戸田真琴さんについて

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子供の時から一人でいることが好きだった。外で誰かと遊ぶよりも、部屋に篭って音楽を聴いたり本を読んだりする方が好きだった。そういう人は普通に沢山いると思うけれど、今思い返すと子供の頃の自分は少し度が過ぎていたかもしれないとも思う。

小学校三〜四年生の時の或る日のこと。学校から帰って部屋で本を読みながら音楽を聴いていたら、母親に「外で遊んできなさい」と言われた。同じことはそれまでにも度々言われたけれど、「音楽を聴いてるから」とか「本を読んでるから」と言ってやり過ごしてきた。この日も同じようにやり過ごすつもりだったのだけれど、母親は頑として譲らなかった。いつも一人で部屋に篭ってばかりいる俺のことが本気で心配になってきたのかもしれない。
仕方がないので外に出たけれど、どうにも気が進まなかった。彼らの輪の中に後から自分が入ることで、場の雰囲気を白けさせてしまうんじゃないか、楽しい雰囲気に水を差してしまうんじゃないか。人と接することへの苦手意識が強かったので、どうしてもそんな風に考えてしまうのだった。だけど母親の剣幕を考えると家に帰れそうにもない。どうにもならなくなった末に思いついたのが、どこかに隠れて時間を潰すことだった。

当時住んでいた社宅の玄関の横に小さな鉄扉があり、鉄扉を開けるとその中はパイプシャフト(ガス管や水道管が通る空間)で、小さな子供なら体を縮めれば入れるくらいのスペースがあった。幸いなことにうちは社宅の一階だったから、そこに身を隠すことが出来る。我ながら良いアイディアだと思った。

体を縮めて小さな暗闇の中に潜り込み、膝を抱えて座り込んだ。暫くすると頭がぼんやりし、体がふわふわしてきた。多分ガスの臭いで少しラリってたんだと思う。社宅の小さな公園で遊ぶ子供たちの声を掻き消すために、当時大好きで毎日のように聴いていたサイモン&ガーファンクルのベスト盤を何度も脳内再生して過ごした。自分を包む暗闇が心地良かった。

「もうそろそろいいかな」と思って外に出たら、日が暮れようとしていた。「そんなに長い時間隠れていたのか・・・!」と驚いたけれど、何事も無かったかのような顔をして家に帰った。「随分長いこと遊んできたねぇ」と言う母親に「うん、凄く楽しかったから」と答えた時、何故かほんの少しだけ胸が痛んだことを覚えている。

人と接するのが苦手になったのは、小学校一年生の時の転校がきっかけだと思う。引越しをしたのは一学期を終えた後の夏休みの時のことだ。ようやくクラスメイトたちと仲良くなったばかりなのに転校しなければいけないのが物凄く悲しかった。電車で4駅隣の町への引越しだから今思えば全然大した距離ではないのだけれど、当時の自分にとっては世界の裏側へ引っ越すくらいに感じられたのだ。
記憶には全く無いのだけれど、引越しの当日、嫌がって家の柱にしがみついた俺を引き剥がすのが大変だったそうで、余りにも強くしがみついていたため、無理に引き剥がしたときに肩が抜けたらしい。

二学期になり、新しい学校に登校した。先生の後について教室に入ると、クラスメイトたちが楽しそうに騒いでいた。きっと夏休みの間に沢山遊んで仲良くなったんだろう。そんな彼ら彼女らの前に独り立つ余所者の俺。クラスメイトたちの目が一斉に自分に向けられ、騒がしかった教室が静まり返った。不意に訪れた静寂とクラスメイトたちからの視線に気圧されつつ、先生に促されて自己紹介をした。少しの間を置いて「変な名前〜」という声が聞こえた。悪気は感じなかった。素直にそう思っただけなのだと思う。自分でも珍しい名前だと思うし。だけど、これが決定的だった。

異質なもの(=初めて目に、耳にしたであろう珍しい名前)に対するクラスメイトたちの反応は、素直であるが故に容赦の無いものだった。小学校三年生の時には「ホメイニ」というあだ名を付けられた。「子供なのにイラン・イスラムの最高指導者の名前を知ってるなんて凄いなぁ、しかも「こめいじ」と「ほめいに」でちゃんと韻を踏んでるじゃないか」と今ならば感心するけれど、当時はそのあだ名が嫌で仕方がなかった。

足が速いとか面白い話が出来るとか勉強が出来るとか、一目置かれるような要素が何かひとつでも自分にあればこの状況を覆すことも出来たのだろうけれど、残念なことに俺は運動神経ゼロで、面白い話も出来ず、成績は中の中〜上を行ったり来たりという感じで、何かに秀でた人間ではなかった。他所の町から来た変な名前の地味な奴というポジションを覆せるような要素を何ひとつ持ってはいなかった。

この頃から「自分は明らかに変わり者として見られている」と意識させられるようになったのだけれど、その後自分の方でも彼ら彼女らと自分はどこか何かが違っているのだと感じるようになった。

当時クラスで流行っていた音楽はザ・ベストテンやザ・トップテン等で流れる歌謡曲だった。クラスメイトたちは休み時間になるとそれらの話題で盛り上がるのだけれど、母親のレコードの影響でビートルズやサイモン&ガーファンクル等が大好きだった俺はその輪の中に入ることが出来ない。「このままじゃ孤立してしまう、何とかして歩み寄らなきゃ」と思い、共通の話題を得るために歌番組を観てみるのだけれど、どうしても好きになれず、結局はテレビを消して母親のレコードを聴いてしまうのだった。「学校に自分の居場所は無い」と思った。そうしていつからか休み時間を一人図書室で過ごすようになった。
小学校五年生の時にようやくビートルズが好きだという友人に出会えたのだけれど、その時にはもう自分は他の人たちとは違う、普通じゃない人間なのだと思うようになっていた。

だけど、その一方でこうも思っていた。「誰かと遊ぶよりも、一人で音楽を聴いたり本を読んだりするのが好きなこと。他の人たちとは違う音楽が好きなこと。ただそれだけのことが何でそんなにおかしいんだろう?本当は自分こそが普通で、変わっているのは周りの皆の方じゃないのか?」と。

自己否定と自己肯定の終わりなき円環の中で、当時の俺はどうしようもなくひとりぼっちだった。

後に本音で付き合える親友と出会うことになるのだけれど、それはもう少し後のことだし、孤独であることが実は悲しいことでも何でもなく、素晴らしいことなのだと思えるようになるのは更にもっと後のことなので、ここでは省略する。

去年の暮れに出版された戸田真琴さん(以下、まこりん)の処女作『あなたの孤独は美しい』には、彼女が自らの孤独と真摯に向き合うことで少しずつ丁寧に編み上げてきた「戸田真琴哲学」と言うべき彼女の思想の基礎が、彼女の生い立ちと共に綴られている。

一読して先ず思ったのは「子供の頃の自分に読ませてあげたかった」ということだ。誰かと遊ぶよりも一人で音楽を聴いたり本を読むことが大好きで、周囲と上手く歩調を合わせることが出来なかったあの頃の自分に「無理に周りに合わせる必要は無いんだよ」と言ってくれる人がいたならば、そう教えてくれる表現物に出会えていたならば、こんなに捻くれた人間ではなく、真っ直ぐで素直な人間として育ったかもしれないよな、と思ったのだ。
そして同時に、周囲に流されたり、無理に歩調を合わせたりせずに、自分の生き方を貫いてきたあの頃の自分を褒めてあげたい気持ちにもなった。胸を張って立つことこそ出来なかった弱い自分だったけれど、本心を偽らずにいたこと、本当に好きなものを好きでい続けた自分を褒めてあげたくなった。

「自分はどこかおかしいんじゃないか?」という自己否定と、「自分ほどまともな人間はいない!」という自己肯定が延々とループし続ける日々は物凄くキツかった。でも同時に自分自身と向き合い続けてきたからこそ今の自分を確立出来たとも言える。真っ当な人間とは程遠いし、多分相変わらずどこかおかしい奴なんだろう。でも生きていくことは出来る。まこりんもそんな風にして自らの思想を、哲学を編み上げてきたんじゃないだろうか。

赤裸々に告白されるまこりんの生い立ちは彼女の思想と哲学が迷いの森の中で少しずつ編み上げられていく過程であり、あやふやな「自分」という存在の輪郭を、傷つきながら確かなものにしていく過程そのものでもある。そしてそれはいつの日か、かけがえのないたったひとつの「自分」を見出していくことへと繋がっていく。「孤独」とは、誰もが皆かけがえのないたったひとつの「自分」であるということだ。だから彼女は「あなたの孤独は美しい」と真っ直ぐに告げるのだ。

もうあと数年で俺は50歳になる。それでも未だに今を生きるのに精一杯だから昔のことを思い返すことは滅多にないのだけれど、『あなたの孤独は美しい』を読んだら当時の記憶が鮮明に蘇ってきた。多分まこりんの生い立ちと自分のそれとがどこかしら似た部分があるから(更に言うと物事の考え方や感じ方、気質も似ている部分があるなぁと思った)、読みながら自然と自分の過去のことが思い出されたのだと思う。
不思議なもので、楽しかったことよりも悲しかったこと、苦しかったことの方がはっきりと思い出せるのだけど(悲しみや苦しみを乗り越えた時にこそ人は大きく成長する。だからこそより深く記憶に刻まれているのだろうか)、少しも嫌な感じはしなかった。40年近くの時を超えて、あの頃の自分をまこりんが全力で肯定してくれたように感じたからだ。

親娘ほど年の離れた女の子に共感し、その言葉に強く心を動かされ、勇気を貰うなんておかしいと思う人もいるかもしれない。でも騙されたと思ってまこりんの本を読んでみて欲しい。

既に書いたように、処女作『あなたの孤独は美しい』には彼女の思想と哲学の基礎が、目茶苦茶にもつれた糸をゆっくり丁寧に解きほぐす優しい手のような言葉で綴られている。

二冊目の『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』はまこりん哲学を更に押し進めた本であると同時に、朱玉の言葉たちが鏤められた一編の詩でもある(と俺は思ってる)。東京の明るい夜空に疎らに散らばる星屑たちを精一杯掻き集めて作られた首飾りのように美しい言葉が頁のそこかしこに鏤められている。俺が今までに読んだ中で五本の指に入るくらい美しい一節が掲載されているんだ。勿体無いから引用はしないけれど。

気になるけど本を買うのはちょっと・・・という人は、ネットでまこりんの文章を読んでみて欲しい。彼女のnote.に掲載されている文章は勿論、媒体への寄稿文にもしっかり「戸田真琴哲学」が刻み込まれているから。

最後にまこりんの初監督映画『永遠が通り過ぎていく』を観に行った時のことを。

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