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16-3.人間以外の視点で撮影する

『動画で考える』16.ひとに見せる

昆虫になって撮影する動画とはどんなものか想像してみよう。

ある日あなたは、自宅のバスタブにゆっくりとつかりながら、浴室の窓の枠をゆっくりと伝って登っていく小さな羽虫を見ている。どこから入ってきて、どこへ行こうとしているのか、何か意思を持って行動しているのかさえもわからない。同じ空間を共有して、自律的に生命活動を行っていても、それぞれのサイズや機構があまりにも違い過ぎて、お互いを理解することが出来ない。

あなたは羽虫のように動画を撮影することは出来ない。それはあなたが動画を撮影するという行為は、あなたの身体に制限されているからだ。

撮影した動画が、あなたの身体によってどのように制限されているかを確認しよう。

あなたが動画の撮影を開始しようとしてビデオカメラを構えると、その位置は自然とあなたの視点の高さになる。そのため、あなたの視点より高い位置にあるものを撮影する場合はそれを見上げることになるし、低い位置にあるものを撮影する場合は、それを見下ろすことになる。機械を操作する場合はいずれかの指を使うことになるだろうし、カメラを体から遠ざけるとしても、せいぜい腕の長さの範囲が限界だ。

歩きながら動画を撮影する場合には、あなたが歩く速さや歩幅によって、動画の画面の移動するスピードや細かく揺れるリズムが異なってくる。長い距離を歩き続ければスピードもリズムも乱れて、やがて力尽きて立ち止まる瞬間が来るだろうし、逆に同じ場所に同じ姿勢で立ち続けていることにも限界がある。あなたが、あなたの身体に拘束されている限り、犬や猫のようにも、鳩や雀のようにも、羽虫や甲虫のようにも動画を撮影することは出来ない。

テクノロジーによってあなたの身体は拡張されたかも知れない。あなたはネットワークによって世界中に視点を分散することも出来るし、ドローンによって遙か上空から地上を見下ろす視点も手に入れた。しかしそれは、あくまであなたの身体感覚の延長でしかなく、それを越えるものではない。あなたが生活する住宅は、あくまでもあなたの身体のために最適化された空間だし、都市空間を構成するさまざまな要素も、すべてが私たちの身体を基準に設計されたものだ。空間のスケールも、都市間輸送のスピードも、温度や湿度のコントロールも、人間が作り上げたものは、すべて私たちの身体の延長でしかない。

バーチャル・リアリティーの空間では、あらゆる仮想空間の再現と体験が可能であるように思える。まるでゲームの世界に入り込んだかのように、走り回ったり、思い切りジャンプしたり、空を飛ぶことも出来るはずだと。しかしそうした体験も、いまここにいる私がゲーム空間に入り込んだら、という視点を越えられない。もしそれを越える体験がそこに用意されていたとしても、私にはそれが理解できない。あなたがもし自分の身体を奪われて、身近にいるクモやミミズの身体に意識を移植されたとすると、おそらくその瞬間に人間としての意識は失ってしまうので、その状況を人間として意識することが出来ないし、もちろんクモやミミズの視点で動画を撮影するということも出来ない。

それでは私たちは一生、自分自身の身体という牢獄から外に出ることも出来ず、ごく身近にいる他者とも理解し合うことが出来ないのだろうか?できる限り歩み寄って、ほんのわずかでも理解の糸口を掴むにはどうしたら良いのだろう?

あなたと同じ空間を共有し、お互いに影響を与え合っているものの状態を観察しよう。

あなたに遊んで欲しくて近寄ってくる幼稚園に通っているくらいの小さな子ども。あなたはごく自然にその子どもにビデオカメラを向けるが、その視線は上から下へ見下ろしていて、子どもの視線は下から上へ見上げている。そこでまず、あなたの視点を下げて、視線の軸を合わせてみよう。そのことでお互いの立場を同一にすることは出来ないが、視点を近づけることは出来る。理解し得ない者同士が、同じ空間で同じ体験を共有することでわかることを、動画に記録しよう。

あるいは、あなたの目の前の壁に止まった羽虫を、昆虫学者のように緻密に観察し、動画で記録しよう。何の意図も持たずに、何の結果も期待せずに、何の働きかけもせずに、ただ無心に観察し、記録する。観察を続けるうちにその場の状態が、羽虫とあなた自身の両者の関係があってこそ成り立っている空間であることに気が付く。羽虫はあなたに影響を与え、あなたは羽虫に影響を与えている。その一点において羽虫とあなたはわかり合える可能性を持っている。

もちろん大きく異なる身体感覚を持った者同士は、直接コミュニケーションを取ることは出来ない。しかしその関係は、客観的に観察し、動画で記録することが出来る。樹木の考えていることはわからない。樹木が人間のように考えているだろうか、と考えること自体が、人間としての視点にとらわれた発想だ。樹木とあなたは同じ空間を共有し、お互いに影響を与え合っている。その一点においてわかり合えているのだと考えるべきだ。

自らの身体感覚を押し付けて理解を促すことをやめよう。それぞれ異なる身体感覚に閉じ込められた者同士がわかり合えないことを前提として、ひたすら実直にその関係を観察しよう。ビデオカメラはただ無心にそれを記録してくれるはずだから。


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