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スキヤキとイパネマ 「グローバル・ヒットの先駆け」も、十分な評価は受けていただろうか?

どうも。

今日はこういう話をしましょう。というか、今週は主に、歴史物を行こうと思ってます。

この話、するのにベストだったのは先週末だったんですが、カイリーの記録のこともあって遅れちゃいましたね。本当はこの話もしたかったのです。

ちょうど60年前の今頃、全米チャートで1位になっていたのはこの曲です。

はい。坂本九の「上を向いて歩こう」が「スキヤキ」が全米1位になっていました。1位になった日付が1963年の6月15日から6月29日までの3週間になります。

この時、何が並行して流行っていたかというと

もう、オールディーズ・クラシックの基本中の基本ですね。レスリー・ゴーアの「涙のパーティ」やシフォンズの「One Fine Day」。前者はクインシー・ジョーンズが書き、後者はキャロル・キングが書いています。

そういう曲の中に日本の曲が1曲だけ混ざってヒットしたんですから、すごいことですよね。

これが当時、どのくらい話題になったかというと

その当時のアメリカの人気レイトナイト・ショーで本人直々が「スキヤキ」を披露し、トークにも参加してるんですよね。このスティーヴ・アレン・ショーって、エルヴィスがテレビ初出演してものすごく物議醸した番組ですよ。あれに日本人で出れてるって、すごい快挙なんですよね、本来は。

ただ、それだけのことした人なのに、僕、リアルタイムで坂本九、覚えてますけど、まず「歌手」って認識がなかったんですよね。

もう、70年代とか80年代の坂本九のイメージって、司会者とかバラエティ・タレントのイメージしかなくてですね。だって、当時にヒット曲なんて全くだしていないところか、歌を歌ってる姿さえ見ませんでしたからね。

 僕が覚えてるのは、1981年、その当時の姉の彼氏さんにですね、ちょうど僕が洋楽聴き始めて間もなかった頃に「日本人って世界でヒット曲出したことってあるの?」と聞いた時に「ああ、それは坂本九の上を向いて歩こうだよ」と教えられて衝撃だったんですよ!全く想像がつかなかったから。

だって

「なるほどザ・ワールド」のレギュラー回答者だったんですから!

あの時、小学校6年生でしたけど、「そんなことやってる場合じゃないだろ!」くらいに思いましたからね。だって、ビルボードのチャートを知り始めたような少年に、あれでトップになるのが何にも増してすごいことだと思えていた子供にとって、そんな偉業を成し遂げた人がする仕事じゃないだろと思いましたからね。

それも多分、先ほどの姉の彼氏さんが即答できたのも

1981年に、R&Bグループのテイスト・オブ・ハニーが「スキヤキ」のカバーソングを出して、全米3位のリバイバル・ヒットになってたんですよね。

あと、RCサクセションがこの当時人気の絶頂でして、この曲をカバーしてたんですよね。「日本で最高のロックンロール」って言って。それで始めてピンときた感じでしたね。

 ご存知のように、坂本九は1985年8月に日航機の墜落で亡くなってしまうんですけど、その死の直前までテレビ番組で全米1位について振られる姿なんて見たことなかったし、そういう記念の番組も作られたことなかったですね。

 考えられる理由としては、だんだんロックやJポップが日本で普通になっていくうちに、「スキヤキ」の曲調が「昔の歌謡曲」として古く聞こえて
しまったことがあったんだろうなと思います。

ただ、そうしているうちに

1994年にR&Bグループの4PMがカバーして、これも全米トップ10ヒット。2回も全米トップ10のリバイバル・ヒットを記録している曲なんて他に存在しませんよ!

このくらいからかな、本人もすでにいらっしゃらない状況になったことで、素直に「偉人」として坂本九を日本のポップスの立役者みたいにリスペクトする流れできたんだと思うし、再発とかも積極的にやってる印象ではあったんですけど、でも、なんかそれでも、「懐メロ」としての浸透で、普遍的な感じが今だにしないんですよね。

だって、その後も

例えば全米チャートで2012年にPSYの「江南スタイル」が爆発的に人した際も、「アジア人として49年ぶりの全米トップ10」として話題担った時も「スキヤキ」の名前かなり出てきて注目されたんですが、それ以上に何かがあったわけではない。

BTSが2020年に「Dynamite」でアジア人として57年ぶりの全米1位を記録した際も言及されたのに、それで「スキヤキ」になんかスポットが当たったわけじゃない。

今もこうやって60周年のタイミングですけど、なんか特別にきかないし、英語圏の方がむしろ記念日的な記事を見ますね。

 ただ、それと似たことはですね、僕はこれにも感じるんですよ。

ブラジル初の全世界ヒット、1964年の「イパネマの娘」。これは1964年、7月11日に全米トップ10に入って最高位5位、5週間トップ10に入るヒット。

この時、他に何が流行ったかというと

https://www.youtube.com/watch?v=ruKCw797JM4

ビーチボーイズの「アイ・ゲット・アラウンド」とかビートルズの「ハード・デイズ・ナイト」とか。そういう曲に混ざって、この曲が流行ったわけです。

この曲はただヒットをしただけでなく、1965年のグラミー賞で主要部門の一つ、最優秀レコード賞まで獲得しています。

が!

そんな偉業を達成したにもかかわらず

アストラッド・ジルベルトの訃報がブラジルでことのほか、扱いが小さかったんですよ!

去年にガル・コスタ、今年にムタンチス(ってブラジルではあえて言わなくてもいい)のヒタ・リーが亡くなった時、もう国を挙げての追悼モードでした。ニュースサイトの紙面はほとんど独占。「読まれた記事」のランキングの上位もほとんど彼女たちが独占してたんですけど、アストラッド、記事の扱いが普通の記事と変わらないサイズで、「読まれた記事」のランキングにも全く入ってこなかったんですよ。話題にしてる人が本当に少なかったんですよね。

これ、不思議じゃなかったんですけどね。だってブラジル国内だと、ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、エリス・レジーナは同じボサノバでも超レジェンド扱いなんですけど、アストラッドの名前はほとんど聞かなかったですからね。

それがなぜなのか、調べました。すると

実はこの記事書いたの僕なんですけど、ここにすでに書いた通り、アストラッド、あの曲が売れる前まで、ブラジルでは全くの無名の人だったんです。ただ単に「ジョアン・ジルベルトの妻」というだけの。

そして彼女、タイミング悪いことに、グラミー受賞した1965年にジョアンと離婚した上に、アメリカに残って活動することを主張したんですよね。実際、この後はアメリカ在住になりまして、ブラジルでの活動は1966年に公演を行っただけで、その時も評判的には不評。それ以来、帰国しなくなっているうちに、1972年以降は5〜10年の作品リリースとなり、最後の作品が出たのも20年以上前の2002年。その間もブラジルに帰国しての活動がないわけですから、さすがに半世紀も疎遠だと思い入れも湧きにくいでしょう。

 でも、僕が調べてる過程で見た、ブラジルに関係ある口の悪い人の評価はこんな感じじゃなくてですね。「だってアストラッドって、たまたま歌って参加したってだけで、彼女の手柄じゃないじゃん」とか「だってアストラッド、下手じゃん」とか、きついのになると「自分の手柄じゃないのに勘違いして夫と離婚して、ソロになったけど失敗した」なんていうのもありましたね。

 
僕自身もアストラッド、決して上手いとは思わないし、あれが「ブラジルの味」みたいに思われるのは好きじゃないし、実際、あれがブラジル人本来の歌の好みだとは全く思いません。

ブラジル人の歌の好み、どっちかというと

エリス・レジーナのこの力いっぱいの熱唱の方が、より近いと思いますからね。歌えるものなら、このくらい歌ってほしい感じはあるかと思います。

ただ、アストラッドのあの歌声が、ケミストリーを起こすことによって全世界ヒットになった側面は無視できない、とは僕も思います。だから、たとえそれが今でいうフィーチャリング・シンガー的な役目であったとしても、もう少し評価してもいいんじゃないかな、とは思うんですよね。

まあ、再評価の動きがブラジルでも全くないわけではないんです。

実際に、もうブラジルではもう圧倒的に人気のアニッタがモダン・ヴァージョンでカバーしたのはウケましたから。ここでもアストラッド風とは懸け離れた今っぽい歌い上げの感じだから、アストラッドの歌い方、ブラジル人の好みではないのかなあ・・・、とは思うんですけどね。

 後はやっぱり、60年ほど前の、国際ニュースの受容力ですよね。例えば当時、世界からの衛星中継なんてなかなか見れない時代で、ニュースも国際ニュースなんて新聞や雑誌で後で知るみたいな時代じゃないですか。ビルボードのチャートの結果だってすぐに入ったかどうかはわからないし、更にいば、グラミー賞なんてまだマイナーな存在でテレビ中継が大きく行われたものでもなかったわけじゃないですか。

坂本九のスティーヴ・アレン・ショーを見た日本人なんてほとんどいなかったと思うし、アストラッドももしグラミーのパフォーマンスとか受賞の旬庵とか今みたいに瞬時に映る世の中だったら、もっと「快挙だー!」となったと思うんですけど、それが起こらなかったのは不幸だったかな。

ただ!

それでも両曲ともに、時代を先駆けたグローバル・ヒットのパイオニアだった音には変わりはないです!


そのヒットの要因は、偶然の要素が圧倒的に強くはあります。シーンが丸ごとついてきたわけじゃないですしね。そこが今のKポップやレゲトンとの違いではあるんですけど、それでも、「きっかけさえあれば、非英語圏でも、アメリカやヨーロッパの国じゃなくても世界的ヒットを出すことは可能」であることを証明できた貴重な曲です。もっと大事にしてもいいような気はしてます。

一つだけ言えるのは、これに負けてしまったのかなあ。

ビートルズ!

 彼らだって、それまでイギリスの音楽なんてあまり知られていなかったところから始まったわけですしね。ただ、スキヤキとイパネマと決定的に違ったのは、ロックバンドというカルチャーで数10年も世界の音楽を変えていってしまった、いわばルールを作ってしまった側面のある音楽だったわけですからね。それに太刀打ちできなかったことが、もしかしたら古く見える理由になっているのかなとは感じます。

ただ、同時代にグローバル・ヒットとして世界を賑わせた事実は変わらないわけだし、リスペクトはされてほしいですけどね。





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