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15-1.物語のない動画

『動画で考える』15.物語を作る

動画のどんなところから物語を読み取るのかを意識してみよう。

物語のない動画とは、物語に束縛されていない動画だ。

動画の要素として、少しでも物語の手掛かりとなるものが見つかると、視聴者はそれをつないでそこに物語を読み取ろうとする。ただの何気ない街の光景を捉えた動画さえ、そこに2人の人物が通りかかって、ささやかなやりとりが発生すると、そこに物語を読み取ろうとする。道端にスニーカーが片方だけ落ちているのを発見しても、誰が?何が?と自動的に想像力は広がり始める。

一度、物語(らしきもの)の気配を感じてしまうと、そこに映し出された個々のものの、リアルな状態は見えなくなってしまう。ものでしかないもの、ひとでしかないひと、場所でしかない場所、すべては物語に吸収されて変質し、見えなくなってしまう。

動画が表現する「時間」もまた、強力な物語の要素だ。

映画一本分程度の長さの動画を見続けるのに、ストーリーのない、単なる動画の連なりを見続けるのは思ったよりつらい。監視カメラの映像のようなまったく動きのない映像を見続ける、という極端な場合だけでなく、ショーウィンドウに置かれたディスプレイ用の動画のように、美しい映像の連続だけで成り立っている内容の場合も、それをじっと見続けるとしたら、実際の再生時間以上に長時間であるように思えるだろう。

時間感覚とは心理的なものであり、楽しい時間は短く「あっという間」と表現されるし、退屈な時間は実際の時間以上に長く果てし無く感じるものだ。

ストーリーのある映画は、シナリオや編集によって時間をコントロールされている。時間の経過を、セリフや映し出された情景、登場人物の演技で表現したり、また編集のテクニックで、短いカット割りでシーンをつなげれば、あっという間に時間が経過したようにも表現できる。

映画館に入って座席に座っている時間が2時間でも、映画の中の登場人物が「あれから2年経った」と言えば、そこでは2年の時間が流れている。映画の上映さえも無い場所で座席に2時間座っているのは苦痛でしかないが、2時間の映画を鑑賞するのはそれ程負担ではない。そこで私たちは映画の中のフィクションの時間を生きているのだ。

それほど私たちの感覚は映画やドラマの手法に慣らされていて、だからこそ、大した説明がなくても、一定時間画面を見ていれば、おおよそのシチュエーションや人物設定は理解できる。そしてそれによって彼らが置かれている時間の流れが自然と把握出来るように作られているのだ。

物語のない動画に対して、視聴者はどのように向かい合うべきかを考えてみよう。

ストーリーのない動画と、私たちはどんなふうに対面したら良いのだろう。映画やテレビドラマのように、一定時間画面の前でじっと対面している必要はない。ディスプレイ用の動画のように、街を行き交う人びととは無関係に、ただそこに設置されている、という動画の使われ方もあるだろう。そのような場合の動画は、私たちの生活空間に別の場所から運ばれてきて設置された、「時間のオブジェ」とでも呼ぶべきものとしてそこにある。

ディスプレイ用の動画の場合は、短い単位のPRイメージを繰り返し再生しているようなものが多い。それに対してここで想定しているのは、1時間・2時間と言う単位で、ある場所や人物やものを撮影して、まったく別の場所に設置する、といった「時間の移植」といったイメージだ。ブランドのロゴやキャッチコピーのような広告に必要な機能は一切ない。だれもその動画に対面して、じっくり見ようとすることはないし、時々その前で通行人が立ち止まり、首をかしげて通り過ぎるような、そんな動画だ。

それは、見る者が自分との間の距離を計りがたい動画でもある。そこに写っているものと自分の関係が瞬時には把握出来ないので、どう係わったら良いかもわからないし、関係も作れない。そんな動画を想像してみよう。関係が固定されていないので、その動画とはどのように付き合っても良い。少し離れた場所に置いておいて、時々ふと思い出したように視線を向けるだけでも良いし、そこに動画があると言うことだけを意識して、実際には一度も目を向けないという選択も自由だ。ただ動画がそこに存在するだけ。

ストーリーの無い動画はフィクションを提供しないので、2時間の動画はそのまま2時間でしかない。そこにあるのは、ただ2時間の体験だ。その場に居続ける自分や体験している時間を体感する。時間を体験すること、その事だけが際立ってくる。

そうした体験は、約束した相手をただ待ち続けること、次の予定までぽっかり空いてしまった時間を手持ち無沙汰な状態で過ごすこと、といった体験に似ている。動画は何も表現していないが、そこには時間が与えられている。そのようなきっかけが無ければ手に入れられなかった得がたい時間が。

あなたはその時間を利用して、ぼんやり考え事をしたり、形式を眺めたり、そして何も考えずに頭を空っぽにしても良い。ストーリーの無い動画によってあなたに与えられたのは、そのような自由な時間だ。

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