虚無は人形で自分自身

ここ二日くらい虚無って言葉使い勝手がよくて使っちゃってますね。

でも、私が愛している虚無を細かく分析していくと、それは虚無ではなく、人形であることがわかりました。

人形とは、自身を投影する装置です。

自分の事だと何もわからないのに、人形を通して見ると、この人私と似てる、とか。同じだ、とか。自身の要素を人形越しに認識することがあります。

人形というのは、物のことではなく、コミュニケーションがとりづらく全体を見ることはできない存在の人間のことだと定義させてください。

私は人形と対面するとき、自身すらも知り得なかった自身の一面を知り、同時に同じ価値観の人間がこの世界に存在することを知って安心することができます。

だから私は人形が好きです。
透明な檻と偶像のことです。素敵です。

ところで、今日は給料日ですし、尾崎豊のアルバムを全て借りようと思い、仕事終わりにレンタルショップに行きました。

22時過ぎの静かなレンタルショップではなとりのOverdoesが流れていました。

たったそれだけで、2年前に働いていたレンタルショップのことを思い出してしまいました。Vaundyしかり、King Gnuしかり、藤井風しかり……最近の流行っている音楽は静かな夜に聞くにはあまりにも危険すぎるものが多すぎます。

私は尾崎豊と喧騒から夜毎逃げ出したかったはずなのに、いつのまにやら夜の闇に呑まれてしまいました。

私の魂はハリーポッターに出てくる例のアレの如く別々になって隠されているのですが、そのかつていたレンタルショップのあたりに隠されていたやつが悲鳴を上げるので、私は渋谷の屋上にある一番清らかな私を呼び出し、なんとか場を繋いだのでした。

一体何の話なんでしょうね、これ。
あまりにも、戻らない美しすぎる思い出が、ふとしたときに、今を生きる私に噛み付いてくるのです。

結構、一番美しいと思うときに何事も捨ててしまうのですが、もしパラレルワールドがあればきっとその世界で生き続けている私が今も尚、美しい現実の世界線上で暮らしているのでしょう。

そんなどこかで生きる私に思いを馳せつつ、今の私は偶像の真似事をして、なんにも面白くないのに大げさに笑ってみたりして生きています。ちゃんちゃん。

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