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15-2.語らなくても伝わること

『動画で考える』15.物語を作る

日常生活の中の、言葉を介さないコミュニケーションを動画で撮影してみよう。

日常の中のコミュニケーションは、言葉を必要とするものと、言葉を必要としないものとで成り立っている。

小説のような文章表現であれば、それは全て文章になっていなければ相互理解は成立しないだろうが、動画は、言葉による表現も言葉によらない表現も、どちらも記録し伝達することができる。

日常生活は必ずしも言葉を必要としない。二人暮らしの家でも、一日中無言で過ごしても困ることはない。だからといって、その間二人は何のコミュニケーションも行わなかったのかと言えば、決してそんなことはない。生活するために最低限必要な家事や雑務に関するやりとりは発生するだろうし、感情的な意思疎通もあるかも知れない。ただそこには言葉は介在しない場合もある、ということだ。

そこまで徹底して言葉を使わない事はないまでも、通常私たちは、言葉を使う・使わないを、絶妙にバランス良く織り交ぜながら、日々の生活を送っている。その配分は、家庭なのか学校なのか会社なのか、一緒にいる相手と親しいのか親しくないのか、といった条件によって異なるだろう。

言葉にならない感情を、動画で表現して友人に伝えてみよう。

日常生活の中には、「語らなくても伝わること」がたくさんある。意思や感情は、表情や態度で示せば良いからだ。そしてそのような身体表現も、動画であればそのまま記録することができる。目の前にいない相手に対しても、文章表現であれば、そうした意思や感情を逐一言葉に置き換えなければ伝わらないが、動画を使えば、言葉にならない感情も態度で示したって良いのだ。

TVドラマや映画でよく見かけるように、動画を主体とした表現であるにもかかわらず、そこでは多くの出演者が言わなくても良いことをとにかく言葉で語って説明している。「私はこんな気持ちだ。」「私はいまこう考えている。」「私はきのうこんなことをした。」などなど。ドラマの出演者が、夜一人で昼間のことを思い返して「そういえば私はあのときなんであんなことをしたんだろう」などと独り言を言う。日常生活ではあり得ないことだ。

TVドラマや映画には、伝えなければならないストーリーがある。本来であれば演出によって、演技を通して伝えられる内容でも、より多くの視聴者に誤解の無いようわかりやすく伝えたいという気遣いから、出演者にストーリを語らせる、という安易な発想に思い至るのだろう。それが例え現実世界では不自然なことでも。

花が咲いているのを見て、あなたが「きれいだな」と思ったら、そのまま花を撮影すれば良いだけだ。「ああきれいだな」などと言葉を添えなくても良い。しかし、ドラマのストーリー上で「花がきれいである」ことが非常に重要な意味を持っている場合に、撮影した動画に写っている花が美しく見えなければ、そのシーンは意味を失ってしまう。だからあえて出演者はそこで「ああきれいな花だな」と言葉を添えるのだ。

動画に写された花は、誰が見ても必ず美しく見えるとは限らない。それぞれの好みもあるだろうし、花を見るポイントが違えば印象も変わってくるだろう。花の種類に特別なこだわりを持っている人もいるかも知れない。だから、自分が考えていること・感じていることを確実に伝えたい場合は、そこに言葉を添えたくなるのだ。

しかし、日常生活の多くの場合は、いちいち言葉で伝えなくても成立しているように、言葉を必要としない動画があっても良いはずだ。言葉で何も説明しない一連の動画。それがもしテレビ局で制作されたとすると「これでは何もわからないし、伝わらない。とにかく言葉で説明しろ、補足しろ。念には念を入れて何から何まで言葉で説明しろ。」と指示されるに違いない。その結果が、出演者が言葉で語っている動画に、その音声の内容を文字で画面に表示する、という念の入りようになって、それが常識となるのだ。

その動画を見た相手が、どのような印象を受けたかを確認してみよう。

日常生活は、考えていること・感じていることが、言葉のレベルで正確に伝わることをもって成立しているわけではない。もっとぼんやりとした曖昧な領域も含めて、コミュニケーションは行われている。お互いの仕草や動作や表情が意図するものが誤解されて伝わっている場合もあるだろう。花を見てどう感じるかは、人それぞれだろうが、それでも日常生活は成り立っている。

誤解やすれ違い、勘違いも含めて、それでも何とか成り立っていくのが、私たちの日常だ。だから、そのような日常を記録した「語らない動画」があっても良い。明確に何かが語られてはいないし、正確に理解することもできないが、言葉にならない何かが伝わる動画。

このような動画を見た視聴者は、10人それぞれが受け止める印象が異なり、その幅が広いはずだ。場合によっては、後からそれぞれが動画で見たものを報告したら、それぞれ異なっているということもあるかも知れない。

その時に気付くのは、動画の視聴者もまた、動画の中の人物と同じ立場で感じたり考えたりしているということだ。言葉による説明を聴いているのではなく、動画の中の人物が見ているように見て、聴いているように聴いている。そして、同じように感じるかもしれないし、まったく違う印象を受けるかも知れない。「語らなくても伝わること」を通して、動画の中の人物も、動画の視聴者も、同じ体験を共有することが出来るのだ。

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