本当ってなに
昨日に引き続き、マジキチオタクの暴走は止まらない。
今日は仕事があるというのに早起きしてハードケースの買い出しやら何やらに追われる。そして今日は透明なトレカを作っていた。
そんな工作の合間の仕事中、職場に置かれた雑誌の見出しがふと目に入る。
「本当の大好きを手に入れる」
本当の大好き?ということは今大好きといっているものは偽物で、本当の大好きは得ていないということである。
そもそも大好きってなんだよという話だが、とりあえず好意的な感情ということと過程しよう。
次に、自身の中にある好意的な感情だと思っていたものが偽物なのか、他者から向けられる好意的な感情が偽物なのかについて少し考え、前者の方で哲学することにした。
本当の大好きを手に入れる。あまりにも見出しとしては難しく、同時に魅力的であった。私は虚無を愛しているが、それすら偽の感情だとでもいうのか。
ならば、私は何だ。本当の感情に気がついたいずれ「これが そうか この掌にあるものが 心か」とか言うのだろうか。おもんな。
おもんな、と言いつつも私は本当の大好きを感じたくて尾崎豊を聞いた。
いつも、尾崎の音楽を聞いていると目頭が熱くなる。感情的になるという意味では、Plastic Treeでもかなり精神を揺さぶられるのだが、Plastic Treeの場合はどちらかというと哀しすぎて本当に冷たい、屍みたいになってしまう。
尾崎も哀しい。哀しいけれど温かくて、生きてるって感じがして好きだ。尾崎豊の音楽の温かさは、人の流した涙を拭った時に指に伝わる温さに似ている。だから哀しいことに変わりはないけれど、孤独じゃなくなって好きだ。
生きてるってだけで、哀しい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?