ネットフリックス「ワム!」 全世界で数10年に一度の「奇跡の青春」!
どうも。
ようやく、これを見終わりました。
はい。今話題ですね。ネットフリックスのドキュメンタリー、「ワム!」。ワム!といえば、日本でも延々と「ラスト・クリスマス」が年末になるとかかっているようなので、それで知ってる方もいらっしゃるんじゃないかと思いますが、まあ〜、1980年代、日本でも大人気でしたよ。
それは
このように1984年当時、日本でもカセットテープのCMにでてましたからね。茶の間でもお馴染みでした。ちなみに、そのマクセルのUD2は僕が愛用していたカセットでもありました。
今回のこのドキュメンタリーですが、ズバリ、完全にワム!がどこから始まり、どこで終わるか、そこまでをきっちりと収めた内容となっています。
出会いは1975年アンドリュー・リッジリー少年の通う北ロンドンの学校にギリシャ系の少年が転校してくるところから始まります。
それがヨルゴス・パナイオトウ。内気な12歳の少年でした。彼はルックスの良いクラスの仕切り屋タイプのアンドリューに近づきます。
二人は1979年になる頃にはバンドを組みます。その時は当時流行っていたスカの曲を作っていました。そして1981年、本格的に音楽のプロになりたかった2人はデモを作るのですが、それが
この「ワム!ラップ」。2人曰く、「当時クラブ通いしてた身からするとラップは旬だった」「それをディスコと合わせてみた」「そこに失業なんかの社会的なトピックをしにまぜてみたんだ」というんですけど、ここでいきなり
おいおい!
このくだり、本人たち、何事もないように話してるんですけど、この時点で天才的ですよ。だって、この当時、ヒップホップって言葉もあったのかどうかわからない、ラップだって、最初のヒット曲が1980年のシュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」、これは万国共通で変わらないので、世に出てまだ1年かそこら。そんな音楽を、こんなにうまくラップできめて、ビージーズもびっくりなファルセットで歌ってたわけですからね。しかもリリックがヒップホップの根本的な本質まで突いてて!これをまだ、高校出たての少年が作れてたこと自体が衝撃です。
これが気に入られ彼らはインディでの契約を取り付け、アーティスト名をワム!に、ヨルゴスは芸名をジョージ・マイケルにすることとします。
ワム・ラップは売れず、2人は、「次売れなかったら、契約切られる」と焦って頑張ってこの曲を作りました。
「Young Guns」を出します。前の曲と同じコンセプトの、バッドボーイのファンキー・ラップ・チューンなんですが、これはさすがにインパクトあったか、チャートに入り(この時点で本来ならめちゃめちゃ快挙!)、トップ40にまで入りそうになった1982年11月
出演者に空きが出たことで、BBCの老舗音楽番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」に出演。子供の時から夢にまで見た番組に出演できることで彼らは緊張しますが、ここでのパフォーマンスがバカうけ!この曲は全英3位まで上がるヒットになります。
僕も、曲を聞いたことこそなかったんですけど、全英チャートは雑誌なんかで見てまして、WHAM!という名前に見覚えを覚えるようになりました。
83年に入り、第3弾シングル「Bad Boys」を出しヒットもします。日本だと、これが第2弾シングルで、ファンにはなじみ深い曲なんですけど、ジョージはこれを「不良少年路線のフォーマットに乗っただけ」と、嫌いだったことも、これを見て初めて判明しました。
https://www.youtube.com/watch?v=WYX0sjP6Za8
「成功したんだからイビザのクラブのハッピーな曲を」と、この「クラブ・トロピカーナ」を出します。
面白いことに、日本ではこれが実質デビュー・シングルで、これでワム!を知った人がほとんどです。当たり前のように、これをスタートとして信じてたので、むしろ、その前までの不良路線の方が違和感あったんですよね、当時。スタートは全く逆で、多くの人が気づかなかったものです。
これらのシングルを収めたデビュー・アルバム「ファンタスティック」は全英1位。2人はいく先々で超アイドル人気。ただ、ルックスに自信がなかったジョージは「アンドリューが導いてくれた世界」と思い楽しみますが、しかし、それには彼のセクシャリティの問題があり、そのこともアンドリューに打ち明けます。
ジョージ・マイケルのドキュメンタリーって別にもあって、それによるとゲイに目覚めたのはもっと後ということになってたんですけど、1982年だか83年にはもうアンドリューに打ち明けていたこともここで初めて知りましたね。
ここだけでも、かなりすごい話なんですけど、ここからがそれを上回る加速度となります。
https://www.youtube.com/watch?v=s03-uzAW_Ko
ワム!には1960年代からの大物マネージャーのサイモン・ネイピア・ベル、ヤードバーズも彼が出たけてたりしますがつくようになり、アメリカの大物R&Bプロデューサーのジェリー・ウェクスラーを紹介されます。ウェクスラーといえば、レイ・チャールズ、アレサ・フランクリンの黄金期を手がけた超大物。その彼とアメリカ南部のマッスル・ショールズのスタジオでレコーディングするとなって、ジョージ自身も「夢みたい!」と大興奮していたんですが
ジョージがデモを作り始めてからの一番の自信曲だった「ケアレス・ウィスパー」をウェクスラーとレコーディングしたところ、これを気に入らずボツにしたんですよ!普通、まだ20歳だとか21歳のアーティストができる決断ではないですよ。これも嘘みたいな話なんですが、
ジョージはこれを自分でプロデュースして発表することになります。そして大ヒット。
ここからジョージはセルフ・プロデュースに目覚め、チャートでの結果を大いに気にすることになっていきます。そしてワム!はイギリスだけでなくアメリカでも1位を記録。世界的なアーティストとなっていきますが・・・
・・・という感じで話が進みます。
いやあ、
改めて思うに、本当に天才ですね!
これ、感動的なのは、こういう天才的な少年が、アイドル養成機関とかではない、庶民的な市井のところから自然発生的に生まれたことですね。
逆に言うと、こういう本当の天才というのは、そういう環境からしか生まれ得ないのかもしれません。だって、世界のいろんな国にアイドル産業って何10年も前からあるわけですけど、どこの国からも、こんな早くから自分で曲が書けて、自分で演奏して歌えるアイドルなんて、、出て来やしないじゃないですか!今、それこそジャニーズ話題ですけど、養成所半世紀以上も持っていて、ただの一人もこういうタイプ、輩出できてないでしょ?それどころか、別の目的に利用もされていたわけで。
それ考えると、このサクセス・ストーリー、尋常じゃないですね。それこそパンク少年じゃないですけど、ギター抱えてバンド組んでいきなり成功しちゃったようなもの。それが非常に高いソウル・ミュージックのエッセンスを持って高次元でそれを果たしたわけですからね。そんな話、僕も、ワム!以外でほとんど聞かないですよ。
強いて挙げると、彼らと全く同じ時期に活躍した「結果としてのアイドル」のデュラン・デュランやカルチャー・クラブ。こうした、グッド・ルッキングで、作られたのではなく自分で曲も作れる才能を「アイドル」として聞いて育った、当時、僕も13歳から15歳でしたけど、すごく恵まれていたんだなと、これを見て改めて思いましたね。
これと同じような快感、強いて言えば、前から何回も話してますけど、マネスキンもそうかな。まだ10代なかばのライブハウスさえない状況にいた彼らが自宅での練習でその当時にして半端ないスキルを披露し、オーディション番組で一躍注目されて、やがて世界的なバンドになっていく。あのバンドを抵抗なく受け入れられた背景に、このワム!をリアルタイムで体験したことがあったのかなとも思いましたね。
そして、ジョージの天才っぷりは改めていうまでもないんですけど
アンドリューがワム!にとって本当に大きかったんだなと改めて思いましたね。彼、リアルタイムから、お飾りみたいに言われること多かったんですけど、それはジョージの急速な成長上、しょうがなかったとはいえ、少なくとも音楽を始めた頃は関係は対等で、むしろジョージに自分に自信がない時代は彼に表に引っ張ってもらってもいたわけで。ジョージが解散まで常にアンドリューに賛辞を捧げていたのもグッとくるポイントですね。
これ、ワム!を知らない人ももちろんですけど、もう十分に知っていると思っている、僕と近い世代のエイティーズの音楽ファンにも改めて見て欲しいものでもありますね。そして改めて、不世出の天才ジョージ・マイケルを評価したいとも思います。
実際問題、僕もワム!やジョージを、あの当時にアイドルだと思ったことはなかったんだよなあ。
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