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追悼・坂本龍一 教授への悔恨と敬意

どうも。

ついにこの日が来てしまいましたね・・・。

坂本龍一さんが亡くなってしまいましたね。高橋幸宏さんの後を追うように。がんで闘病中の話はもう何年も前から聞いてはいたので、この日が遠くはないとは思っていましたが、いざやってきてしまうと淋しく悲しいものがあります・・・。

 あれだけの功績残された方です。いろいろな方が多くのことを語るのは間違いありません。その中で僕がこの場を借りて一筆をふるうことはもしかしたら失礼にあたることかもしれません。ですが、「海外エンタメ・ブログ」なるものを音楽ジャーナリストを名乗ってジェネラルな立場で運営している立場上、語らないわけにはいきません。至らないところはあるかとは思いますが、それでもよろしければ読んでいただきたいと思います。

 まず、ひとつ坂本教授にお詫びしなければならないことは、僕が決して良いリスナーとは言えなかったことです。積極的にアルバムを聴いたということは、今日までありません。むしろ、これから知らないといけないことばかりです。

 ただ、そんな僕でも、「亡くなった」と聞いて脳裏を去来するものは数多くあります。そのことについて語りたいと思います。

 僕の記憶の中での最初の坂本教授といえば、やはりこれになります。

この「いけないルージュマジック」ですよね、キヨシローとの。これ、日本の音楽史上、それまででもっともグラムな瞬間でしたね。両者のファッションもそうでしたけど、このプロモ映像の最後に2人で濃厚にキスするんですよ。1982年初頭、ちょうど小学校の最後の学期の頃でしたけど、最高に刺激的でしたね。

こうやってテレビ、出てたんだもんなあ、普通に。

キヨシローや教授が誰なのかは、事前になんとはなしに知っていて興味はありました。

ちょうど同じころに、「音楽専科」と言う雑誌で、「8ビートギャグ」と言う漫画がありまして、そこに教授と「ジャパンのデヴィッド・シルヴィアンがデキてる」というネタで頻繁に登場しましてですね。ちょうど洋楽に凝り始めて、なんでも根掘り葉掘り聞いてた時期だったんで興味惹きましたね。

そこにプラスして

1983年には「戦場のメリークリスマス」での、デヴィッド・ボウイとのこの絡みでしょ。すごいなと思いましたよ、子供心に。存在そのものが、日本を飛び越えてユニバーサルにセンセーショナルな感じがして。

 そうかと思えば、歌謡曲のアレンジを斬新な形でキメてみたり、

YMOで、謎でしかなかったコントをやってみたりですね。今から考えたら、めちゃくちゃオルタナティヴな刺激に富んだメディア攻勢ですよね。今にして思えば、こういうう刺激をポップ・ミュージックにこそ求め続けているというか、それが40年前の日本にしっかり存在したんだなと思うわけです。

 ただなあ、YMO散解までの1983年の末までに、僕がYMOにハマるということは、結局一度もなかったんですよね。非常に残念なことに。理由はいくつかあって。ひとつはその頃、ほぼ洋楽にしか目にくれず邦楽をほぼ全く聞かなかったこと。さらにYMOが、その当時、僕が聞くの苦手だったインストをやる人たち、といういイメージがあったこと。「君に胸キュン」出てもその印象、僕の中ではそんなに変わらなかったんですよね。あと、年齢的に僕から20歳近く離れていた。ここもちょっと近づき難かった理由にもなってますね。

 そういうことがあったため、同世代の音楽の批評家や関係者、マニアの方に比べて、僕は専門的に教授を語ることができないんですよね。今でも世代の近いマニアの方々がYMOやあの頃の日本のニュー・ウェイヴ・カルチャーをすごく語られるんですけど、僕からはそういう引き出しがなくて、正直、すごくうらやましいというか。というか、それは20数年前にも感じたことがあって。音楽ジャーナリストにフリーでなった頃、邦楽もやってたんですけど、やっぱり僕の邦楽知識って洋楽を経由したものの上でしかなく、直接的にはまった邦楽ってほとんどなかったから、自分の中でどうしても「偽物の邦楽リスナー」な罪悪感みたいなものがどうしても生まれてしまって。それで職業としての邦楽ライターを引き上げてしまった、というのが、理由の中の半分くらいは実は占めていたりもします。

 ただ、それでも坂本教授の作る曲というのは、僕の中で惹きつけるものというのはありまして

https://www.youtube.com/watch?v=tTrlRXRnzho

このあたりの曲のシンセの音色とかコードってやっぱり好きでして。そのままディグってしまえばよかったんですけど、その当時はサブスクもなかったからそんなに簡単にはできないし、日々、聞くものもたくさんあったので、なかなか手付かずにはなりましたね。

そんな坂本教授が80年代前半のセンセーショナルな存在から「世界のサカモト」になった瞬間というのがありまして。それが


オスカーの作品賞も受賞した映画「ラスト・エンペラー」のサントラを、トーキング・ヘッズのデヴィッド・バーンと共同で手がけてスコアでオスカー受賞ですよ。国際的に「記録」に残ることをしっかり成し遂げてしまったわけです。

 あの当時まだ、「日本の音楽は世界では通用しない」と言ういわれかたをしていました。その理由を「日本語」という、英語からかけ離れたもののせいにしようとする人もたくさんいました。スペイン語でも韓国語でも関係なくなってしまった今となっては形骸化する説になっていますが、その当時は真剣にそう考えられていた。そんな世の中において、坂本教授は言葉を介さずに音楽で世界を超えた。「日本人が音楽で国際的な存在になるんはそれしかない」と思われていた時代にそれを成し遂げた。その意義は大きかったと思うところです。

教授に関しては90年代以降も注目を集めることは続きまして


このあたりも人気でしたよね。どちらも好きでした。ただ、深くはアプローチせず。ここでも後悔は残りますね・・・。

 その他で語られることに関していえば、僕が坂本さん以上には音楽について語ることはまだ可能なくらいに好きな矢野顕子さんとのことに関していえば、これに関してはだらしなくは感じるので矢野さんを支持したいと思ってたり、あと、「反戦反原発」の主張に関しては、その文言を直接目に触れたり影響を受けたということではないですが、僕の生活上で培ったいろんな視点からそちらに関しては共感はするし、及び腰になって何も言えなくなりがちな日本のアーティストの中でひとつの姿勢を見せていることはリスペクトしてるつもりです。

 ただ、そうしたこと以上に、今はもう過去作品に触れやすくもなった昨今ですから、後悔の気持ちや、日本の音楽界が失った大きな宝の喪失感とともに、改めて坂本教授の作品に向かい合って、そのレガシーを伝え継ぐのに微々たる貢献ができれば良いなと思っているところです。

改めてご冥福を祈りたいと思います。RIP



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