中田考『どうせ死ぬ この世は遊び 人は皆』の箇条書きの感想


・ヨーロッパ諸語の「私」は考える主体ではなく、「私」というものは自分という「フィールド」で機能する客体ってことを言語化してもらってすっきりした。自分などいないというのはそういう意味で解釈できる。

・この本で「場」とよばれてるものはヒッグス場とかの「場」(フィールド)で、作者自身(もちろん私も)きちんとわかってるわけじゃないと思う。思うけど、わかる。自分ってのは自分も素粒子も認識可能な最大の宇宙まで全部が俎上に乗せられるフィールドだ!と思った。

・ランボーがJe est un autreって言ったとき、それは主格優勢言語においてはとても意味があることだった。日本語にとってはむしろ「私」という客体が日常から存在することにショックをうけた。

・日本語の構造は私を客体にはまだ十分していないから、このまま私に飲み込まれないように日本語を誘導してくれるような模範的文章を書く人が俟たれる

・本を読んでて1番面白いのは、いま生きてるやつですごく賢い人がオフレコとかエッセイで、根拠はないけど好きなようにかたってくれる部分だ。

・これ、中田考のラディカルな部分をかなり前面に出してていいと思う。神がいない「あなた方は」「こう考えるんだよね?」だったらこうなるよね?ってのを言っている。相手の論理だけを使って相手の足元をすくう。ジャン・ジュネも同じことをしていた。「私たちは」ではなく、「あなた方は」で文章を展開してる

・二人称でしか話のできないエイリアンのSFとか徹底的にやったら面白そう。一人称も三人称もないのに、二人称単数と複数だけの文法しかないの。面白そうじゃない?ひたすら相手の言ってることでしか文章を構成できないの。なぜって言語は他人であるあなたから学ばされたからです。

・太宰治っていつも二人称を意識してるからなんか新鮮な感じがするんだよね。読者であるお前を意識してるし、語り手の対象を意識してるから。太宰治を二人称しか知らないエイリアンだと思って読むと面白くなりそう

・何かが欠落しているものが何かがあると言うことを知ることと、欠落していない立場の人が欠落している人のことを知るとき、どちらがより容易だろう?つまり、客体としての私がない言語を話す私と、ある言語の人がない言語を理解することのどちらが容易だろう?

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