。チェックシャツもグレッチもないし。

これもともとカラー写真だったのかな?着色かな


そこから派生したバンドたちがまとめて日本で紹介されたのが、1983年。「ネオ・アコースティック」とかなんとか。あとはこのシリーズでお話した通りです。
以上、ネオパビで話しきれなかった個人的解釈でした~。

ひろいもの。左下の字はえどいんぽい。豪華サポート。




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