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何もない(2023年7月8日)

久々にフヅクエへ。

今、自分は本に何を求めているのだろうと考えると、「何もないこと」とかが一番適切だろうか。衝撃的なラストや難解な思想はいらない。気持ちが凪の状態になるような作用を本に求めている気がする。それは常日頃からそう思っているのではなく、ここ最近の話だ。

翻訳家である藤本和子のエッセイ『イリノイ遠景近景』は、自分の欲求に真正面から応えてくれた気がする。

何でもない日常。トウモロコシ畑が目の前に広がる家からトウモロコシ畑が目の前に広がる家に引越した話。リタイアしたおじいさんたちの会話をドーナッツ屋で盗み聞きしている話。死んだ人の散髪をする理髪店の男の話。何も学びにならないし、衝撃もない。でも、それが今の自分には心地よかったのかもしれない。

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偶然手に取った本。

身の回りのあらゆるものが「雑貨」となる。すべてのモノは消費され「雑貨化」していく。

無印良品に言及していたエッセイがおもしろい。

商品カタログにはこんな前書きがついている。「ものに囲まれてくらす。すっきりとした空間ですごす。使い勝手のよい部屋で快適に生活する」。つまり物にうずもれようが、ショールームみたいな部屋で暮らそうが、どんなライフスタイルであろうと、ここちよく使いやすい無印良品を利用する余地があることをしめしている。<中略>無印良品は、どうやってもライフスタイルを確立できず、日常にむなしさをかかえこんでしまう自国民の存在さえ見越しているかのようだ。

三品輝起「雑貨の終わり」64頁

無印良品が我々の生活に侵食していく。「ノームコア」が推し進められ、個性が失われていく未来をこの文章から想像してしまい、ちょっと怖くなった。

その他もいいエッセイだな。軽く読んで帯を眺めていたら、どうやら著者の雑貨屋は西荻窪にあるようだった。今いるフヅクエから徒歩20分。

雑貨屋「FALL」

せっかくなのでこの雑貨屋で本を買った。店主はおそらくこの本の著者だろうか。大げさに深くお辞儀をして本をレジに通してくれた。使っていた特大サイズの電卓、かわいかったな。

一緒に買った「紙のお香」

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今日は「何もない一日」だったのだろうか。

日曜日に言われた「何もなさすぎて特別だった」。この言葉が今も残っている。何もない日常を一緒に味わうことに喜びを感じる。

ただここまでくると「何もなさ」に飢えているような気がして健康的じゃなくないような気もする。

これからも、「何もなかった」という主旨の文章を書き続けようと思う。


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