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16-1.ひとに見せない

『動画で考える』16.ひとに見せる

自分のためだけの「ひとに見せない」動画を撮影してみよう。

私たちが日常的に接する動画と言えば、かつてはテレビ放送や映画のような限られたものしかなかった。動画とは誰かが作って、それを観賞するだけのものだった。ホームムービー(8mmや16mmフィルムによる撮影)が普及した時代があり、そしてホームビデオが広まって、誰でも家庭用のビデオカメラで撮影して、記録することが出来るようになった。運動会や入学式・卒業式を親が撮影して、あとから家族でそれを観賞するという利用イメージが繰り返しCMで流された。

オンラインの時代になって、誰もが動画の制作者であり出演者になって、世界中の不特定多数の観客に向けて簡単に動画でメッセージを発信することができるようになった。動画は、一対多数で発信されるものから、多数対多数でやりとりされるものに変化した。

ネットで話題になる動画は、その内容や質を問われるというよりも、どのくらい多く再生されたかその回数で評価が定まる。それは再生回数の多さに価値があるという意味ではなく、再生回数の多さによってその動画の確からしさがより確実になっていく、ということを示している。未確認飛行物体は目撃者が少ないうちはうわさ話に過ぎないが、目撃者が増えるにつれて、その確からしさは確実になる。その話が本当かどうかは問題ではない。いかに多くの目撃者がいるかがその話の価値を決めるのだ。

そこには動画の本質がある。ビデオカメラやPCに記録されているのはただのデータでしかない。そのデータを出力するモニターには、ただの光の点滅が映し出されているだけだ。動画という実体がどこかにあるわけではなく、ある情報を誰かが受け取って初めてそこに動画が発生する。だから、誰にも見られない動画には価値がない、などと言い出す者も出てくる。

しかし、だからといって再生回数は確からしさの本質ではない。より多くの人びとの承認を得ることを重視するのか、特定の少数の人びとからの承認を必要とするかは、価値観の問題でしかない。たった一人の視聴者がデータを受け止めるだけでも、そこには動画が発生する。

だから再生回数を稼ぐことだけを唯一の目標とするような動画撮影の取組は間違っている。動画を通して物事の実体を把握し記録しようとするのなら、それがどれだけの人びとに再生されるのかは関係ないことで、自分自身のために動画を使えば良いだけだ。再生回数を稼ぐ、という考え方はいったん捨てた方が良い。

動画は、まず大前提として観察と記録、そして思考のための手段であり、記録しただけで再生されることはないのか、自分だけで見るのか、第三者に見せるのか、は二の次の問題だ。

ひとに見せるために配慮する要素は削って、自分に必要な動画の要素を確認しよう。

そこであえて「ひとに見せない」動画を撮影してみよう。それは自分自身が何かを観察して、それについて考えるための動画だ。ひとに見せないのだから、前置きや説明は必要ないし、わかりやすいようにとか飽きさせないようにという気遣いも必要ない。自分が後で見て必要と思われる物事だけを、それをわかりやすいように記録しよう。ちょうどメモ帳に忘れないように殴り書きをするように、他の人びとには読めなくても良い、自分があとで思い出すための手掛かりとして使えるような材料を記録しておこう。

ネット上で人気を集める動画の多くは、とにかく少しでも多くの人びとに見てもらう事だけを意識して作られているので、自分だけのための動画制作のためには何の参考にもならない。撮影の方法も、機材の選び方も、マイクの使い方も、照明のあて方も、編集の方法も、文字のデザインも、とにかく一つも役に立たない。あなたがそういうスタイルに影響を受けているなら、すべていったん忘れて、自分の方法をリセットしよう。

あなただけが必要とする、独自の撮影と再生のスタイルを作り上げよう。

自分のスタイルを見つけるためには、とにかく漠然と動画を撮影するだけで良い。その場で分析したり考えたりするよりも、ただ出来るだけたくさんの動画を撮影した方が良い。現場であれこれ考えすぎて、結局ほんの短時間しか撮影せずに、あとからもっとあれこれ記録しておけば良かったと後悔しないように撮影する。途中で撮影を中断してしまって、その後に起こることを撮り逃すようなことがないように撮影する。とにかく現場では撮影に徹して、分析や思考はその後でゆっくり行えば良い。

そして後から動画を見直す。何回も繰り返して見直した後に、再び撮影と観察に出かける。そしてまた見直す。そんなことを繰り返すうちに、あなただけが必要とする、独自の撮影と再生のスタイルが出来上がるだろう。

あまりにも「ひとに見せる」環境が充実しているために、どうしてもひとに見せたくなるし、他人の評価が気になる。しかし動画の「記録し、再生する」という原理的な機能を考えてみれば、ひとに見せることは重要ではない。繰り返し繰り返し自分自身で見返すことを通してでも、動画の確からしさは高まってくる。

それは自分自身が動画の撮影を通して現実の見方を変えること、それを繰り返すことでその見方を確実にすることを実現する。「動画」とは、何よりもまず自分自身のための道具なのだ。

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