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12-1.編集しない

『動画で考える』12.編集する

長時間・ワンショットの動画を、編集せずに提示して伝わることを確認しよう。

動画撮影をできる限り長く続けるということは、その時間だけ特定の人物やもの、場所と関係を持ち続けるということを意味している。だから街の中で友人をモデルに撮影しようとした場合、短時間であれば想定したイメージ通りの動画が撮影できるかもしれないが、長時間撮影を続けていると、想定外の通行人や自転車、自動車などさまざまなものが介入してきて、イメージは崩されてしまう。

また、例えば生花を撮影する場合、短時間であればその花の一番美しい瞬間だけに立ち会うことが出来るが、長時間撮影することになれば、つぼみの状態からしぼんで花びらがすべて落ちるまでの過程の、いずれかに立ち会わざるを得ないことにもなるだろう。

そうやって出来上がった動画には、撮影者の意図や作為を外れた状況が多分に写り込む事になるはずだ。長時間撮影した動画を、編集しないでそのまま提示することで、撮影者と閲覧者はこのような思い通りにならない状況を共有することになる。

このように現実から切り取られ手の入れられていない動画の上では、映し出される出来事は、直線的に時間軸に沿って撮影された順番通りに展開される。

編集しないという条件で表現出来なくなることを想定してみよう。

ある目的地に向かって歩きながら撮影しようとする時、その過程がいくら退屈なものでも、途中で録画を止めて省略するということなく、撮影を続けてみよう。また、あとからその動画を編集して、時間の前後を入れ替えたり、中間をカットして省略したりするということもせずに、とにかく撮影時の時間をそのまま再生してみる。

映画やテレビドラマで一つの過程が長すぎる場合は、高速再生して時間を圧縮したり、適度に中抜きして省略したりすることがよくある。そうしないと、誰も老人がゆっくり歩いて風景を横切っていく様子をじっくりと見たいとは思わないだろう、という先入観と予定調和に基づき、動画はあとから編集・加工される。その結果として、動画にテンポが生まれて、確かに単調なシーンも見やすくなったように思える。

また食事の場面で、皿に盛り付けられた料理が、カットが切り替わって突然なくなってしまったとしても、誰もそれが消えてしまったなどとは思わずに、ああ食べ終わったんだな、と理解するだろう。だからテレビ番組の制作者はそのような前提を踏まえて、大胆にシーンをカットして省略する。食材を刻んで入れたばかりの煮込み料理が急に出来上がっても、出発したばかりの列車が次の瞬間には目的地に到着していても、小さな子どもがいきなり大人になっても、それを誰も疑問に思わず、そこでは時間が省略されたのだな、と暗黙のうちに了解する。

しかし、そこにあったかも知れない省略された動画のイメージと、実際にそこで撮影された省略されなかった動画のイメージは、まったく別物だ。すべての過程を省略せずに撮影した動画は、あなたの想像を超えたディテールの集合体だ。だからこそ、不要と思われる過程もすべて撮影し、それを編集せずにそのまま提示することには意味がある。

編集しないことで表現出来ること、見えてくることを確認しよう。

通勤や通学の途中経路は、発地から着地までの過程に過ぎず、それ自体は意味の無い、可能であれば省略してしまいたい時間であると考えられているかもしれない。しかしある時、ふと電車やバスの窓から周辺の景色に目をやって、そこには無数の現実のディテールが散りばめられていることに気が付く。それはあらかじめ想像出来るはずもない、省略可能な過程とはまったくの別物の現実だ。

あるいは、目的地に向かって歩いているうちに迷ってしまって、大きく経路を迂回したり、今来た道をまた戻ったりする体験。それもまた、約束の場所に時間通りに到着することを目的とすれば無駄な時間でしかないかも知れないが、迂回している間に考え事をしたり、今までまったく気が付かなかったお店を発見したり、偶然に古い友人と出会ったりと、考え方を変えればその過程自体に意味を見出すことが出来るはずだ。

私たちは、体験しなくてもわかること、見なくてもわかること、と思い込んで、多くの事を体験もせずに、見ようともせずにわかったつもりになっている。そしてその欠落を、イメージや言葉で置き換えて、穴埋めをしている。そうする事で、まさに目の前にある現実の世界でさえ、まるで見えていないのだ。まるで眠りながら歩いている人びとのように。

出来る限りナマの動画を見る。カットされたり時間の圧縮がされていない、セリフもない、ナレーションもない、音楽もない、タイトルもなければクレジットもない、撮影されただけのナマの動画を見続ける。それは、料理されていない食材がそのまま食卓に載っている様なものだ。味付けのまったくされていない食材は、とても物足りなくて食べ続けられないだろうと思っていたら、食材そのものの繊細な味わいがわかってくるようなそんな体験だ。

少し我慢して動画を見続ければ、刺激の強い、サービス過剰な動画を見慣れた感覚では最初は感じ取れなかった現実のリアルな表情が、徐々に見えてくる。それはいつでも目の前にありながら見えていなかった現実の姿だ。動画の撮影はそのための手段であり、そのような動画の撮影と視聴を繰り返すことで、あなたが世界を見る感覚は少しずつ変わっていくはずだ。

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