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無視できない葛藤

「自分が欲することを神も欲するようにと望み、神が欲することを、自分も欲するようにするのは憂鬱で、自分の意思を神の意思に合わせることには嫌悪を覚える」
(十字架の聖ヨハネ『暗夜』p64 第7章「霊的嫉妬および怠惰による不完全について」より)

まさにこの状態である。
自分の今の願いは、神様が喜ぶものではないだろうなと感じる。
これは直感でもそうだし、
良心に照らしてもそうだし、
御言葉に照らして熟考してもそう。
ちなみに第三者に相談したときもそう言われた。(信者ではなく、聖書を全く知らない人から言われたから驚いた)

でも、私は、
私の願いを持っている。
神様の願いに反する、私の願い。
御言葉に反する、私の願い。

これをどう処理しようか。
私は罪人なのか。
私は異常なのか。

御言葉さえなければ、
私はこの葛藤に苛まれることなどなかったはずで、
もっと、もっと自由に生きられたんじゃないのかと、
たまに悪魔が囁く。

しかし、
御言葉がなければ、
私はじきに死ぬ。
霊的にも、肉的にも。

だから、私は
御言葉の中で、
御言葉とともに生きる
それしかできない。
むしろそれだけで良い。

それなのに、
それなのに、
そんな私なのに、
なぜ、御言葉に反することを、
こんなにも強く望むのか。

そう思って、
ずーっとずっと、
神様にはそのことに触れない祈りばかりをして、
核心である今の私の葛藤については、
一切打ち明けなかった。
第三者にはあれほど打ち明けられたのに。
神様に言わないとは。
今思うと不思議だ。

しかし今日、というか先ほど、
もう葛藤が苦しみに変化したから、
居ても立っても居られなくて、
「神様、、」と話してみた。

(ちなみに私の祈りは、
普段の人との会話とあまり変わらない。
相手が神様になるだけ。
「マジできつい」とか、
「えぐい」
とかも、言っちゃう。
だって本音で話したいもん。
それが今の私の言葉だもの。)

そんな感じで、とつとつと話して行ったら、
涙が止まらなくなった。
私の中の、最も深い思いが突出して、
神様が嫌がるだろうと思われるその内容を
はっきり言葉にした瞬間、
涙が止まらなかった。
同時に、今の私はその考えしか正当化できないと感じた。

脳は、そういうものだから、
何かに強く影響されない限り、
善悪に関係なく、
基本的には自分の考えを正当化するものだから。

結局私は、祈り終わる最後まで、
自分の考えが変わることはなかった。
今までも
今も、
何度も、
「この考えが悪による惑わしならば、壊してください」
「今の私が神様の目に美しく映らないのであれば、私を変えてください」
「罪人ならば、清めてください」
「私の考えではなく、神様の考えが私の身に起こりますように」
「早くこの葛藤から私を解いてください」

って祈ったのに。
叫んだのに。
泣きじゃくって伝えたのに。

私の考えはまだ変わらない。
それは、
あなたが赦しているから?
それは、
何か意味があるから?
それは、
何か、このことを通して成したい御心があるから??


神様、本当に、
私をあなたから離さないでくださいね。
こんなに祈ってるんだから。



「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失うものは、それを得る」(マタイによる福音書16:25)

十字架の聖ヨハネさん、恐ろしい聖句を引用しないでくれ。
と思った夜でした。


でも、不思議と、
大丈夫。
神様が守ってくださる、
私を悪人に染め上げはしないだろうと、
どこかで安堵してる。

大丈夫。
大丈夫。

何か意味があるはず。



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