『翼 李箱作品集』斎藤真理子訳を読んで


光文社のサイトより
https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334101299

   すばらしい訳本が出た。本文はもちろん、80ページ近い豊富な解説も含めて、とても学ぶところが多い。小説、手紙、随筆、詩と李箱の仕事を網羅的に収録してあり、現状購入できる書籍があまりないなかで(青空文庫にはいくらかあるものの)文庫という手に取りやすい形で出版がされたことに静かに感動している。

青空文庫の李箱のページ
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1597.html

   本文についてはあとに回すとして、解説がたいへんありがたく感じられた。Wikipediaだけではわからない都市生活者としての李箱、当時京城と呼ばれたソウルのカフェー文化、封建的意識と20世紀の若い人たちの新しい思想のあいだの葛藤や、ハングルによる書き言葉の成立等々、限られたページの中で幅広く考察がなされている。これだけで何冊も本が書けるテーマで、興味のつきない語りだ。

   さて、自分でも訳した『翼』のなかで、自分にはよくわからなかった部分が気になっていた。

拙訳
https://note.com/thegreenknight/n/n54b2d69b75ef

   ひとつ目は、主人公の住む部屋の引き戸の隅にラベルのようなものが貼ってあるという箇所、「わたしの部屋の引き戸のうえ、かたすみに短剣標の厚紙※を四つに切ったものくらいの、ひとつの私のーいや!妻の名札がはってあるのも、この風俗にしたがうのにほかならない。」と自分では訳した部分、特に註をつけた「칼표 딱지를 넷 에다낸 것」の訳が気になっていたが、斎藤訳でも「当時のタバコのラベルと推定されるが詳細は不明」(p.29)とあり、正確なところは現状ではわからないようで残念だった。今後、意味がわかるようになる日を待ちたい。

   それから、どうしても訳に自信が持てないと書いた箇所、小説の最後にちかく、主人公がアスピリンではなくアダリンを飲んでいたことに混乱して彷徨するところで「길가의 돌창」とあり、これを道端の石倉と自分は訳したのだけれど、斎藤訳では「道端の溝」となっており、他の本も同様なので、やはり溝と解したほうが良いようだ。だが、少なくともNAVERにはそのような訳が出てこないので、今後も自分なりに調べる機会があればと思っている。

  今回、はじめて「失花」と「逢別記」を読み、これがとてもおもしろくて、横光利一の「蝿」を読んだときのような、新鮮な印象をもった。人物の心象もふくめて叙述しているところが蝿とは異なるけれど、時間と空間を自由に飛びまわりながら独白をつみあげていく方法は場面がめまぐるしくかわる映画を見ているような感覚がした。文章にはこのようなこともできるのかと思った。李箱が好きではない人にとっては、読みづらい文体で書かれた男女のたわむれにも思われるのかもしれないが、文章のたわむれである小説という形式にはぴったりしているように思える。
   手紙も詩的な表現にあふれており、近況報告というよりも、文学的情熱にあふれた青年が自分自身を文体によって伝えようとする様子が感じられ、九人会の熱気をも想像させるものがある。

  訳者は作家のみならず当時の知識人階層における日韓の二重言語を解説していた。かつて日常では韓国語をもちいる知識人階層が抽象的思考は日本語で行っていたが、韓流アイドルや、さらに日韓混合のアイドルが両言語をまじえて歌っている現代においては、あたらしく統合的な意味がうまれているようにも思える。この「韓流」ということばは、韓国語ならハルリュウだし、日本からならカンリュウで、まさにこの言葉自体が二重言語そのもののようにも感じられる。
   「腐れ縁」という言葉がずっと私の頭のなかにある。このことばは「くされ」という和語と「縁」という漢語でできており、日本語の二重言語体制(現代では英語も含めた三重言語と言っていいと思う)について考えてきたことがあり、本書を読み、日韓の二重言語についても、たとえばむかしの漢文のようなリングア・フランカが再びあらわれてこないだろうかと想像している。

   語り口はいくらでもある。とにかく、本書を読んでみてほしい。おすすめの一冊ということは間違いない。

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